夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

車の必要性を考える

2008年11月11日 | Weblog
 自動車産業が不況だと言う。乗用車の売れ行きががた落ちである。でも考えたらあまりにも乗用車に頼って来たのではないか。必要の無い人にまで乗用車を売り込む事で、産業の牽引役を果たさせて来た。昔から優秀なセールスマンの第一はエスキモーに麦藁帽子を売り込む事とされて来た。麦藁帽子ではあまりにも安くて簡単な物だから、余計な物としての実感が無いが、熱帯地方の人に分厚い毛皮のコートを売り込む事に例えれば、よく分かる。
 都市から路面電車が退去させられたのは、車のせいだった。車の洪水で路面電車の定時運行が出来なくなり、車からは邪魔者扱いをされて、庶民からは惜しまれつつ消えて行った。その洪水の主が乗用車だったのか、トラックやバス、荷物車だったのかを調べる必要は無い。現在の車産業の不況が乗用車の不況である事を見れば、一目瞭然である。

 東京では、路面電車の代わりに地下鉄が建設されているが、その地下鉄の利用のしにくさと言ったら、もう筆舌に尽くしがたい。例えば駅間が1キロ程の場合、地下鉄で行こうとすれば、乗車駅で延々と階段またはエスカレーターで下りて、5分とか10分とか待って電車に乗る。降車駅では再び乗車駅と同じ情況を繰り返す。そんな事なら歩いた方がずっと速い。その点、路面電車ならさっと乗れてさっと降りられる。待ち時間はあっても、歩くのととんとんだったりする。
 マイカーの氾濫で、路面電車やバスの利用客は減り、それが更にマイカーの激増を招くと言う悪循環があらゆる所で起きている。高齢者や学童が一人でマイカーを利用出来る訳が無い。そんな事もみんなが気にしない。
 結局、庶民の足は産業界の利益追求の犠牲になり、その産業界はやはり利益追求第一として契約社員ばかりでの経営になる。その契約社員は会社の利益が減れば、いとも簡単に解雇されてしまう。何から何まで、産業界の利益追求の犠牲になっている。

 一般的な社会の目からは隠され続けているそうした実態が、世界的な不況によってあからさまになっただけの話である。乗ったタクシーの運転手が言った。額に汗して働く者が馬鹿を見るなんて絶対に間違っていると。金に金を産ませる仕組みが破綻しつつある。
 それでも人々は性懲りもなく、株価が暴落した時は「買い」だとの指南を信じて、金の無い庶民までもが手を出そうと言う。どこかで、無責任な話を広めている連中がいるらしい。専門家は、下がったらまた買い、それでもまた下がったら、また買う、そうした事を際限なく繰り返せる資力が無い限り、その指南は役には立たないと言う。当たり前だ。

 ここまで拝金主義が蔓延しているとは思わなかった。それは産業界だけの事だと思っていた。しかし今では、庶民の心まで蝕んでいる。それだもの、簡単に騙される訳だ。もしかしたら、自分もまたそうした産業界の端に連なる事が出来ると錯覚をしているのかも知れない。いやいや、我々はみんな、錯覚をしている。我々は全員、健康で文化的な生活を憲法で保障されていると思っているからだ。
 まさか、健康を害する米を農水省が率先して斡旋していたなどとは思いもよらない。老後を保障する年金を厚生労働省が自分達の金のように湯水のように使っていたとは想像だに出来なかった。いや、自分達の金ではないと知っていたからこそ、湯水の如く使えたのである。
 厚生労働省を私は「厚労省」などと書きたくも言いたくもない。「功労省」と間違えるではないか。

 鹿児島県だったか、大きなスーパーが自前で買い物客のためのバスの運行を始め、非常に喜ばれていると言う。本来なら自治体がやらなければならない事を、一企業がやっている。利益が目的だよ、などと言うなかれ。企業も客もどちらも喜べればそれで良いではないか。今は、企業と客を天秤に掛けたら、絶対に企業の方が重いのである。国と国民の関係もまた同じ。