夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

田母神論文は「日本人だれもが思っていること」か?

2008年11月08日 | Weblog
 11月7日の東京新聞に妙な事が載っている。

 政府筋は6日、田母神論文について、「麻生政権の一員として(個人の)持論を言うのは適切ではない」としながらも、「あんなもの、大した論文じゃない。日本人みんなが思っていることだ」と記者団に述べた。
 新テロ対策特別措置法改正案の審議中に論文が公表された点については「言ってはいけないタイミングだ。給油を継続したくない(野党の)人たちを利する」と指摘した。

 以上が小さな囲み記事のおよそ3分の2。見出しは「日本人みんな思っていること」である。

 この記事だけを読むと、内容が駄目だとは言っていない。むしろ褒めている。「日本人なら誰もが思っている」事、なんだから、そうなる。政府筋だって思っている訳だ。ただ、言った時期が悪かったのだ、と。
 「大した論文じゃない」との判断も非常に程度が低い。みんなが思っている事をきちんと筋道立てて言うのがどれだけ難しい事か。それが出来ていたからこそ、最優秀論文と認められたのではないのか。
 日本人みんなが思っていたって、単に漠然とした考えしかなければ、それは何の力にもならない。他国から「違うぞ」と突っ込まれたら、多分何の反論も出来ずに引き下がらざるを得まい。
 今までがそうだったではないか。すべてそうだったじゃないか。

 私は常々、日本人は筋道を立てた考え方をするのが苦手だと思っている。なぜなら、新聞の記事にしても、ベストセラーのノンフィクションにしても、いい加減な論理の物が非常に多い。どうしてこれで納得が行くのかと、大きな疑問がある。A→B→C→D→Eと論理が進んで行く場合に、A→Bの部分に論理の通らない事があれば、以下はすべて駄目になる道理である。AだからEだ、とはならない。それなのに、堂々とそれが成り立ってしまっている。A→Bの部分のいい加減さを見逃しているからだ。
 なぜか。その原因の一つに日本語の情緒的な表現に騙されている事が挙げられる。簡単に言えば、言葉に騙されている。そんな曖昧な言葉がいかに多いか。身の回りにうようよしている。
 大体、我々自身、きちんと考える事が不得手らしい。それが昨日も書いたが、国語辞典の様々な説明に明確に現れている。言葉の説明一つ、きちんと出来ないで、筋の通る論理は展開出来ない。下手をすれば、ちょっとした間違った言い方に引きずられて、それ以降がどんどん変な方向に向かってしまう事が多々ある。
 私自身、書いていて、接続詞を間違って、その後がおかしくなってしまった事を何度も経験している。順接の接続詞であるべき所に逆接の接続詞を使ってしまうと、何と、その「逆接」の気分に流されてしまう。文章と言うのは気分に乗って書いている。そうでなければ文章など書けない。書きたい、と言う気持が書かせている。だからこそ、自分自身の言葉が必要になる。他人から借りた言葉では、自分の思っている事の表現は出来ない。
 もちろん、書いた後に、自分の言葉を他人のもっと良い言葉に置き換える工夫は出来る。それは書き終わった後だからこそ出来るのであって、途中でそれをやると、往々にして失敗する。

 この田母神論文について、何と、私はまだ読んでいないで、こうした事を書いている。なぜなら、読んでしまうと、その内容に多分、引きずられる、影響される、と思っているからだ。そこには私の知りたい事が書かれているはずで、それによって、私はこの論文を納得するか納得しないかに分かれると予想している。
 だから、読まずに、ただ、この論文について、誰がどのように考えているかを見たいと思っている。中身を知らないからこそ、冷静に周囲の態度が見えるのではないだろうか。