明日香村を歩いてからちょうど1週間が経ちました。
あれから気になっていたことがあります。
飛鳥寺で飛鳥大仏を見たあとで、
お寺の西に少し歩いたところに
甘樫丘を背景に入鹿の首塚がぽつんと立っていました。
蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で討たれたとき、
入鹿の首が飛んで、中臣鎌足を追いかけまわしたのです。
そして板蓋宮の北方600mのところに首が落ちてきてました。
その入鹿の怨念を封じ込めるため、その首を供養したのが
この五輪塔だそうです。
ところで、今から25年前、比較民話研究会の方々と
東吉野の民話調査をしたとき、
入鹿の首塚の話を既に聞いていたのです。
入鹿の怨念は強く、その首はなんと高見山まで飛んできていたのです!?
その時聞いた話を紹介しよう!
高見山の入鹿の首塚
昔、大昔の話やけども、藤原鎌足と蘇我入鹿の話でございますが、
蘇我入鹿が横暴を極めたということで、藤原鎌足が怒って、
そのう、蘇我入鹿の横暴を鎮めるために、
色々と意見を申し上げたりしてましたが、
いっこうに、横暴な行いが直らんと、いうことでありましたから、
藤原鎌足は思いあまって、蘇我入鹿の諜殺をするという決心を決めて。
そして、蘇我入鹿を誘い出して、蘇我入鹿の首を切ったと、
その首が、血を流しながら、桜井の多.武峰あたりですから、
多武峰からずっと東へ飛んで行ったと、高見山の頂上に、
その、落ちて、そのまんま消えてしまったという話を聞いたことがあります。
高見山にある入鹿の首塚
語り手: 桝本静勇(東吉野村 小栗栖)
原典:竹原威滋 丸山顕徳編『東吉野の民話』(平成4年)
あれから気になっていたことがあります。
飛鳥寺で飛鳥大仏を見たあとで、
お寺の西に少し歩いたところに
甘樫丘を背景に入鹿の首塚がぽつんと立っていました。
蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で討たれたとき、
入鹿の首が飛んで、中臣鎌足を追いかけまわしたのです。
そして板蓋宮の北方600mのところに首が落ちてきてました。
その入鹿の怨念を封じ込めるため、その首を供養したのが
この五輪塔だそうです。
ところで、今から25年前、比較民話研究会の方々と
東吉野の民話調査をしたとき、
入鹿の首塚の話を既に聞いていたのです。
入鹿の怨念は強く、その首はなんと高見山まで飛んできていたのです!?
その時聞いた話を紹介しよう!
高見山の入鹿の首塚
昔、大昔の話やけども、藤原鎌足と蘇我入鹿の話でございますが、
蘇我入鹿が横暴を極めたということで、藤原鎌足が怒って、
そのう、蘇我入鹿の横暴を鎮めるために、
色々と意見を申し上げたりしてましたが、
いっこうに、横暴な行いが直らんと、いうことでありましたから、
藤原鎌足は思いあまって、蘇我入鹿の諜殺をするという決心を決めて。
そして、蘇我入鹿を誘い出して、蘇我入鹿の首を切ったと、
その首が、血を流しながら、桜井の多.武峰あたりですから、
多武峰からずっと東へ飛んで行ったと、高見山の頂上に、
その、落ちて、そのまんま消えてしまったという話を聞いたことがあります。
高見山にある入鹿の首塚
語り手: 桝本静勇(東吉野村 小栗栖)
原典:竹原威滋 丸山顕徳編『東吉野の民話』(平成4年)
いいところですよね。のどかで。
入鹿の怨念はすさまじい・・・
それだけ不本意だったのでしょうね
飛鳥寺の後ろで、ひっそりとありますね
600メートルも首が飛んでゆくなど
科学的にはありえませんが
このような言い伝えがあるというのは
それほど恨みが強かったということなのでしょう。
碑をつくれば供養できると考えていた当時の人々のことを思うと、現代の文明の力とは違った、ヒトそのものを考えてしまいます
民話調査に行った話を聞いて、
伝承文芸の魅力を感じました