夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「目線」は下品な言葉か

2008年11月20日 | Weblog
 東京新聞のコラムに「視線」の代わりに「目線」という言葉を使う事がそもそも下品である、との意見があった(11月3日)。理由は、「視線」が自然なものであるのに対して、「目線」は、撮影の時に目を向ける方向の事で、そもそも作り物である、と言うのである。
 この意見が重要なのは、その事から「目線」の言葉を使っての政治家の言葉からは、国民と同じ地平から物を見る事は出来ないが、一応は国民と同じように物を見る振りをすると言う、権力者の偽善が伝わって来る、との見解に達している事にある。
 これが私には分からない。
 確かに「目線」は演技での用語である。『新明解国語辞典』は次のように説明する。

・目線=(舞台・映画撮影などで)演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・角度など。俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる。

 目の動きに応じて顔も動かす、と言うが、舞台では、顔を動かさなければ目が動いている事は分からない。映画だって、顔を動かした方が、目を動かしている事がずっと分かり易いはずだ。それに、「視線」では目は動かさないと言い切れるのか。大きく視線を動かすためには、顔を動かさなければ駄目だ。顔を動かさずに動かせる「視線」の方向なんて、たかが知れている。
 上記は国語辞典の説明に対する疑問だ。そしてコラムに対する疑問もまたある。「視線」は自然で、「目線」は作り物との考え方である。演技だから作り物で、演技ではないから自然だ、などとどうして言えるのだろうか。作り物の「視線」なんて幾らでもあるだろう。
 そして現在では、「視線」の代わりに「目線」と言う事も多いはずだ。特に「○○と同じ目線で物を見ている」などの言い方では、「視線」ではその気持を表す事が出来ないと思う。この場合の「目線」とは物の見方の位置を指しているはずだ。「方向」でも「方角」でもなく、「位置」だと私は思う。と言うよりも、そう感じてしまう。「方向」や「方角」なら「視線」で十分に事足りる。
 だが、物の見方の「位置」なら、「視線」では気持が表せない。「目線」でないと駄目だ、と私には感じられる。

 コラムの執筆者は「国民目線」と言う言葉が政治家の口からしばしば聞かれるが、この言葉は大嫌いだ、と言う。では「国民視線」と言えば良いのか。執筆者は麻生邸見学ツアーに行った反貧困運動の参加者がただ道を歩いていただけで、三人も逮捕された事について、この逮捕は首相が自らの特権性に対する国民の視線を遮断したいという意向が警察に伝わり、その結果起こされた弾圧としか思えない、と書いている。
 この場合は確かに「国民の視線」である。「国民の目線」ではない。なぜなら、単に「国民が見ている」と言っているだけだからだ。そしてこの場合に「国民の目線」とは出来ない。「国民の目線を遮断したい」と言って、その意味が伝わるだろうか。私は伝わらないと思う。「目線」と言う言葉を使うなら、「国民と同じ目線で」のような使い方しか無いだろう。
 「国民の目線を遮断したい」と「国民と同じ目線で考える」の「目線」の意味は絶対に違うと思う。と言うか、「国民の目線を遮断したい」との言い方は成り立たない。つまり、「視線」と「目線」は品の善し悪しではなく、意味が違うと思うのである。
 そうした意味で、執筆者の言う「目線」の言葉を使っての政治家の言葉からは、国民と同じ地平から物を見る事は出来ない、とはならず、「目線」の言葉を使うからこそ、国民と同じ地平から物を見る事が出来るのだ、と私は信じている。「位置」つまりは「地平」である。