時折、「腑に落ちないこと!」について書いているが、最近は何について書くべきか?選択に迷うほどテーマが増えている。その中から、今回は特に教育の問題について書くことにした。教育問題については、常に課題を抱えていると言ってよいほどに、色々感ずるところが多い。
以前、教育現場(高校、大学)に身を置いていた者の一人として、大学入試に関する問題について大いなる疑義を唱えたい。最近また、大学入試改革と銘打って、恒例の小手先の改革を実施しようとしている。あえて小手先と書いたのは、一定の間隔で「入試改革」が行われるのだが、未だかって抜本改革と言えるようなものはなく、いわゆる小手先改革なのである。時代や社会情勢の変化に対応して、という大義名分を掲げているが、本来、教育方針というものは、5年、10年でコロコロ変わるものではなく、国家百年構想の中核としてあらねばならないものであろう。だとすれば、大学入試制度というものも、そう頻繁に変える必要はないはずである。思うに、大体、10年くらいの単位で大学入試改革が行われている。私は、たまたま、「共通一次テスト」が実施された時に教育現場にいて、しかも高校3年生の学級担任であった。共通一次テスト元年の生徒たちと苦楽を共にしたのだが、苦の印象が強烈である。特に、初めてのマークシート試験という、未知の分野が導入されてその対応に苦慮したことが印象深い。その時にも思ったのだが、入試改革と言う名のもとに、最も大変な思いをするのは現場の生徒、教師であり、最も良い思いをするのが、いわゆる教育産業と言われる業者である。なぜなら、新制度ということで、そのために何度となく模擬テストを実施した。例えば、マークシートの模擬試験を現場の教師が作成、実施することなど不可能なので、業者委託しかないのである。今回の、入試英語の件を見ても全く同じで、業者任せの対応で破綻をきたしている。もちろん、受験産業を全否定するものではないが、教育に関する、「国家百年の計画」ともいえるような抜本改革が確立されない限り、小手先の教育改革が繰り返されるのであろうと思われる。「経済最優先」と言う前に、「教育最優先!」という言葉を聞いてみたいものである。
以前、教育現場(高校、大学)に身を置いていた者の一人として、大学入試に関する問題について大いなる疑義を唱えたい。最近また、大学入試改革と銘打って、恒例の小手先の改革を実施しようとしている。あえて小手先と書いたのは、一定の間隔で「入試改革」が行われるのだが、未だかって抜本改革と言えるようなものはなく、いわゆる小手先改革なのである。時代や社会情勢の変化に対応して、という大義名分を掲げているが、本来、教育方針というものは、5年、10年でコロコロ変わるものではなく、国家百年構想の中核としてあらねばならないものであろう。だとすれば、大学入試制度というものも、そう頻繁に変える必要はないはずである。思うに、大体、10年くらいの単位で大学入試改革が行われている。私は、たまたま、「共通一次テスト」が実施された時に教育現場にいて、しかも高校3年生の学級担任であった。共通一次テスト元年の生徒たちと苦楽を共にしたのだが、苦の印象が強烈である。特に、初めてのマークシート試験という、未知の分野が導入されてその対応に苦慮したことが印象深い。その時にも思ったのだが、入試改革と言う名のもとに、最も大変な思いをするのは現場の生徒、教師であり、最も良い思いをするのが、いわゆる教育産業と言われる業者である。なぜなら、新制度ということで、そのために何度となく模擬テストを実施した。例えば、マークシートの模擬試験を現場の教師が作成、実施することなど不可能なので、業者委託しかないのである。今回の、入試英語の件を見ても全く同じで、業者任せの対応で破綻をきたしている。もちろん、受験産業を全否定するものではないが、教育に関する、「国家百年の計画」ともいえるような抜本改革が確立されない限り、小手先の教育改革が繰り返されるのであろうと思われる。「経済最優先」と言う前に、「教育最優先!」という言葉を聞いてみたいものである。