夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

新聞でさえ言葉遣いがいい加減だ

2008年11月26日 | Weblog
 「藤雅三の油絵が米で発見」
 これは東京新聞の21日付け夕刊の「掲載記事のお知らせ」である。題字の下に、どこにどのような重要な記事があるかを示している、その内容の一つが上記である。
 さて、その記事を見る。
 「藤雅三の油彩画発見」
 この二つの言い方の違い、分かりますよね。

 以前には別の新聞で「警部が痴漢で逮捕」の見出が踊った。一瞬、私は「警部が誰かを痴漢で逮捕した」のかと思った。しかしそんな事が大きな記事になる訳が無い。だからこれは「警部が痴漢で逮捕された」のだと分かった。
 しかし、それなら、見出しは違う。「警部が痴漢で逮捕される」になる。「警部痴漢で逮捕」でも構わないが、この場合は「警部 痴漢で逮捕」のように半分でいいからアキが必要になるが。
 言うまでもなく、これは主語と補語の問題である。主語の「が」や「は」が無くても意味は分かる。同じく、補語の「を」が無くても、意味は通じる。しかしそのためには、構文がきちんと出来ていなくてはならない。

 冒頭の「藤雅三の油絵が米で発見」は、言うまでもなく、「藤雅三の油絵を米で発見」が正しい。もしこの「を」を省くのなら、「藤雅三の油絵、米で発見」「藤雅三の油絵 米で発見」になるべきである。「を」の代わりに「、」か空白が必要になる。
 この事は主語の場合でも同じだ。ただし、この「藤雅三の油絵、米で発見」「藤雅三の油絵 米で発見」では駄目だ。なぜなら、「発見」は「発見する」または「発見した」にしかならないからだ。だからこの言い方なら、油絵が何かを米で発見した事になってしまう。そんな訳はないから、読む側はこれは主語ではなく、目的語で「を」が省かれているんだな、と考えて通じているだけの話である。
 考えてみれば、我々の読解力の何と素晴らしい事か。

 「油絵」が主語なら「発見される」になる。なぜ「される」を省いてしまうのか。
 これは最近はやりの、と言っても日本語を知らない人々のはやりであるが、表現の一つである。電車の車内吊りでも堂々と「週刊○○が本日発売」とやっている。テレビでは年がら年中そう言っている。番組や局の誰かが注意をするような事は無いらしい。
 「○○が」と言いたい気持はよく分かる。それがテーマなのだ。だから「○○を」とはしたくない。だが、それならそうと、きちんと構文をわきまえてやるべきなのである。
 「発見」「逮捕」「発売」などは言うまでもなく、漢語である。つまり、中国語が元になっている。中国語では動詞の活用形などは無いから、これしか言いようが無い。そしてこれらの漢語は「○○する」に決まっている。「○○した」なら過去を表す言葉が付く。「○○される」の受身なら「被」が、「○○させる」の使役なら「使」が前に付くはずである。それらが無くて単に「○○」なら「○○する」になるに決まっている。そうでなければ、言葉は成り立たない。
 そうした事を平気で無視してしまうのが、昨今の「はやり」なのである。無視してしまう、のではなく、知らないのだ。知らないのだから誰かが教えて差し上げるべきなのに、だれもしようとは思わないらしい。多分、そうした言い方に何の疑問も持っていないからだろう。誰も彼もが「無知」で平気でいる。

 上記の「藤雅三の油絵が米で発見」のすぐ横には「10代後半7割が非正規雇用に」の見出しが並んでいる。これは「非正規雇用になっている」の略だと分かる。それと同じく「藤雅三の油絵が米で発見」が正しく理解出来るのは確かだろうが、筋が通って理解出来るのと、そうとしか解釈出来ないから理解出来るのとは違う。新聞は読者に甘えてはならないだろう。

 なんでこんな重箱の隅をつつくような事を言うかと言えば、これは日本語の初歩だからだ。それくらいの事に気が付かないとなると、記事に対する信頼度が揺らいでしまう。見出しは簡潔を旨とする。だからこそ、誰もが一目で理解出来る言葉遣いでなくてはならないのだ。こんな事、素人の一読者が言うべき事ではないはずだ。