夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「出版」とはしつこい追究だ

2008年11月27日 | Weblog
 私は日本語について非常に細かい事を常々気にしており、それをまたブログでも発信している。そうした原稿もまた書いている。言葉その物だけではなく、考え方の展開にしても細かく考えている。だから、毎日、これがおかしい、あれもおかしい、と言い続け、思い続けている。
 だが、それが嫌われる。我々は自分で納得しているからこそ生きていられる。言葉の問題にしても考え方の問題にしても、私はその「納得ずく」を壊しに掛かっている。多分、それがお気に召さないのだろう。

 前著『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で先輩達から、「あんなに難しい事を言っては本は売れないよ。もっと易しくしなきゃ。分かる分からないが問題なのではなく、分かったような気にさせる事が重要なんだ」と忠告を受けている。「分かったような気にさせる」。これが大切なのだと言う。つまり、「納得ずく」である。
 ただし、こうした先輩達がそれで良いのだと考えているのではない。仕方がない事だが、売ろうと思えば、そうするしかないよ、と言っているのである。
 何冊かのベストセラーを隅々まで読んで、分かった事がある。書いてある事におかしな事が一杯あるのにも拘わらず、何十万部も売れている。凄いのは百万部を越している。つまり、多くの読者がきちんと読んでいない。しかし納得している。分かったつもりになっている。それでいいのだ、と言う編集者は多い。
 そうか、分かったつもりにさせれば、本はベストセラーになるのか。実際に分からせるのではなく、分かったつもりにさせる。しかし、これが非常に難しい。そんなに簡単に出来る事ではない。なぜなら、おかしさに平気で目をつぶる事が出来なくてはならない。あるいは、おかしさに気が付かない鈍感さが必要である。

 こんな事言うと、お前何様になったつもりか、と言う人がいるはずだ。だが、私はそう言う人達にきちんと証拠を見せて差し上げる事が出来る。大ベストセラーのここがおかしい、と言う点を幾つも指摘して見せて差し上げられる。
 ただし、これが実は分かり易くはないのである。対象にしているベストセラーは、読者を簡単に分かったつもりにさせている訳だから、そんな簡単にぼろが出るような書き方をしている訳が無い。故意であれ、不注意であれ、用意周到な書き方がされているから、読者を納得させる事が出来ている。
 それを解剖して、ここがこのようにおかしいですよ、と言うためには、かなり複雑な展開もしなければならないし、難しい説明もしなければならない。簡単に分かったつもりになっている人々、分かったつもりになりたい人々に、そんなややこしい事を簡単に分かったつもりにさせる事はとても難しいのである。

 これにははっきりと証拠がある。私は一つの原稿をある出版社に持ち込んだ。編集者は非常に良い原稿だと認めてくれた。是非とも出版したいと言う。しかし営業がうんと言わない。その理由は簡単だ。読者を分かったつもりにさせる事が難しいからである。
 変な話、編集側は本の内容を問題にしている。しかし営業側は内容よりも読者の反応を問題にしている。当たり前だ。売れなければ営業は務まらない。その読者は残念ながら、分かろうとしたいとは思っていない。分かったつもりになりたいと思っている。
 みなさん、複雑で難しい事は嫌なのである。
 分からせようと言う本を売るには、じっくりと構える必要がある。地道にこつこつと売って行く心構えが要る。それが出来るのは実力のある出版社だけである。幾つもの名著を財産として持っていて、それだけでもやって行ける。その上に乗って、分かったつもりになる本が売れれば、それはボーナスになる。
 しかし財産を持たない出版社はどうしたって分かったつもりになれる本で勝負するしか無い。そしてそうした出版社が多過ぎる。私は勝手に、出版とはベストセラーを生み出す仕事ではないと考えている。採算を度外視しても良いなどとは思ってもいない。だが、とんとんに採算が採れればそれで良いのではないか、と考えている。人々に分からせようと言うのはそうした事であると信じている。

 こんな考え方が何でも金儲け、そのためには鉄道も郵便も民営化しか無い、と信じているような世の中で受け入れられる可能性はとても低い。と言って私の原稿が素晴らしいのだなどと言っているのではない。素晴らしくないから、営業が乗らないのに違いない。ただ、私の考えている「素晴らしさ」が世間とは多少違っているだけの話だと思っている。それくらいの自負心が無ければ、様々な原稿を色々な出版社に持ち込もうなどと言う気にはならない。