夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「目線」は下品な言葉か

2008年11月20日 | Weblog
 東京新聞のコラムに「視線」の代わりに「目線」という言葉を使う事がそもそも下品である、との意見があった(11月3日)。理由は、「視線」が自然なものであるのに対して、「目線」は、撮影の時に目を向ける方向の事で、そもそも作り物である、と言うのである。
 この意見が重要なのは、その事から「目線」の言葉を使っての政治家の言葉からは、国民と同じ地平から物を見る事は出来ないが、一応は国民と同じように物を見る振りをすると言う、権力者の偽善が伝わって来る、との見解に達している事にある。
 これが私には分からない。
 確かに「目線」は演技での用語である。『新明解国語辞典』は次のように説明する。

・目線=(舞台・映画撮影などで)演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・角度など。俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる。

 目の動きに応じて顔も動かす、と言うが、舞台では、顔を動かさなければ目が動いている事は分からない。映画だって、顔を動かした方が、目を動かしている事がずっと分かり易いはずだ。それに、「視線」では目は動かさないと言い切れるのか。大きく視線を動かすためには、顔を動かさなければ駄目だ。顔を動かさずに動かせる「視線」の方向なんて、たかが知れている。
 上記は国語辞典の説明に対する疑問だ。そしてコラムに対する疑問もまたある。「視線」は自然で、「目線」は作り物との考え方である。演技だから作り物で、演技ではないから自然だ、などとどうして言えるのだろうか。作り物の「視線」なんて幾らでもあるだろう。
 そして現在では、「視線」の代わりに「目線」と言う事も多いはずだ。特に「○○と同じ目線で物を見ている」などの言い方では、「視線」ではその気持を表す事が出来ないと思う。この場合の「目線」とは物の見方の位置を指しているはずだ。「方向」でも「方角」でもなく、「位置」だと私は思う。と言うよりも、そう感じてしまう。「方向」や「方角」なら「視線」で十分に事足りる。
 だが、物の見方の「位置」なら、「視線」では気持が表せない。「目線」でないと駄目だ、と私には感じられる。

 コラムの執筆者は「国民目線」と言う言葉が政治家の口からしばしば聞かれるが、この言葉は大嫌いだ、と言う。では「国民視線」と言えば良いのか。執筆者は麻生邸見学ツアーに行った反貧困運動の参加者がただ道を歩いていただけで、三人も逮捕された事について、この逮捕は首相が自らの特権性に対する国民の視線を遮断したいという意向が警察に伝わり、その結果起こされた弾圧としか思えない、と書いている。
 この場合は確かに「国民の視線」である。「国民の目線」ではない。なぜなら、単に「国民が見ている」と言っているだけだからだ。そしてこの場合に「国民の目線」とは出来ない。「国民の目線を遮断したい」と言って、その意味が伝わるだろうか。私は伝わらないと思う。「目線」と言う言葉を使うなら、「国民と同じ目線で」のような使い方しか無いだろう。
 「国民の目線を遮断したい」と「国民と同じ目線で考える」の「目線」の意味は絶対に違うと思う。と言うか、「国民の目線を遮断したい」との言い方は成り立たない。つまり、「視線」と「目線」は品の善し悪しではなく、意味が違うと思うのである。
 そうした意味で、執筆者の言う「目線」の言葉を使っての政治家の言葉からは、国民と同じ地平から物を見る事は出来ない、とはならず、「目線」の言葉を使うからこそ、国民と同じ地平から物を見る事が出来るのだ、と私は信じている。「位置」つまりは「地平」である。

土地神話と日本の物価を考える

2008年11月19日 | Weblog
 世の中にこれほど人を騙して儲けようという人間が多いとは思わなかった。近年続出した食糧のごまかしがそうだ。あれは食べてしまえば証拠が残らないから、猫も杓子もやっただけの事である。だから、工業製品のように、きちんと証拠が残ってしまう分野では出来ない。単にそれだけの話である。工業製品だって、ごまかしが簡単に通るのであれば、多くの企業がごまかしをしているに違いない。工業製品の業界と食糧品の業界が極端に異なるはずが無い。
 そうそう、その確実な証拠があった。建物の強度の偽装である。橋梁でも偽装があった。いずれも建ててしまえば誰にも分からない。それこそ大震災にでも遭わなければ、永久に分からないだろう。
 こうした事は物欲から生まれている。金が欲しい、それだけの事で人を不幸に陥れても平気なのである。金、金、金。その一つに私は土地の価格があると思う。特に大都市の土地の価格はべらぼうである。もしも、地方の農地が東京のような土地の価格だったら、農産物は現在のような価格では作れない。1キロ400円前後の米など、その何十倍、何百倍になるだろうか。それで我々は暮らして行けるか。
 しかし都会人は健気にもそれで生きている。東京が世界一物価の高い都市なのは、土地の価格がおかしいからである。その高い土地代が我々の消費財に掛かっている。その土地代を消費者に転嫁出来ない店などは、続々と潰れている。

 住宅も同じだ。家の取得価格、賃借料が馬鹿高いから、生活が圧迫され、夫婦共稼ぎなど当たり前のようになっている。日の暮れるのが早い今の時期、午後5時半を回ると辺りはもう真っ暗である。その中を、近くの小学校から学童達が群れをなして帰って来る。学童保育の子供達である。授業が終わっても、家に帰っても誰もいないので、学校で預かっているのだ。
 これが当たり前の生活だろうか。もちろん、共稼ぎが家の代金ばかりではないのは承知の上。携帯だのゲーム機だのと金の掛かる製品が多過ぎる。電話会社は自分達の利益の事しか考えず、小学生にまで携帯を持たせたがる。新潟県のある市の教育委員会が小学生の携帯自粛を決めたのは当然なのだ。親だって贅沢品が欲しいだろう。

 土地代の高さがすべての物価を押し上げる元凶になっている。これが自由主義経済だと言うのか。今、東京を始めとする全国の都市の土地代を当たり前の価格に下げて、様々な物価を計算してみたら、どうなるか。中国で物を生産すると格段に安く出来るのと同じである。その中国製品の価格にしたって、そこにはたっぷりと日本の企業の利益が盛り込まれているはずだから、本当はもっとずっと安いのだろ。そうした事が日本でも実現出来る計算になる。
 今の日本は徹底的な悪循環に陥っていると思う。物価の高さが給料の高さに影響し(とは言っても、現在は極端に切り下げられているが)、それが物価を押し上げる。それがまた給料に影響する。土地は元々は国民の共有の財産のはずである。私財を投げ打って干拓した、あるいは開墾した土地などは別だが、元々存在していた土地を勝手に私有して、その土地代を釣り上げる。これを「自由」とは言えないと私は思う。
 物の値段は、それを産み出した労働の値段に準じるべきだと思う。労働の値段を安くしたいのなら、あらゆる物価を下げる事だ。それには元凶となる土地の値段を下げる事だ。

 物の値段は生活水準が同じようなら、国が違ってもほぼ同じはずである。しかし日本の土地はそうはなっていないはずである。そこには何らかの不自然さが存在する。それは何か。それを考えるのは、自由主義経済の下でも出来る。それが正真正銘の「自由」なのではないのか。


「ごまかす」の語源は?

2008年11月18日 | Weblog
 何で「ごまかす」と言うのかと気になった。
 ある大型辞書に次のような説明がある。

 胡麻胴乱を胡麻菓子(ごまかし)と言ったことから、見せけだけよくて内容の伴わないもの。

 その「胡麻胴乱」は「文化・文政年間に江戸にあった菓子。小麦粉にゴマをまぜて焼きふくらましたもので、中は空であった」との説明しか無い。別に、胡麻を入れたから中が空洞になった訳ではないらしい。中が空洞の焼き菓子に胡麻が入っているだけなのだが、「胡麻菓子」の名前が定着していて、中身の無い事の譬えとして「ごまかし」と言うようになったのか。
 「ごまかす」には別の説もある。
 盗人を「ごまのはい」と言う。その「ごま」に「紛らかす」などの語尾が付いて「ごまかす」になったのだと言う。食べて旨いだろう「胡麻菓子」よりも、怖い油断のならない「ごまのはい」の方が「ごまかす」の語源としてはずっとふさわしいと私は思う。
 盗人を「ごまのはい」と呼ぶのは、弘法大師の「護摩の灰」と偽って、偽物を押し売りした連中になぞらえた事による。
 弘法大師の護摩の灰→詐欺→護摩の灰→「護摩+紛らかす」→ごまかす
の変化の方が、
 胡麻胴乱→胡麻菓子→ごまかす
よりも少々複雑ではあるが、私は納得がし易い。ただ、「護摩の灰」については、「護摩」が仏前で木などを燃やして仏に祈る儀式である事を理解している必要がある。
 先の辞書もこうした話は知っているだろう。でも、決然として「胡麻菓子」からの言い方、と断言しているその自信の根拠を知りたいと思う。

 こうした説とは別に、私はもっと単純に、「胡麻で化かす」から「ごまかす」だとばかり思っていた。胡麻は万能の調味料になる。胡麻油にしても、擦り胡麻にしても、調理の最後にほんの少々加えるだけで、風味が一段と増す。
 「胡麻風にする=胡麻化す」は成立しないだろうか。

ズボンの尻を撮影したら「みだら」なのか

2008年11月17日 | Weblog
 最高裁で、ズボンの尻を撮影した事が「みだらな言動」に当たるとして、有罪となった。高裁でも有罪だったから、高級審が揃って有罪と認めた訳だ。新聞には「ズボンの上からの撮影でも被害者が不安を覚える行為」と指摘したとある。
 「被害者が不安を覚えるかどうか」も決め手らしいが、有罪か無罪かの分かれ目は、どうやら「尻を狙って撮影したかどうか」にあるらしい。なぜなら、無罪として簡裁は、「衣服の上から撮影しており、尻を狙って撮影したとも断定できない」としているのに対して、高裁は「尻を狙って撮影したことは認められ、社会通念上許されないみだらな言動」としているからだ。

 そうか、人間の体は興味を持って見る人がいれば、簡単にみだらな部位に堕落するのか。でも、尻ってそんなにみだらだろうか。俗に尻の大きい女性は安産型だと言われている。それは子宝の象徴でこそあれ、決してみだらな存在ではない。
 尻だけを取り出したからみだらなのか。いや、そんな事は無い。尻だけよりも、体全体の方がずっと刺激的なはずだ。言い換えれば、「みだら」になり得る。尻だけにしか興味を持たないなら、それは単に「部品」としての肉体にしか興味の無い、極めて異常な人間だと思う。
 被告はカメラ付き携帯で11回も撮影しており、いささか異常だが、それだって程度の問題だろう。判決は1回だから良くて、11回だから駄目だ、とは言っていないらしい。回数の事は措くとして、ではそうした「みだらな」部分を持ち、それをズボンで強調したとも思える女性の責任はどうなるのだろう。
 この女性はズボンで自らの尻が強調される事を十分認識しているはずだ。多分、ぴっちりとしたズボン姿だったから、被告は撮影する気になったはずだ。撮影されたから迷惑だと言うなら、そんな「みだら」な肉体をこれ見よがしにする事はもっと迷惑である。
 大体、セクシーでない衣服など女性が着るもんか。男性だって、若い男性なら十分セクシーさを意識していて当然である。

 「みだら」を強調しても罪にはならないが、「みだら」を執拗に見れば罪になる訳だ。もしも、撮影ではなく、ずっと付いて歩いて見ているだけだったら、一体罪は成立するのかしないのか。いわゆるストーカーではなく、単に見ているだけだったら、付いて歩いている、と言う事さえ立証出来るのか。
 これが何でもない事で、写真を撮られ続けている場合で考えてみる。それは普通の人なら嫌だ。迷惑だ。しかし、自分でも何で撮られているか想像が付くような姿格好をしているなら、一概に迷惑とは言い切れなくなるのではないだろうか。見る人によりけりだが、見詰められてしまうような原因を自らが作っているのだ。それを本人が認識していないはずが無い。

 人間の体は異性にとっては全身がセクシーな対象になる。どこをどのようにセクシーと思うかは人それぞれである。尻に全く興味を持たない人だっているだろう。この裁判官は高裁、最高裁のどちらも、自分は女性の尻に非常にセクシーな興味を持ちます、と告白しているようなものだと私は思う。私は彼等に、このほかにどこを撮ったらあなたは「みだら」だと思いますか、と聞いてみたい。反対に、みだらではない部分はどこですか、と。
 こうした考えを読んで、変な理屈だなあ、と思う人もいるだろう。ただ、私は安易に「みだら」だとか「みだら」ではない、などと言う事に大きな疑問を持っているに過ぎない。

インターネットが故障した

2008年11月15日 | Weblog
 おとといの13日、突然にインターネットが駄目になった。私の使っているのはずっとマックで、インターネット・エクスプローラー5だ。インターネットを立ち上げると、通常はマックのホームページになる。それをグーグルのブログに変えている。その初期画面でフリーズしてしまう。何度やっても駄目。仕方が無いから、極力避けよと言われている強制終了をしなければならなくなる。
 システムの入れ替えをしたり、何とか復旧した。こうなると、インターネット・エクスプローラーを使いたくなくなる。こうした経験はATOKでもしている。バージョン14で、日本語変換でフリーズする。エディターで作業している場合など、目も当てられない。40字詰めで50行、つまり2000字も書いた所でフリーズされたら、本当に怒り狂ってしまう。エディターでは自分で保存を掛けなければ、自動的に保存の機能は無い。2000字は跡形もなく消え去るのみ。
 そんなの気を付ければ良いではないか、とも思うが、普段頻繁に使っているDTPソフトでは2分おきに自動保存する設定にしているので、ついつい自動保存に慣れて、うっかりしてしまう。
 まあ、しょせんは機械のやる事で、大幅に信頼するのが間違っている。でも考えてみれば、周囲はすべて機械化になっている。スーパーのレジではバーコードが読み取れなくて、何度も何度もやり直している場合も少なくない。そんなのを見ると、いらいらしてくる。機械が読み取れないのなら、人間が値段を打ち込めば良いではないか。だが、バーコードが頼りで、商品に値段の付いていない場合もある。
 銀行のATMでは一人の人間がを5分も6分も機械を占領している。多分、やりかたが分からないのだろう。周りの機械ではもう何人もの人が入れ替わっているというのに。
 私は最終的に信頼の出来るのは人間しかいないと思うのだが、その人間をいとも残酷にしかも価値の無いかのように扱っているのが、現代の企業である。そして景気の悪化と共に、いとも簡単に崩れて行く。

 インターネットの故障もあるが、外勤の仕事を始めたので、ブログを書く時間が大幅に制限されるようになった。日記のようなスタイルではなく、まとまりのある事を書こうと思うと、結構大変な作業になる。一回のブログでも、仕事の遅い私は2時間から3時間も掛かっている。特に言葉に関する事だと、何冊もの辞書を調べ、相当な手間が掛かる。毎日きちんとした発信をしている人を見ると、どうしてそんなに才能があるのかと、羨ましくなる。
 今までは夜中に作業も出来たが、これからは早寝早起きが必須なので、それも出来ない。
 そんな訳で、これからは毎日更新は無理な場合がありそうなので、覗いて下さる方に、あらかじめ、一言お詫びを申し上げておきます。でも極力穴を開けないように頑張りますので、これからも覗いてやって下さい。

なぜ、亡くなった人の評価をするのか

2008年11月13日 | Weblog
 相手は誰でも良いと言って、全くの無関係な青年をひき殺した残虐な少年がいる。無惨にも亡くなったのは銀行員の24歳の男性。相変わらずキレ易い子供の犠牲になった。親は息子のそうした性格を知っていたはずだ。きちんとした子育てが出来ていない。それは一人この親子に限った事ではない。多くの日本人がきちんとした子育てが出来ていない。
 なぜか。自分がきちんと育てられていないからである。熟年ならほとんどの人がそう言っている。愛情が十分ではなく、単に金と物だけが十分な環境で育てられた。そして今の子供はゲームソフトの黒か白かの世界に夢中になっている。幅広く豊かな、何事をも包んでしまうような深い灰色の世界にはまるで縁が無いし、興味を持たない。
 そうした事に何の疑問も抱かない業界に私は大きな怒りを覚える。世の中の様々な経験を経て、身の回りの出来事に判断の出来るような大人がゲームにはまるのなら分かる。だが、まだ真っ白と言っても良いくらいの子供に黒か白かのゲームに夢中にさせて良い訳が無い。
 カルテルを結んだとしてEUから巨額の制裁金を課せられた日本の有名ガラス会社がある。もちろん、ヨーロッパの会社も加わっている。日本では鋼板カルテルで著名な会社の子会社が捜索を受けている。日本を代表する大企業が恥も外聞もなく、金の亡者に成り下がっている。

 そうそう、こうした事を言うつもりではなかった。今日の言いたい事は、タイトルにある「なぜ、亡くなった人の評価をするのか」である。亡くなった青年の銀行の上司は、顧客からも同僚からも、面倒見のいい評判の良い青年だった、惜しい人を亡くした、とテレビで話していた。
 本当に、なんで個人の評価が問題になるのか。多分、本当に人柄の良い、仕事も出来る人だったのだろう。だから、悲しい、悔しい、惜しい、そうした気持がこのような言葉になるのだろう。しかし、もしその人が平々凡々たる、あまり目立ちもしない人だったらどうなるのだろうか。
 けれども、そうした場合だって、悲しい、悔しい、と思う気持は同じである。だから、それだけでいいではないか、と私は思う。余計な評価などしなくて良いではないか。多分、この上司はもっとたくさんのほかの言葉を口にしたのだろう。それをテレビはほんの一部だけつまみ食いをして流した。こうした言葉が世間に訴える力があると錯覚をしたのだろう。これはたまたまテレビで見ただけだが、新聞も同じような事を平気でする。挨拶も出来る明るいお子さんだった、などと言う近所の人の話を載せる。
 こうした話を見聞きするたびに、私は、じゃあ、挨拶の出来ない、明るくもない子だったら、殺されてもいいのか、と言いたくなってしまう。もちろん、言った人がそんな事を思っているはずが無い。しかしそれだけを目立たせられると、ついつい、そうも思ってしまうではないか。

 要するに、余計な無駄な話だと思う。普通なら、亡くなった人を悲しむ思いと、殺人者に対する憎しみだけで胸が一杯になってしまうのではないのか。亡くなった人へのせめてものはなむけの言葉だとも考えられるが、そんな事をしている場合ではない。誰しもが同じ思いをしているのだから、そんな事は伝える必要は無い。もっと別の伝えるべき大事な事があるだろう。10も20もある事のほんの一つしか伝えられないマスコミとしては、本当に伝えるべき事だけを伝える事に専念すべきだ。受けのいい表現を使おうなどと、そんな事を考えるから、こうした報道になるのである。

 同じ感激の感想でも、例えば北京オリンピックでの北島康介選手の場合は、「なんも言えねえ」と言う感激の言葉と、汗や水滴を拭く振りをして涙を拭いていたあの姿は、並みの感激の言葉ではない。だから各テレビはあのシーンを何度も流した。
 亡くなった人への思いを感激の場面と比較するなどとんでもない事だが、素晴らしい事をやり遂げた人の場合にはこのようであって当然だが、悲しみに沈んでいる場合にはそれなりのふさわしいやり方があると言いたいだけである。亡くなって惜しいのはどんな人が亡くなったって同じなのである。

理屈では生きられないし、身も守れない

2008年11月12日 | Weblog
 日本は憲法で戦争を放棄した。素晴らしい理念である。だが、もしも他国から攻められたらどうなるのか。そのために自衛隊がある、と言う設定になっている。自ら戦争を仕掛ける事は出来ないが、守る事は出来る。
 では、守ると言うのはどのような事なのか。日常の生活ではどのような事になるのか。例えば、盗難には厳重に鍵を掛ける。自転車などは二つも鍵を掛ける事が勧められている。交通事故や他人から受ける身の危険には、常に気を配っている事しか出来ない。しかし昨日もあったように、後ろから故意に車ではねられたら、もうどうしようも無い。秋葉原の事件のように、赤信号を無視して殺意を持った車に突進されたら、やはりどうにもならない。日本のようなどこでも日本語が通用し、多くの人々が単一民族だと錯覚するくらいな平和な国でも、危険はあらゆる所に潜んでいる。それが、国が違ったらどのようになるのか。すぐ隣には、簡単にテポドンなどを発射してしまう北朝鮮がある。

 自らを守ると言うのはそんなに簡単な事ではない。何とか平和に暮らせているのは、信じ合う事が出来ているからだろう。しかしそれが国際的にも通用する事だと思えるだろうか。もしも、自分が食べる物にも困ったら、果たしてそのまま死を待つ事が出来るだろうか。多分、多くの人々が他人の食べ物を奪うだろう。よほど力の弱い者ではない限り、そうするだろう。
 心を持っているはずの個人でさえそうなるのだから、心など持たない国になったら、一体どのような行動に出るか。人々の心を抹殺する事なんか簡単に出来る国家だからこそ、恐ろしいのだ。

 国は個人などとはスケールの大きさが違う。個人が自分を守るような気合いでは、国は守れない。何しろ、仕掛けて来るのが個人では想像も出来ないスケールの国なのだ。我々日本人は自分の身の回りが安心だから、と国までも安心だと思い込んでいる。
 でも現実に、韓国は竹島を自国の領土だと主張して占領している。ロシアは日本領土の千島を無法占拠したままである。中国だって大同小異である。相手は十分戦うつもりである。日本が弱腰だから舐めて掛かっている。
 それを歴代の日本政府は平和外交だと主張して、自らのだらしなさを弁護している。憲法で規制されて守る事しか出来ないのであれば、その守りはもっともっと真剣に血の出るような思いでしなければ嘘だ。政府首脳は自らの身はそうして守っているはずだ。
 野党だって同じだ。自分の身は真剣に守っているくせに、国の身を守るのには真剣になっていない。それが、いまだに戦後処理をきちんと出来ていない事に明確に現れている。航空自衛隊の隊員が真剣になって考えれば、それを躍起になって押し潰そうとする。押し潰すのではなく、これを機会に国を挙げて全員で考え直せば良いではないか。

 この国の「偉い」人々は、誰も彼も、面倒な事、難しい事、隣国を刺激するような事、そうした事は考えたくない。隣国だけではない、世界中の国々から平和な国、素晴らしい国だと思われていたい。カッコ付けて何が嬉しいのか。
 国が国民個人を守る気が無いのは、拉致被害者に対する対応を見ればよく分かる。他力本願、それしか無い。自らは何の犠牲も払おうとは思わない。自分さえ安全なら、国民なんかどうだって良いのである。与党だって野党だって同じ穴のむじなである。拉致被害者が身の危険を冒して母国にして来た連絡を、事もあろうに北朝鮮に売ったと言われている野党党首だっているのである。
 そうした人々が今更戦争当時の日本の考えや日本の在り方を再検討しようなどと思うはずも無い。自分がやるつもりが無いのは構わない。そんな期待はしていない。だが、他人が考えようとするのを妨げようとするのは許せない。

車の必要性を考える

2008年11月11日 | Weblog
 自動車産業が不況だと言う。乗用車の売れ行きががた落ちである。でも考えたらあまりにも乗用車に頼って来たのではないか。必要の無い人にまで乗用車を売り込む事で、産業の牽引役を果たさせて来た。昔から優秀なセールスマンの第一はエスキモーに麦藁帽子を売り込む事とされて来た。麦藁帽子ではあまりにも安くて簡単な物だから、余計な物としての実感が無いが、熱帯地方の人に分厚い毛皮のコートを売り込む事に例えれば、よく分かる。
 都市から路面電車が退去させられたのは、車のせいだった。車の洪水で路面電車の定時運行が出来なくなり、車からは邪魔者扱いをされて、庶民からは惜しまれつつ消えて行った。その洪水の主が乗用車だったのか、トラックやバス、荷物車だったのかを調べる必要は無い。現在の車産業の不況が乗用車の不況である事を見れば、一目瞭然である。

 東京では、路面電車の代わりに地下鉄が建設されているが、その地下鉄の利用のしにくさと言ったら、もう筆舌に尽くしがたい。例えば駅間が1キロ程の場合、地下鉄で行こうとすれば、乗車駅で延々と階段またはエスカレーターで下りて、5分とか10分とか待って電車に乗る。降車駅では再び乗車駅と同じ情況を繰り返す。そんな事なら歩いた方がずっと速い。その点、路面電車ならさっと乗れてさっと降りられる。待ち時間はあっても、歩くのととんとんだったりする。
 マイカーの氾濫で、路面電車やバスの利用客は減り、それが更にマイカーの激増を招くと言う悪循環があらゆる所で起きている。高齢者や学童が一人でマイカーを利用出来る訳が無い。そんな事もみんなが気にしない。
 結局、庶民の足は産業界の利益追求の犠牲になり、その産業界はやはり利益追求第一として契約社員ばかりでの経営になる。その契約社員は会社の利益が減れば、いとも簡単に解雇されてしまう。何から何まで、産業界の利益追求の犠牲になっている。

 一般的な社会の目からは隠され続けているそうした実態が、世界的な不況によってあからさまになっただけの話である。乗ったタクシーの運転手が言った。額に汗して働く者が馬鹿を見るなんて絶対に間違っていると。金に金を産ませる仕組みが破綻しつつある。
 それでも人々は性懲りもなく、株価が暴落した時は「買い」だとの指南を信じて、金の無い庶民までもが手を出そうと言う。どこかで、無責任な話を広めている連中がいるらしい。専門家は、下がったらまた買い、それでもまた下がったら、また買う、そうした事を際限なく繰り返せる資力が無い限り、その指南は役には立たないと言う。当たり前だ。

 ここまで拝金主義が蔓延しているとは思わなかった。それは産業界だけの事だと思っていた。しかし今では、庶民の心まで蝕んでいる。それだもの、簡単に騙される訳だ。もしかしたら、自分もまたそうした産業界の端に連なる事が出来ると錯覚をしているのかも知れない。いやいや、我々はみんな、錯覚をしている。我々は全員、健康で文化的な生活を憲法で保障されていると思っているからだ。
 まさか、健康を害する米を農水省が率先して斡旋していたなどとは思いもよらない。老後を保障する年金を厚生労働省が自分達の金のように湯水のように使っていたとは想像だに出来なかった。いや、自分達の金ではないと知っていたからこそ、湯水の如く使えたのである。
 厚生労働省を私は「厚労省」などと書きたくも言いたくもない。「功労省」と間違えるではないか。

 鹿児島県だったか、大きなスーパーが自前で買い物客のためのバスの運行を始め、非常に喜ばれていると言う。本来なら自治体がやらなければならない事を、一企業がやっている。利益が目的だよ、などと言うなかれ。企業も客もどちらも喜べればそれで良いではないか。今は、企業と客を天秤に掛けたら、絶対に企業の方が重いのである。国と国民の関係もまた同じ。

田母神論文は「日本人だれもが思っていること」か?

2008年11月08日 | Weblog
 11月7日の東京新聞に妙な事が載っている。

 政府筋は6日、田母神論文について、「麻生政権の一員として(個人の)持論を言うのは適切ではない」としながらも、「あんなもの、大した論文じゃない。日本人みんなが思っていることだ」と記者団に述べた。
 新テロ対策特別措置法改正案の審議中に論文が公表された点については「言ってはいけないタイミングだ。給油を継続したくない(野党の)人たちを利する」と指摘した。

 以上が小さな囲み記事のおよそ3分の2。見出しは「日本人みんな思っていること」である。

 この記事だけを読むと、内容が駄目だとは言っていない。むしろ褒めている。「日本人なら誰もが思っている」事、なんだから、そうなる。政府筋だって思っている訳だ。ただ、言った時期が悪かったのだ、と。
 「大した論文じゃない」との判断も非常に程度が低い。みんなが思っている事をきちんと筋道立てて言うのがどれだけ難しい事か。それが出来ていたからこそ、最優秀論文と認められたのではないのか。
 日本人みんなが思っていたって、単に漠然とした考えしかなければ、それは何の力にもならない。他国から「違うぞ」と突っ込まれたら、多分何の反論も出来ずに引き下がらざるを得まい。
 今までがそうだったではないか。すべてそうだったじゃないか。

 私は常々、日本人は筋道を立てた考え方をするのが苦手だと思っている。なぜなら、新聞の記事にしても、ベストセラーのノンフィクションにしても、いい加減な論理の物が非常に多い。どうしてこれで納得が行くのかと、大きな疑問がある。A→B→C→D→Eと論理が進んで行く場合に、A→Bの部分に論理の通らない事があれば、以下はすべて駄目になる道理である。AだからEだ、とはならない。それなのに、堂々とそれが成り立ってしまっている。A→Bの部分のいい加減さを見逃しているからだ。
 なぜか。その原因の一つに日本語の情緒的な表現に騙されている事が挙げられる。簡単に言えば、言葉に騙されている。そんな曖昧な言葉がいかに多いか。身の回りにうようよしている。
 大体、我々自身、きちんと考える事が不得手らしい。それが昨日も書いたが、国語辞典の様々な説明に明確に現れている。言葉の説明一つ、きちんと出来ないで、筋の通る論理は展開出来ない。下手をすれば、ちょっとした間違った言い方に引きずられて、それ以降がどんどん変な方向に向かってしまう事が多々ある。
 私自身、書いていて、接続詞を間違って、その後がおかしくなってしまった事を何度も経験している。順接の接続詞であるべき所に逆接の接続詞を使ってしまうと、何と、その「逆接」の気分に流されてしまう。文章と言うのは気分に乗って書いている。そうでなければ文章など書けない。書きたい、と言う気持が書かせている。だからこそ、自分自身の言葉が必要になる。他人から借りた言葉では、自分の思っている事の表現は出来ない。
 もちろん、書いた後に、自分の言葉を他人のもっと良い言葉に置き換える工夫は出来る。それは書き終わった後だからこそ出来るのであって、途中でそれをやると、往々にして失敗する。

 この田母神論文について、何と、私はまだ読んでいないで、こうした事を書いている。なぜなら、読んでしまうと、その内容に多分、引きずられる、影響される、と思っているからだ。そこには私の知りたい事が書かれているはずで、それによって、私はこの論文を納得するか納得しないかに分かれると予想している。
 だから、読まずに、ただ、この論文について、誰がどのように考えているかを見たいと思っている。中身を知らないからこそ、冷静に周囲の態度が見えるのではないだろうか。


「強」と「弱」の正しい説明は?

2008年11月07日 | Weblog
 ある番組で7つで200万円の値の付いた物を「一つ30万円弱だ」と言っていた。別に間違いは無い。しかし私は一瞬、間違っていると思ってしまった。一つ30万円なら7つで210万円になる。それが200万円なのだから、10万円の切り捨てになる。切り捨てだから「弱」ではなく「強」ではないか、と思ったのだ。それで「一つ30万円強」になるのではないか、と早合点したのである。
 210万円が200万円になるのなら、「200万円強」と言えるが、これは一つの値段の話であり、一つは平均約28万6千円だから、30万円弱なのだ。
 
 念のために、いつもの事ながら、国語辞典を見た。
Aの辞書
・強=切り捨てた端数のあることを示す語。⇔弱。「五百円強・三キロ強」
・弱=近似値の示し方の一種。ある数をある桁で切り上げた時に添える語。⇔強。「三千名弱」

 本当に毎度の事ながら、どうしてこのようにまるで異なる説明になるのだろう。反対語がそれぞれ「弱」と「強」なのだから、同じ概念に決まっている。例えば次のように出来ないのか。
・強=近似値の示し方の一種。切り捨てた端数のあることを示す。
・弱=近似値の示し方の一種。切り上げた端数のあることを示す。

Bの辞書
・強=単位量の整数倍に端数が何ほどか加わることを表わす語。「五キロ強」⇔弱
・弱=単位量の整数倍に何程か足りないことを表わす語。⇔強

 Aの辞書と全く同じ事が言える。しかも片方は「何ほど」で、もう一方は「何程」である。片方には「端数が」とあり、もう一方には無い。しかも用例も片方だけにしか無い。別にスペースが無い訳ではない。私は馬鹿じゃなかろうか、としか思わない。

Cの辞書
・強=その数よりも、少し多いことをしめす。たとえば、「一・三二」を「一・三強」という類。
・弱=その数よりは、すこし足りないことを示す語。「五十八人」を「六十人弱」という類。

 反対語は説明の前に示されている。説明は良い。特に用例の説明がきちんと出来ている。ただし、こうした説明よりも、例えば「強」では、〈実際の数が、示した数よりも少し多いことを表す。例えば、実際の数が「一・三二」の場合に「一・三強」として示したりする〉などとすれば、もっと分かり易くなる。
 そして「も」と「は」の違い、「少し」と「すこし」、「しめす」と「示す」。引用の間違いかと思わず見直してしまった。特に漢字と仮名の使い方については、単に見識が足りないだけの事である。

Dの辞書
・強=端数を切り捨てたことを表す。「千人強の人数」「四メートル強の高さ」
・弱=《数を表す名詞に付いて》端数を切り上げたことを表す。「五百メートル弱の距離」「三万人弱の観客」「三か月弱の工事期間」

 反対語の表示は無い。これも「弱」だけに「数を表す名詞に付いて」の説明がある。しかも三つもの用例は要らない。

Eの辞書
・強=数量を表す語に付いて、実際はその数よりも少し多いことを表す。数の端数を切り捨てたときに用いる。「五キロ強」「九割強」⇔弱
・弱=端数を切り上げたとき、数を表す語の下に付けて用いる。「五〇〇人弱の聴衆」「二〇万円弱の給料」⇔強

 もう言う言葉が無い。しかも「五〇〇人」「二〇万円」とまるで見識が無い。「五〇〇人弱」とは切り上げて五百人になったのである。だからその数は概数である。四九九人でも、五〇一人でもなく、五〇〇人ジャストである、と言うのではない。従って「五百人弱」「二十万円弱」が正しいはずだ。これでも国語辞典か。しかも大型国語辞典なのである。

Fの辞書
・強=ある数のほかに切り捨てた端数のあること。実際はその数値よりもやや多いことを表す。「二メートル強」⇔弱
・弱=切り上げてその数になったことを示す語。実際はその数値よりもすこし少ないこと。「一万人弱」⇔強

 「実際は」との説明は良い。しかしこれまた説明の仕方が両者で違う。それに「やや」と「すこし」はどのように違うと言うのか。

 以上。これで、これらの辞書は本当に理解が出来ているのだろうか、と私は疑ってしまう。なぜ説明の仕方を変えるのか。同じでは能が無いと思われるとでも言うのか。
 はっきりと言えば、これが絶対だ、と確信の持てる説明になっていないから、ふらふらと揺れるのである。いい加減な説明に終始しているから、同じ概念なのに異なる説明が生まれるのである。簡潔で分かり易く、誤解を生まない、などの条件を考えれば、どうしたって、ある一つの説明に落ち着くはずである。もちろん、それは誰がやっても同じになる、などと言うのではない。しかし、それがまるで異なる二つの説明になってたまるもんか。まさか、反対語の両方を見て、それぞれに不足している説明を補って読め、と言うのではないだろう。
 因みに上記の辞書は、順不同で、「新撰国語辞典」「岩波国語辞典」「広辞苑」「明鏡国語辞典」「新明解国語辞典」「大辞泉」である。