8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

わが合唱歴②~遅いスタート(学生時代)~

2011-10-11 07:31:00 | インポート
私が合唱という言葉を意識したのは高校生になってからである。高校一年のある時、音楽の授業後に奈良勝博先生(故人)に呼び止められて「合唱部に入らないか?」と声を掛けられた。当時の私はクラブと言えば野球部しか頭に無く、その場で勧誘を断ってしまった。後々考えてみると、あの時奈良先生の勧誘に応じていたならば、もっと早く合唱との出会いがあったのだ、と少々悔いたものである。したがって、小学校、中学校、高等学校と音楽の授業はあったが、ほとんど合唱の経験は無く過ごした。小学校、中学校では音楽系のクラブは無かった。ただひたすらに、慶応大学に入って神宮球場でプレイすることに憧れていた野球少年の夢も、やがて破れて、途方に暮れる高校生活を過ごしていた。そのような様子を見るに見かねた父親から助言が入った「人間は自分の好きなこと、得意なことを生かした道に進むことが良い。お前は幼いときから音楽(歌)が好きなようだし、得意でもあるようだから音楽をやってみないか?」であった。

たしかに、小学生時代から学芸会では独唱を何度かやったり、中学時代は風呂に入れば、大声で歌うことが常であったが、それ以外には特に何もやっていなかった自分にとっては青天の霹靂であった。しかし、父親の言うことにも一理あることを感じて、無謀にも音楽を始めたのが高校二年の後半であった。父親が校長であった滝川第三小学校の寺嶋先生にバイエル、コールユーブンゲンを習い始めた。練習は放課後や休日に小学校の教室でピアノを使わせていただいた。これが8703の音楽的なスタートであったが、今時の青少年にはありえないような遅過ぎるスタートであった。そのような状況では事が順調に進むはずは無く、一年間の浪人生活を経て当時の北海道学芸大學岩見沢分校(現教育大岩見沢校)に入学し音楽を専攻することになった。そして、合唱との出会いがあった。

当時の岩見沢分校には荒又綾子先生(故人)と武藤敏郎先生(現江別混声合唱団&シルベルコール「銀の鈴」指揮者)という二人の熱心な合唱指導者がいて、音楽専攻の学生を中心に30名程度の団員を有する岩見沢分校混声合唱団があった。そして、市民合唱祭や合唱連盟主催のコンクールなどにも参加していた。私は砂川市からの汽車通学でもあり、それほど合唱に興味も無かったので、入学当初は合唱団には入っていなかった。しかし、とても和やかで家族的な雰囲気であった音楽研究室の中では、合唱をやらないことが不自然に感じ始めたこと。そして、滝川市から通学しながら熱心に活動していた菅原紀昭氏(元滝川高校教諭)の影響などもあり、一年目の途中から入団することになった。約一年半の岩見沢分校での合唱活動であったが、良き師、良き仲間に恵まれて楽しくも充実した経験が出来た。中でも忘れられない思い出は、真夏の合宿で男性は大学近くの希望寮に寝泊りをしていた。ある日、大変な猛暑となり、夜になっても猛暑はおさまらず、たまらずに、誰が言うともなく大正池(遊泳禁止の溜池)へ泳ぎに行ったことがある。そのような体験を通して、野球以外のチームプレイの楽しさを知ることが出来た。ここに私の合唱人としての原点があると思っている。


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