夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

即位20年を記念するとは無礼ではないか

2008年11月22日 | Weblog
 何代か前の総理を務めた森氏が天皇即位20年を記念して、来年の11月12日を祝日にしようと画策しているらしい。来年のカレンダーは既に刷り上がっており、カレンダー業界には迷惑以外の何物でもない。
 でも何で、即位20年を記念しなければいけないのか。20年が節目だと言うなら、そのような節目はあらゆる分野に存在する。何故に天皇の即位だけが節目とされるのか。考えてみれば、昭和天皇没後20年ではないか。それを記念するって? 宗教行事で何回忌と言うなら分かる。だが、それだって祝日とは相容れない。祝い事ではなかろうに。
 ずいぶんと無礼な人だな、森氏って。
 天皇の代が代わる事がそんなにもめでたい事だろうか。天皇誕生日を祝うのとはまるで意味が違うではないか。天皇は日本の元首と決められているから、その誕生日を祝うのは分かる。しかし即位は天皇の誕生日とか年齢とはまるで関係が無い。天皇は途中では退位出来ないのだから、即位20年がお祝いだと言うのを聞くと、私は、そこまで生きていられておめでとう、と言っているように聞こえてしまう。非常に無礼だと思う。
 夫婦の銀婚式や金婚式を祝うのとも違う。大きな勘違いがあるのではないか、と思ってしまう。

 強く印象に残っている事に、昭和天皇崩御の時の情景がある。天皇崩御の知らせと共に、明仁皇太子が次の天皇と決まった。その知らせを受けて皇太子が皇居に向かうその姿に、何の感情も無い、淡々とした風情を感じてしまった。そうか、日頃から親子の関係が浅いと、あのようになるのか、と変な意味で感心してしまった。そこには親の死に対する嘆きも悲しみも全く感じられなかった。そこは雲の上の人だけに、私情を振り払っていたのかも知れない。だが、そんな姿を私は見たくなかった。人間皇太子の姿を見たかった。

 天皇制を利用する人々がいる。そこに居る天皇は人間としてではなく、制度としか彼等の目には見えていないらしい。彼等は、庶民としての人間を見ずに、庶民が支払う金だけしか見えない人々と同じである。私には森氏もその一人にしか過ぎないように見える。
 天皇制に対する様々な考えはあって当然だが、それとは別に、そこには天皇、皇后を中心に天皇の家族が居る。我々と全く同じ人間である。境遇は天地雲泥の差があっても、人間性に差は無い。何よりも、天皇は天皇をやめる事が出来ない。どんなに境遇が贅沢と思えようとも、そこには選択の自由は無い。
 己の欲のために地位のために、他人を利用しようとする人々を私は許せない。自分が利用されたらどんな気持がするかを想像出来ない人を同じ仲間とは思いたくない。
 天皇の即位20年を記念して祝日にしたいと言う人々がそうした人々だとは言わない。だが、即位20年は即ち、前天皇の没後20年である事を忘れてはいけないと思う。故人を記念するなら、生誕100年とかになるはずだ。少なくとも、没後50年とかでは、祝う人の心底を疑われてしまうと思うのだが。
 祝うのではない、回想するのだ、と言うのかも知れない。では、回想は何のためにするのか。業績を偲ぶのであれば、何も何年とかには限らない。いつだって回想すれば良いのである。そして回想されるだけの事をした人なら、いつだって回想されるべきなのである。
 まあ、日頃は忘れているだろうから、この機会に再認識をしたい、との気持は分かる。でも、そうした機会はどんな時だってあり得るはずだと思う。まさか50年とかで突然に思い出した訳ではなかろう。
 我々は忙しいし、また回想すべき偉人が多い事もあって、そうなるのだろうが、私は、ふーん、100年も経つのか、といったような感想しか湧かないが。自分にとって必要な人の事はちゃんと、別の機会に調べている。

 11月22日は「いいふうふの日」らしいが、「いい夫婦」はいつだっていい夫婦でありたいものであり、誰かに指図されるいわれはない。たいていが商売がらみの事であって、だから即位20年記念もまた胡散臭いのである。