夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「視線」と「目線」その2

2008年11月21日 | Weblog
 人間の目は水平に付いている。即ち、左右を見るのに都合が良い。なぜなら、動物は左右に動く。鳥は上下にも動くが、それでも飛ぶ時に垂直には動かない。エレベーター方式ではなく、エスカレーター方式で動く。水平に移動しながら高さを増して行く。
 そうした物を追跡するのには、目は水平に付いている必要がある。しかも左右に二つある。顔も上下よりは左右の方が動き易い。従って、「視線」は左右に自由に動く。だが、上下には動きにくい。だから「視線」の向きも制限される。
 辞書が言う「方向・方角・位置」はその内容が微妙に違う。「方向・方角」は決して上下ではない。左右である。それに対して「位置」はもちろん「方向・方角」も含むが、それなら、何も「位置」などと言う必要はない。「位置」とわざわざ言うからには、その意味は「方向・方角」ではないはずだ。
 こうした事から、「視線」は「左右=方向・方角」と深く関わるが、「位置」を「視線」に関わらせるのは難しい。「位置」に関われるのは「上下」の動きに関係する「目線」である。「目線」はその人の目の高さによって決まってしまう。だから「位置」を表すのである。

 お分かりと思うが、「視線」は一定の目の高さで左右を向く。「目線」は左右の問題ではなく、人それぞれに高さが異なる。その高さが、いわゆる「目線」なのである。
 「視線」と言う優れた言葉があるにも拘わらず、「目線」なる言葉があるのは、その必要があるからだ。「定年」が本来は「停年」であり、「停年」よりは分かり易いだろうと考え出された言葉であるのと似て、「視線」では言い足りない所を演技での「目線」の言葉を上手く利用した言い方が生まれたのではないだろうか。
 「停年・定年」では同じ年齢を示す事になるが、「視線」と「目線」は同じ事を表す訳ではない。だから「停年・定年」のような表記だけの違いではなく、発音も表記も違うのだと思う。
 これは全くの私見であるが、そうと考えないと、現在のように「目線」が好んで使われている理由が分からなくなる。

 こうした事を国語辞典はどのように解釈しているのだろうか。『新明解国語辞典』の見解は昨日紹介したので、他の辞書の「目線」の説明を見る事にする。
『岩波国語辞典』
・目の見る方向。視線。▽映画・演劇界で使われて広まった語。
『新撰国語辞典』
・(演劇・テレビ業界の用語から)視線。「目線をそらす」
『明鏡国語辞典』
 1 映画・演劇などで、演技として行われる、目の方向や位置。「目線をもう少し下げてみよう」
 2 物事を見る場合の、目の占める方向や位置。「犯人と同じ目線で物を見ている」
 3 俗語。視線。「目線をそらす」「背後に目線を感じる」
『大辞泉』
・(映画・演劇などで用いる語から)視線のこと。「目線が合う」「目線をそらす」
『広辞苑』
・視線。もと、映画・演劇・テレビ界の語。

 『明鏡』を除いてはみな同じだ。「目線=視線」である。でも「目線をそらす」や「背後に目線を感じる」は「視線」の方がずっと自然である。「しせん」には「刺線」の響きが感じられる。だからこそ、「背後に視線を感じる」や「視線をそらす」の言い方が生きて来る。こうした場合には「目線」の影は非常に薄い。
 『明鏡』の2の説明は『新明解』と同じだが、用例の「犯人と同じ目線で物を見ている」を見ると、私の「目の高さ」だけでは言い足りない感じがして来る。「犯人と同じ目の高さ」ではあるが、「犯人と同じ目の方向」でもある。
 ただ、そうなるとどうしても「目線=視線」で終わってしまう。6冊の辞書がすべて同じなのだが、私はそれに納得してはいない。そんなのお前の勝手だろう、と言われても、納得が行かない。
 「大人の目線」と「子供の目線」は絶対に違うと思う。しかし「目線=目の向く方向・方角・位置」なら、違いは無い。だから「目線=目の高さ」は成立すると思っている。国語辞典の説明は意外といい加減だったり、曖昧だったりする事が少なくないから、私は自分の勝手な見解に固執しているし、それを不遜とは思っていない。
 国語辞典での言葉の意味の説明については、改めて言及したい。