夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

テレビの報道で肉食が改めて気になった

2008年11月03日 | Weblog
飼っていた豚を食べられるか
 日本テレビの放送である。小学校で豚を飼って、子供達が毎日世話をする。卒業する時にその豚を食肉として売るか、後輩に世話を託すか、どちらを選ぶか、と言うような内容だった。始めからきちんと見ていたのではないので、明確な事は言えないが、小学生に、食べるか食べないかを聞いてみたら、全員が食べないと答えた。飼っていれば愛情が湧く、と言うのが理由だ。
 これは実際に何年か前にある小学校で行った事であり、担当の先生が登場した。確か飼育後は食用豚として手放すとの約束だったと思う。その先生は苦しい選択を迫られ、結局、食肉業者に手渡した。インタビューに答えた当時の生徒達は、先生の思いをきちんと理解出来ていた。

 そうした経過を経て、レギュラー主演者達に、あなたはどちらか、と番組は尋ねた。5人か6人かの出演者達は一人を除いて、全員「食べる派」だった。
 その内の一人は「食べる派」で、終始馬鹿馬鹿しいと言うような表情を見せていて、「飼育が終わったら食べると言う約束だったんでしょう。約束は守らなければ」と斬って捨てた。
 ジャーナリストだから約束を守るのは当然である。情報も正確に伝える必要がある。だが私は大いに違和感を覚えた。これは食用とは言え、動物を飼って育てて、その結果飼い主としてどのような感情を持つようになるのか、と言う話のはずである。それをまるで無視する。そこには愛情とか思いやりとかが微塵も感じられなかった。
 もう一人の「食べる派」は、外国では子供がそうした食用動物を飼って育てて、それを売って家計を助けているとの例を持ち出した。そうした子供達が大勢居るのだ、と。
 現実としてそうであるのは分かっている。だが、現実がそうだからと言って、無条件に「食べるのだ」と言い切る、その気持が私にはやはり信じられない。
 二人とも、報道に携わる人間として、その情報の正確さは私は買うが、人間としての報道部分は、コメントなど私は見たくも聞きたくも無い。そんなに約束だけが一人歩きをして大切で、現実の姿がそれほどに大切なら、あらゆる所に無人カメラでも設置しておいて、そこで捉えた情報だけを流せば良いではないか、コメントは無用ではないか、と言いたくもなる。

 こうした見方をしてしまうのも、私の番組の見方にも問題がある。先述したように、最初から見ているのではないし、きちんと見ていると断言出来る訳でも無い。だが、番組の報道の仕方にも問題が無いとは言えない。そしてこのような重大な事を二者択一にして答を出させると言うのは乱暴だと思う。こまごまと説明する時間も無いし、答としては食べるか食べないかのどちらかにしか出来ないのである。そこから上記の二人のような答が生まれているのではないのか。出演者に何も答を強いる必要は無かろう。視聴者がそれぞれにどう考えるか、と訴え掛けるだけで十分ではないか。
 テレビは傲慢である。すべてを取り仕切らないと気が済まない。最初から最後まで、すべてテレビが牛耳っていて、事実はこれこの通りです、従って、結論はこうなります、と仕切ってしまう。こんな乱暴で危険な事は無い。事実だって、報道者が5人いれば、5通りの事実となって伝わるのだ。そうした報道は無理だろうから、せめて結論だけは早急に出すのを避けたらどうなのか。テレビは情報の報道機関ではあっても、決定権者ではなかろう。

 私も肉を食べているが、いつも思うのは、何とかして動物を食べずに済ませる技術は無いのか、と言う事である。現代の技術力から見れば、肉を作り出すのはそれほど難しくはないのではないか、と。それに植物性タンパク質では駄目なのか。今は昔のように体力が必要とされる時代ではない。動物の肉を食べなかった江戸時代だって、人々は街道をてくてくと歩いていたではないか。
 現代は新幹線の時代である。航空機の時代である。JR東海はリニアの時代だと言い、マスコミもそれに乗っている。体力なんてそんなに要らない。持久力だって肉食しなければ駄目だ、と言う訳でもなかろう。世界には菜食主義者だって居る。彼等は活力が無く、早死にだろうか。
 金がすべて、との考えは世界的規模での金融不況で揺らいでいる。金がすべてではなくなれば、物がすべてとの考えも揺らぐはずだ。今、世の中は考え方の転換期に差し掛かっていると私は思う。そうした時に、食用として育てた動物だから食べるに決まっていると安易に結論を出す事に、大きな違和感がある。CMによる利益優先のテレビ局ならではの姿勢だとつくづくと感じた。