夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

民放でCMの入らないドラマは出来ないのか

2008年11月28日 | Weblog
 評判のNHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。我が家は同局の受信状態が極度に悪い。盛大なゴーストが出て、文字は読めないし、画面は見るに耐えないほどの汚さである。それにも拘わらず同番組を我慢して見ているのは、作り方が素晴らしいからだ。
 劇中、お決まりのテーマ音楽が流れる。静かな音楽が、静かな画面にまことにふさわしく流れる。ああ、作曲家はさぞかし感激しているだろうなあ、と私は思う。一つのメロディーが様々な異なる場面で見事に生きている。
 出演者も自分の演技が、多分、幾つものシーンに分けて撮影されたであろうシーンが、緊張感のある一つの流れのある構成に編集されて、ああ、良かったなあ、と思っていると思う。
 そう、このドラマには常に緊張感がある。それは演出が上手いからだけではない。一番の功績は、CMが入らない事である。
 民放ではどんな素晴らしいドラマでも、映画でも、簡単に緊張が絶ち切られてしまう。だからちっとも面白くない。そしてCM後には、お決まりの前のシーンが繰り返される。単に冗漫なだけで、そこに緊張感などあるもんか。

 私のこのようなつまらない文章でも、一応は流れを意識して書いている。接続詞一つでもいい加減には出来ない。そして何度も読み返して書き直している。だから一つのブログを書くのに相当な時間が掛かる。そんな訳で、忙しい時はつい休みたくもなる。だがせっかく訪れてくれた人をがっかりさせてしまうのは嫌なので、何とか書いている。
 映画やドラマがぐさぐさと切られたり、一部が繰り返されたりしたら、制作者はもちろん、それに関わった人達はさぞかし嫌だろう。しかも単に切られるだけではない。全く関係のないシーンが、それこそ場違いなシーンが平気で登場する。悲しいシーンに続いて、げらげらと笑い転げているようなシーンが挿入されたら、一体、肝心の番組はどうなってしまうのか。

 CM無しでは放送が出来ないと言うのは分かる。しかし何が何でもCMが必要なのではないはずだ。テレビ局は局全体で収支が取れればよい。本当は莫大な利益など要らないのである。すべての経費を払って、次の番組が作れる余力が残るほどの利益で良いのである。それが公共の電波を使っている者の義務でもあるはずだ。
 しかし、限られた電波を使用して、限りなく利益を挙げる事が認められている。そんな考えられないような便宜を与えられているのだから、せめての恩返しをしたってばちは当たるまい。
 局がこれぞと思ったドラマをCM無しで放送するのである。儲けられればとことん儲けようなどと言う汚い根性を無くせば、簡単に出来る事ではないのか。

 大体、CMは単にイメージを流すだけで、我々の実際の役には立っていない事が多い。売りたいその商品についての情報など流しはしない。実際、私はブラザーのファクス、プリンター、コピー、スキャナーを兼ねた複合電話機が欲しいのだが、テレビのCMでは知りたい情報は何も流れない。通販でA4用紙が使える製品を売っているが、A3の用紙が使える製品がある事を知った。そのA3の製品が欲しい。仕方なくインターネットで情報を得たが、CMとはそんなものなのである。
 そんな役にも立たないCMで番組と言う肝心の売り物を安っぽくしてしまう事にテレビ局は何とも思っていない。どうやら、任務を間違えておいでのようである。もっとも、そんなCMで商品に魅力を感じてしまう人々がたくさん居るのもまた事実である。何でそんなもんで惹き付けられるのかと私は不思議でたまらない。
 パナソニックが自社の石油ファンヒーターの徹底的な回収をした事を我々は今でもはっきりと覚えている。その間同社のCMはこのお知らせだけになった。にも拘わらず、同社の同期の利益は過去最高となったのである。
 消費者はそのCMに同社の良心を見た。CMなんて、何も商品のイメージを流すだけが能ではないのだ。CMを流さない事が、かえって最も効果的なCMになるのである。