夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

なぜ、亡くなった人の評価をするのか

2008年11月13日 | Weblog
 相手は誰でも良いと言って、全くの無関係な青年をひき殺した残虐な少年がいる。無惨にも亡くなったのは銀行員の24歳の男性。相変わらずキレ易い子供の犠牲になった。親は息子のそうした性格を知っていたはずだ。きちんとした子育てが出来ていない。それは一人この親子に限った事ではない。多くの日本人がきちんとした子育てが出来ていない。
 なぜか。自分がきちんと育てられていないからである。熟年ならほとんどの人がそう言っている。愛情が十分ではなく、単に金と物だけが十分な環境で育てられた。そして今の子供はゲームソフトの黒か白かの世界に夢中になっている。幅広く豊かな、何事をも包んでしまうような深い灰色の世界にはまるで縁が無いし、興味を持たない。
 そうした事に何の疑問も抱かない業界に私は大きな怒りを覚える。世の中の様々な経験を経て、身の回りの出来事に判断の出来るような大人がゲームにはまるのなら分かる。だが、まだ真っ白と言っても良いくらいの子供に黒か白かのゲームに夢中にさせて良い訳が無い。
 カルテルを結んだとしてEUから巨額の制裁金を課せられた日本の有名ガラス会社がある。もちろん、ヨーロッパの会社も加わっている。日本では鋼板カルテルで著名な会社の子会社が捜索を受けている。日本を代表する大企業が恥も外聞もなく、金の亡者に成り下がっている。

 そうそう、こうした事を言うつもりではなかった。今日の言いたい事は、タイトルにある「なぜ、亡くなった人の評価をするのか」である。亡くなった青年の銀行の上司は、顧客からも同僚からも、面倒見のいい評判の良い青年だった、惜しい人を亡くした、とテレビで話していた。
 本当に、なんで個人の評価が問題になるのか。多分、本当に人柄の良い、仕事も出来る人だったのだろう。だから、悲しい、悔しい、惜しい、そうした気持がこのような言葉になるのだろう。しかし、もしその人が平々凡々たる、あまり目立ちもしない人だったらどうなるのだろうか。
 けれども、そうした場合だって、悲しい、悔しい、と思う気持は同じである。だから、それだけでいいではないか、と私は思う。余計な評価などしなくて良いではないか。多分、この上司はもっとたくさんのほかの言葉を口にしたのだろう。それをテレビはほんの一部だけつまみ食いをして流した。こうした言葉が世間に訴える力があると錯覚をしたのだろう。これはたまたまテレビで見ただけだが、新聞も同じような事を平気でする。挨拶も出来る明るいお子さんだった、などと言う近所の人の話を載せる。
 こうした話を見聞きするたびに、私は、じゃあ、挨拶の出来ない、明るくもない子だったら、殺されてもいいのか、と言いたくなってしまう。もちろん、言った人がそんな事を思っているはずが無い。しかしそれだけを目立たせられると、ついつい、そうも思ってしまうではないか。

 要するに、余計な無駄な話だと思う。普通なら、亡くなった人を悲しむ思いと、殺人者に対する憎しみだけで胸が一杯になってしまうのではないのか。亡くなった人へのせめてものはなむけの言葉だとも考えられるが、そんな事をしている場合ではない。誰しもが同じ思いをしているのだから、そんな事は伝える必要は無い。もっと別の伝えるべき大事な事があるだろう。10も20もある事のほんの一つしか伝えられないマスコミとしては、本当に伝えるべき事だけを伝える事に専念すべきだ。受けのいい表現を使おうなどと、そんな事を考えるから、こうした報道になるのである。

 同じ感激の感想でも、例えば北京オリンピックでの北島康介選手の場合は、「なんも言えねえ」と言う感激の言葉と、汗や水滴を拭く振りをして涙を拭いていたあの姿は、並みの感激の言葉ではない。だから各テレビはあのシーンを何度も流した。
 亡くなった人への思いを感激の場面と比較するなどとんでもない事だが、素晴らしい事をやり遂げた人の場合にはこのようであって当然だが、悲しみに沈んでいる場合にはそれなりのふさわしいやり方があると言いたいだけである。亡くなって惜しいのはどんな人が亡くなったって同じなのである。