【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

復興

2015-03-11 06:46:21 | Weblog

 行事に夢中  ──政治家・官僚
 生活に夢中  ──被災者
 ニュースに夢中 ──被災者以外

【ただいま読書中】『西サハラ ──ポリサリオ戦線の記録』恵谷治 著、 朝日イブニングニュース社、1986年、2000円

 1月7日に書いた『世にも奇妙なマラソン大会』で「西サハラ」について聞いたものですから、もう一歩知識を深めるためにもう一冊読んでみることにしました。
 かつて「スペイン領サハラ」と呼ばれた地域の物語です。スペインに対する独立運動は、最初は平和的な運動でしたが、それが弾圧され、武装闘争を是とするポリサリオ戦線が結成されました。1974年スペインは、住民投票で西サハラの独立かどこかに帰属するかを決定する、と発表します。それに対してモロッコとモーリタニアは国際司法裁判所に提訴し住民投票を延期させます。さらに75年「35万人の大行進」をモロッコ国王ハッサン二世が計画。「非武装の“住民”デモによる領土回復運動」です。同時期、スペインのフランコ総統は危篤状態にありました。ハッサン二世が“敵”としていたのは、実はスペインではなくて独立を叫ぶポリサリオ戦線でした。スペインとは領土割譲の密約を結んでいたのです。76年にスペインは完全に撤退し「西サハラ」に対する興味を失います。モロッコとモーリタニアは「治安維持活動」として軍事侵攻。「西サハラ」の住民は難民となってアルジェリアへ。アルジェリアは独立派への軍事支援をしますが、すぐに中止、難民支援に専念することになります(この時期、キューバやベトナムがポリサリオ戦線を軍事支援している、という記事が流されました(私はそれを読んだ記憶を持っています)が、著者によるとそれは憶測によるもので根拠はないそうです)。スペイン領サハラには植民地議会がありましたが、そこは「独立宣言」をしていました。しかしモロッコ・モーリタニアへの強制併合によって「西サハラ」も「独立宣言」も地球上から消滅しました。しかしポリサリオ戦線は亡命政権を樹立、モーリタニアは軍事費の増大に耐えきれず79年に和平協定を結びます。その年に著者はサハラ解放区にアルジェリア経由で入りました。当時の「西サハラ」にいた日本人はおそらく著者一人だっただろう、と著者は推測しています。しかしそこで見たフランス人テレビクルーの要求に、著者は驚きます。当時のフランスはモロッコ寄りの立場でした。そのフランスでポリサリオ戦線の現状を伝えるためには、視聴者に強烈に訴える場面、つまり戦闘シーンが必要だから、自分たちが撮影できる状況で戦闘をしろ、という要求なのです。著者はここに「ジャーナリストの“原罪”」「西洋合理主義」「西欧の植民地主義」を感じ取っています。
 ポリサリオ戦線は国際的に受け入れられていました、その原因の一つは「共和国宣言」をしていたこと、それと民族や階級にこだわらなかったことにあるようです(難民キャンプでも部族や階級は無視されていました)。そういった「ゲリラの実態」も著者は目撃をします。
 『世にも奇妙なマラソン大会』にも書かれていましたが、西サハラの上空をかつてサン=テグジュペリが飛んでいました。さらに本書では、騙されて外人部隊の契約にサインした二人の日本人の話も登場します。「騙されてサイン」と言うと、「エリア88」(新谷かおる)ですか?
 モロッコは砂漠に長大な砂の壁(長城)を築き、鉄条網と地雷原で西サハラを実効支配しています。著者はモロッコに入国し、そちら側から西サハラにアプローチします。そこで見たのは、モロッコが自信を持って支配地を管理している姿でした。膨大な軍事費を費やす見返りはブ・クラ鉱山の豊富なリン鉱石です。モロッコ自体が世界一位の埋蔵量を抱えていますが、世界三位の西サハラを加えたら、資源を梃子にした世界戦略が展開できる、とハッサン国王は考えたのでしょう。さらに「大モロッコ主義(かつての王朝は現在のモーリタニアあたりまで版図があった)」により西サハラの領有は正当化されています。
 本書が発行された80年代、状況は膠着状態になりました。そして現在でもその膠着状態は継続しているようです。ただ、こういった膠着状態の継続は、ゲリラや難民の側の閉塞感と絶望を深めることでしょう。そういったものがたとえば現在の「イスラム国」の活動を許す素地になっているのかもしれない、と私はちょっと気になります。


農協

2015-03-10 06:45:12 | Weblog

 私が田舎にいた頃には、農家の人たちに農協の悪口をけっこう聞かされました。で、今の政府も農協の悪口をけっこう言っているようです。
 だけどその「制度としての農協」を作って維持していたのは、政府と農民ではありませんでしたっけ?

【ただいま読書中】『できるか、農業の所得倍増』農政ジャーナリストの会 編、農林統計協会、2014年、1200円(税別)

 「10年間で農業・農村の所得倍増」が安倍政権の公約となっています(2013年参院選の自民党公約でしたが、この選挙で自民党が大勝して政府の方針となりました)。しかし、池田内閣の「所得倍増計画」が達成できたのは年の名目成長率が7%を越えたからでした。そんなことが現在できるのでしょうか? できる、と政権は述べます。まずアベノミクスの成功で年に2%の成長をします。すると現在の国内農業生産額は10年間で10兆円から12兆円になり、それに伴い農家の所得は現在の3兆円から4兆円に増えます。さらに「六次産業化」によって農家が絡む市場規模は現在の1兆円から10兆円になります。そのうち農村に2兆円が還元されます。すると「3兆円」は「4兆円+2兆円=6兆円」となり、めでたく「倍増達成」です。
 ……本当に?
 農政ジャーナリストの会は自民党の小里農林部会長へのインタビューで「高齢化で農業者が半減したら、それで自動的に所得は倍増する」という言葉を引き出します。あれ? すると「総所得」は「倍増」なのですから、一人あたまは4倍になることに?
 気になるのは、米価の下落やTPPです。ただ米価の下落は“チャンス”でもあります。価格が下がっても、米作から撤退する農家の分を集約して生産コストを下げ販売数量を増やせば「所得」は増えますから。
 私に見える問題は「政策がどこまで実効性があるのか(取らぬ狸の皮算用ではないのか)」「予算の裏付け」「法や制度をどう変えるのか」「食糧自給率はどうなるのか」「これまでの減反政策はどうするのか」……おそらく最近の「農協いじめ」は「制度改革の嚆矢」なのでしょうが、たとえば「農業の六次産業化」に農協を活用することなどはできませんかねえ(私が知っている「農協」には、クズのような所もありますが、本当に頑張っているところもありますので、一概に「敵」扱いする気にはなれないのです)。
 荒療治ですけれど、私に一つのアイデアがあります。農家の国家公務員化です。これだったら人事院勧告さえ得られれば「所得倍増」は書類の操作だけで可能となります。かつてのソ連の国営農場の惨状を思うと、日本のためになるかどうかは不安ですが。


スポーツカーの運転

2015-03-09 06:43:11 | Weblog

 私はスポーツカーに少しあこがれを持ってはいますが、問題は私の運転能力です。「スポーツカー教習所」なんてものがあれば良いのですが、たぶん私の力では、その教習所を卒業することはできないでしょう……の以前に教習所に入るための試験にあっさり落第してしまいそうです。

【ただいま読書中】『フェアレディZ開発の記録 ──売れるスポーツカーを作ろうと思った』植村齊 著、 東京図書出版、2014年、1500円(税別)

 NHKの「プロジェクトX」が、半分やらせだったことがのっけから暴露されます。やらせ、というか、現実を無茶苦茶恣意的に“編集”して、そのドラマ仕立ての脚本に沿って登場人物たちに演技をさせていた、のだそうです。
 まずは、戦前戦後の「名スポーツカー」の羅列です。1930年代からはDKWフロントスポーツロードスター、ウィーコフスポルトワーゲン、オペルスポーツロードスター……いやあ、写真を見るとレトロなスタイルが素敵です。日本でも、ダットサンとオオタがそれぞれロードスターを発売していましたが、市場は限られていました。戦後はまず日産がスポーツカー市場をリードし、ついでホンダとトヨタが参戦します。さらにマツダがロータリーエンジンで参戦。日本をリードしていたはずの日産は、いつの間にか他のメーカーの後塵を拝するようになってしまいました。そこで日産の設計でも、革新的なスポーツカーを作りたいという気運が高まっていました。日産のトップは、すでにフェアレディとシルヴィアの二種類のスポーツカーがあるのだから十分、という判断でした。しかしアメリカからはフェアレディに対するクレームが多く、第一設計部の原部長は、見切り発進で開発のための人事異動を行います。技術的な責任者は第三車両設計課の鎌原課長で、著者はその下の総括担当でした。合い言葉は「売れる車を作ろう」。メインターゲットは北米市場。しかし、ゼロから新しいスポーツカーを作り始めて、半年以内に試作車が完成、というすごいスケジュールです。関係部署の数も多くて調整が大変ですし、国によって車の規格に関する法律が違うので輸出する可能性のあるすべての国の法律をクリアしておく必要もあります。
 すべてお膳立てが整ったところで、首脳陣の説得です。なんだか順番が逆のような気がしますが。そして説得手段がまた姑息的。しかし現場が姑息な手段を使わないと「売れる車」の開発にゴーサインが出せない首脳陣というのも、ちょっと(いやいや、相当)情けないものがあります。
 北米を文字通り縦横に長距離走行テストを行なって不具合を抽出し、ついに発売。性能とコストパフォーマンスの良さが評判となり、フェアレディZは「売れる車」ではなくて新工場まで必要になった「予想外に売れてしまう車」になってしまいます。しかし名前の「Z」について、当時はいろいろ言われていましたが、実はけっこう適当に命名されていた、という裏話が笑えます。テレビドラマではない現実は、そんなものなのかもしれません。


悪魔を非難する

2015-03-08 07:08:41 | Weblog

 奇妙な雰囲気を持つ異形の人に対して「お前は悪魔のようだ」と悪口を言ったとします。
1)もしもその人が悪魔の力を本当に持っていたら、そのことを公然と非難するのは、自分の命を賭した無謀な行為となります。
2)もしもその人が悪魔と無関係の人だったら、それを公然と非難するのはとっても失礼な行為となります。

【ただいま読書中】『超能力の科学 ──念力、予知、テレパシーの真実』ブライアン・クレッグ 著、 和田美樹 訳、 エクスナレッジ、2013年、1800円(税別)

 本書の態度は明快です。科学的に不可能なことはそう明言するが、ある見解を検証もせずに退けることは非科学的な態度だ、と。そして「偏見を排すること」「事実に立脚すること」を重視します。そして著者が望むのは「まだ解明されていない脳の機能に起因すると思われる能力」つまり超能力です。
 まずはテレパシー。本書では「量子もつれ」でテレパシーのメカニズムが説明できる、という仮説が紹介されます。ただここで問題になるのは「テレパシーは実在するのか」ということ。「テレパシーがある」とされた実験には、実験手法あるいは統計処理に問題があるものが多いのです。賛成派も反対派も「この実験なら公正だ」と納得できる実験ができたら良いんですけどね。
 念力も魅力的な超能力です。しかもテレパシーとは違って「目で見える」から検証もしやすいように思えます。ところがインチキもしやすいのです。また「ものを動かすエネルギーをどこから得るか」も重大な問題となります。熱力学の法則に反するのなら、従来の科学がひっくり返るかもしれないので、それはそれでとっても面白いことにはなりそうです。
 それほどエネルギーが必要ではないものとして、予知能力も取り上げられます。乱数を発生させてそれを予知する実験の科学的な論文も発表されていますが、著者はその「科学性」に疑念を持っています。乱数が本当に乱数かどうかを保証するためには、量子論的な乱数発生装置を使う必要があるのではないか、とまで言っています。
 遠隔透視は、スパイの世界では特に魅力的な能力です。しかし「遠くを見る」というのは、実際にはどのようなものなのでしょう。“そこ”から発せられている光子を“見て”いる? しかし人の脳は、眼球で受けた光刺激を“翻訳”したものを“見ている”のです。それとも幽体離脱? だけど幽体には「網膜」はありません。私が思いついた一つの可能性は、“その場にいる人の脳の情報を遠くから感知する”ことです。ただしこれは遠隔透視ではなくてテレパシーですね。それに、人がいないところでは何も見えない、というのはけっこう不便な気がします。地下水流を発見できるダウジングという能力については、厳密にコントロールされた実験(地下に人工水流を設置してそれを感知する)が行われ、ダウザーは水流の発見に失敗をしています。
 「ESPカード」と言えば、私の子供時代には「あこがれの小道具」でした。そのカードを使っての透視実験であり得ない確率での一致率が示された(=透視能力は実在する)、という“事実”が少年の心をわくわくさせてくれましたっけ。ところが著者の検証では、どうもこの実験の手順や管理に問題が。いやいや、がっかりです。私の夢を返せ。
 超能力研究に熱中していても「実験の科学的な厳密さ」の点では、軍は全然駄目だったようです。著者は「19世紀のレベル」「ユリ・ゲラーのショーの方がまし」とこき下ろしています。対してプリンストン大学の特異現象研究プログラム(PEAR)などは(その成果はともかく)客観性と実験管理の点では問題はないそうです。残念ながら成果もなかったのですが。
 そして、ユリ・ゲラーの登場。著者から見ると、ユリ・ゲラーも科学の洗礼をきちんと受けていません。しかし本当に超能力があるのなら、時計を止めたりスプーンを曲げることよりも、人類に貢献できるでしょうにねえ。
 科学には限界があります。人の知覚や記憶は頼りないものです。しかし、科学の中でも「確からしいもの」と「怪しいもの」は区別できます。必要なのは「科学のセンス」。問題は、それをきちんと発揮できる人が意外に少ないことでしょう。科学者であっても、実は怪しいのです。私個人としては超能力には存在していて欲しいのですが、今のところはまだその実在そのものもきちんと示されていない、というところで満足するしかなさそうです。科学的な否定もまだされていないのですから。


数学のテスト

2015-03-07 07:04:07 | Weblog

 私がもしも出題者だとしたら「円周率が『3』ではまずい理由を述べよ』なんてものを出したいですね。あ、文部科学省を敵に回したらまずいか(笑)。私は良いけれど子供がまだ教育を受けていました。

【ただいま読書中】『今なら解ける!大人のための東大数学入試問題』齋藤寛靖 著、 講談社、2014年、2000円(税別)

 東大は入試の“ポリシー”を公表していますが、数学に関しては「数学的思考力」「数学的表現力」「(幅広い分野の知識・技術を総合して)総合的に問題を捉える力」を問うのだそうです。つまり「公式」や「解法」を暗記してなんとかしよう、とする「効率的秀才型対応」では良い点を取るのは困難。さらに東大は、自分の所の過去問どころか、過去35年間の日本中の大学の数学の入試問題を調査してそれと類似した問題にならないようにしている、のだそうです。
 で、本人の弁によれば「能力は大したことはない予備校講師のおっちゃん」である著者は「社会的経験を積んだ大人こそ、こういった思考力を問う問題を解けるのではないか」と読者を煽ってくれます。
 たとえば登場するのは「一般角θに対するsinθとcosθを定義せよ」なんて問題です(1999年理文共通前期)。私は一瞬呆然とします。「定義」ですから「計算式(例の割り算)」を示しても無意味。たまらず正解を見てしまいましたが、単位円とか関数とかの言葉を使って“定義”されていました。いやいやいやいや……(要するに、原点を中心とする単位円での角度θでの(x,y)の座標を示しているのです)
 ほかにも「微分という概念」「積分という概念」を理解しているかどうかを問われたり、確率について再確認をしたり、空間認識を問われたり(たとえば「正八面体を水平な台に置き、真上から見たときの平面図を描け」という問題です)……脳みそがいやーな汗をかいてしまいました。


日本の伝統

2015-03-06 06:57:47 | Weblog

 私は「伝統」と言うためには、最低数百年は続いていないと、と思うクチです。だから、せいぜい100年くらいしか“歴史”を持っていないものを「日本の伝統」と言って持ち出す人を見ると、まだまだ若いな、としか思えません。

【ただいま読書中】『風流と鬼 ──平安の光と闇』ベルナール・フランク 著、 仏蘭久淳子 他 訳、 平凡社、1998年、3000円(税別)

 最初の論文は「源融と河原院」です。源融は百人一首の「陸奥の しのぶもぢずり たれゆえに 乱れそめにし われならなくに」の作者ですが、古今集では「乱れそめにし」ではなくて「乱れむと思ふ」となっているそうです(フランス人にこういうことを教わるのは、ちと忸怩たるものがあります)。
 源融は嵯峨天皇の第八皇子でしたが、臣籍降下で源となりました。世はまさに藤原氏がぐんぐん伸びていた時代、それでも源融は左大臣にまで出世し、賀茂川の岸に広大な「河原院」という大邸宅を作り、そこに東北地方の塩釜を模した池を含む大庭園を築きました。すごいのはそこに海水を満たし、さらに藻塩焼きまでやっていたことです。その行為は「風流の極み」でした。さらに河原院には、当時を代表する歌人たちの集いの場、という重要な働きがありました。しかし寛平八年(895)の源融の死後、源氏は衰退の道をたどり、河原院も宇多法皇に奉じることになりました。ところが延長四年(926)に河原院に源融の幽霊が出現(藤原系の文献では悪霊として扱われています)。維持費の問題と幽霊の噂で、河原院は荒廃していきます。12世紀から13世紀にかけて河原院は3度の火災に襲われ、東側は鴨川に浸食され西側は原野となりました。そこが再開発されるのは、豊臣秀吉の都市計画からです。
 「成仏できない融の幽霊」を成仏させようとしたのは、世阿弥の謡曲「融」でした。寂れた河原院でシテが過去の栄光をワキの僧侶に語り舞い、最後に月の都に帰って行きます。「月の都」は道教の影響が強い概念です。ここに著者は、源融が河原院で示した道教の影響を世阿弥がきちんと理解していたのではないか、と解釈しています。
 本書の第一部は「風流」について、第二部は「鬼」についてのまとめです。私は学校では日本の文学について「作品名」はいろいろ習いましたが、それらが「時代の流れ」の中にどう位置づけられているかは習いませんでした。テストの問題にしにくいからでしょうか。しかし「文化」について、もうちょっと子供時代から教えてもらっていたら、と老年期に入ってからつくづく思います。教師は、フランス人でも良いです。


過去と未来

2015-03-05 06:22:24 | Weblog

 「戦後日本は平和国家として世界に貢献してきた」と「戦後レジームからの脱却」を組み合わせると……

【ただいま読書中】『旧約聖書外典(下)』新見宏・関根正雄 訳、 関根正雄 編、講談社文芸文庫、1999年、1050円(税別)

目次:「スザンナ」「ベールと龍」「ソロモンの知恵」「第四エズラ書」「エノク書」

 「スザンナ」が正典から外されたわけは、読んだらわかります。なにしろユダヤの指導者である尊敬されるべき長老が情欲に目がくらんだ“悪人”なのですから。ここでは「信仰」よりも「知恵」の方が重視されているように私には読めます。というか、宗教の聖典で「人間の知恵」をそんなに褒めてもいいのかしら。
 それとバランスを取るかのように「ベールと龍」では異教徒相手にユダヤ人が「信仰」と「知恵」の二本立てで対抗します。もっとも「ソロモンの知恵」を読む限り「知恵」とは「神の(純粋な)息吹」なんですね。だったら「知恵」を重視するのは宗教的に正しい態度、ということになります。
 「第四エズラ書」では、ローマに支配されたあとの時代が扱われています。どうして「正義を実践」したエルサレムが滅び、悪徳が栄えているバビロンが栄えているのか、と神に問いたくなる人の問いと、それに対する神からの回答です。
 しかし、ユダヤ教の聖典がキリスト教の旧約聖書の方でオリジナルに近い形を保存された、というのは面白い現象です。そういえば、ルネサンスでヨーロッパに“復活”した古代ギリシアや古代ローマの文献の多くはイスラムで“保存”されたものでしたし、相次ぐ戦乱で失われた古い中国の文献が日本で“保存”されていた、なんてことも私は思い出します。開かれた国際ネットワークって、意外に「固有の文化」にも重要なようです。


秘密の力

2015-03-04 06:29:28 | Weblog

 経済や諜報の世界では「秘密」が重要です。「自分が秘密を知っていること」自体も秘密にしておいた方が良い結果を得られます。
 政治の世界でも「秘密」は重要ですが、こちらでは「自分が秘密を知っていること」はむしろ公開あるいは匂わせておいた方が、権力を握りやすくなりそうです。

【ただいま読書中】『剣客商売全集 第三巻』池波正太郎 著、 新潮社、1992年

 『剣客商売』の第五巻「白い鬼」と第六巻「新妻」の合本です。
 まずは、愛弟子を殺された小兵衛の敵討ちから話が始まります。相手は、江戸を騒がす連続殺人鬼。見かけは穏やかな好青年ですが、女を狙って殺すだけではなくて局所をえぐり取る、という残忍な性格異常者です。そこで名探偵小兵衛による「捕物帖」が始まります。もちろん話の最後はちゃんと「剣客」で締めくくられます。
 大治郎と三冬は、お互いが好き合っていることを意識するようになります。しかし、二人ともけっこう良い年なのに今どきの中学生の恋愛模様のような感じですが、二人とも剣一筋で生きてきているし、江戸時代の武家だったらこんなものですか? ともあれ、何とか二人も上手く納まるところに納まり、剣客ファミリーヒストリーは続いて行くのです。
 しかし、体もすぐ壊すようになったりして、小兵衛が「年を取った」ことが、妙に強調されるようになりました。著者はこの時にはこのシリーズをあそこまで長く書くつもりではなかったのかもしれません。


覆水は盆に返るか?

2015-03-03 07:14:43 | Weblog

 汚染水はあまり返ってほしくありませんが。
 そういえば菅官房長官は「信頼回復に努めていきたい」と述べたそうですが、私としては特定の人にだけ関係する「信頼回復」よりは全世界に関係する「再発予防」の方を重視してもらいたいものだと感じます。
 そもそも「信頼」は「結果」であって「目的」ではないでしょう?

【ただいま読書中】『本当にあった医学論文』倉原優 著、 中外医学社、2014年、2300円(税別)

 医者にとって医学論文を読むのは仕事の一環のはずですが、読んでいたらあまりに面白いものがたくさんあるので紹介してあげよう、という親切な本です。
 しかし常識外れなものが次々登場します。たとえば「肛門異物」で出てくるのは「牛の角」。証拠のCT写真も載っていますが……いやもう、絶句です。消化管異物では「206発の実弾」を飲み込んだ例が。電気メスを使って開腹しても良いか(電気で実弾が暴発する可能性は?)という議論が行われている間に、消化管出血はするし血中鉛濃度はどんどん上昇するし……
 面白かったのは「加齢臭」の研究。若年・中年・高齢者で分けて調べると、一番臭かったのは中年のおっさんだったのです。「加齢臭」というと老人になるほど臭くなりそうなイメージですが、ピークは中年だったんですね。
 単に面白がるだけではなくて「論文の捏造」についてのまじめな考察もあります。というか、本書に集められた論文(症例報告)は、本来すべて「まじめ」に書かれたものばかりです。それを面白く読めるということは「人間」が面白い存在だからなのかもしれません。


批判に対する耐性の低さ

2015-03-02 06:53:56 | Weblog

 ネットで自分の意見に反対をされると、血相を変えた文体で「対案も出さずに批判をするな!」などと書く人がいます。それってレストランで「この料理はまずい」と言ったらシェフが包丁を握りしめて血相を変えて「まずい」と言った客に向かって「自分でこれ以上美味い料理を作って見せろ!」と怒鳴ることに、どこか似てません?

【ただいま読書中】『オデッサ・ファイル』フレデリック・フォーサイス 著、 篠原慎 訳、 角川書店、1974年

 ケネディが撃たれた日のドイツで本書は始まります。著者は最初から、ナチスの戦犯たちを保護する組織「オデッサ」について書くぞ、と宣言しているので、私はむしろ意表を突かれます。
 やり手のドイツ人ジャーナリスト。救急車。ガス自殺をした老人。“イスラエル寄り”のケネディが殺されたことに祝杯を挙げる人たち。その中に混じっているイスラエルのスパイ。短い文章で、まるでオペラの序曲のように、本書の全体像がちらりちらりと示されます。そして、老人の遺書。そこで短く的確に、SSがユダヤ人に何をしたかが語られます。それと同時に、1963年の西ドイツ人が“自分たちの過去”から目をそらしている“現実”も。「西ドイツ人」から見たら過去の蛮行は「ナチス」が行なったことでしかも「過去」の話なのです。今の日本を見ると、これは“他人ごと”ではありません。
 オデッサにバックアップされているSSの残党(とその支持者)は、イスラエルに大損害を与えるために、ドイツ人科学者を集めてエジプトでロケットを作ろうとしていました。弾頭は、放射性物質(コバルト)とペスト菌。アメリカと組んでイスラエルに軍事援助しようとしていた西ドイツは、しかしイスラエルの情報機関が西ドイツ内で勝手に誘拐や殺人をすることには不快感を持ちます。
 その“大きなドラマ”と平行して、西ドイツ内のジャーナリストが、大量虐殺の責任追及から無事逃げおおせているSSの元大尉を追跡するドラマが始まります。ここで伏線となっているのが、ジャーナリストの動機ですが、これがまた小さくて大きな「謎」となっています。

 著者の『ジャッカルの日』を初めて読んだときには、その取材の綿密さと国際情勢がマクロとミクロで動いていることを生き生きと描写しているリアリティに衝撃を受けました。ただ、今こうして“昔の作品”を読むと、やはりいくらかの“古さ”は感じます。たとえば『ミレニアム』シリーズと比較して、ストーリー展開のスピーディーさとか暴力描写とか人の深層心理分析への言及とかがちょっと緩やかです(音楽で言えば、4ビートと8ビートの違い、といった感じ)。ただ、フォーサイスがいたからこそ犯罪小説などが大きく進化した、だから『ミレニアム』などが登場できた、とも言えるわけでしょう。なんだか『ジャッカルの日』も読みたくなってしまいました。