【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

残業代ゼロ

2015-03-21 07:18:07 | Weblog

 政府はいろいろな「理由」を述べていますが、本音は人件費の節約(=企業の利益の増進)です。そのためにサービス残業を公認しようとしているわけ。
 一つの問題は「過労死裁判」で「残業時間」が使いにくくなりそうなこと。今はタイムカードや残業費から裁判所での「残業の認定」が(サービス残業や持ち帰り残業以外は)わりと容易ですが、こんどから会社は「時間管理」をしなくてよいから“証拠”は自分できちんと残さないといけなくなりそうです。しかし、まさか過労死まで「公認」しようというわけじゃないですよね?(政府は当然「そんなことはない」といろいろ細かいことを言いそうですが、企業(特にブラック寄り)は別の意見を持っているはず)

【ただいま読書中】『ざっくりPDCA ──新米リーダーを らしく 見せる24のコツ』株式会社インスティテュート 著、 秀和システム、2015年、1400円(税別)

 企業で「リーダー」になるために、まずカタチから入ろう、そのための絶好の「カタチ」としてPDCAがある、という本当に「ざっくりとした」本です。
  PDCAは「Plan(計画)」「Do(実行)」「Check(検証)」「Action(改善)」です。そして「A」まで行ったらまた「P」に戻ります。QCをすでに知っている人はPDCAについてはすでに知っていますが、PDCAを知らない人は「ざっくりPDCA」といくら簡明に言われても「それは何だ?」と警戒心を抱くだけでしょう。ところが本書はそういったことにはお構いなし。入社4年目の営業マン神崎が突然チームリーダーに任命される(しかもそれまでのカリスマリーダー加藤がそのチームのメンバー)というびっくりのシチュエーションでお話が始まります。当然神崎クンは右往左往。それを“優しい”先輩方が「PDCA」で鍛え上げてくれるのです。
 まず神崎クンは、「リーダーシップ」とは「性質」で「リーダー」とは「役割」だ、と断言されます。つまり、極論を言えば、リーダーシップが欠如した人間でも、ある範囲内ならリーダーが務まる、と。その「範囲内」に「PDCAサイクルを回すこと」が入っています。
 リーダーのタイプは「指示型」「コーチ型」「カウンセラー型」「委任型」にざっくり大別できます。ではプランを立てましょう。でもその前に「チームの目的」をメンバーで共有する必要があります。それができて初めて目標(目的を達成するために必要な要件を具現化したもの)が立てられます。そしてそれができて初めてプラン(目標を達成するためにいつどうやって行動するか)が作れるわけです。ところが「始めに目標ありき」の企業がやたらと多いのは困ったものだそうです。
 次は「Do」。ここでリーダーの役割は、率先垂範もありますが、重要なのはメンバーが動きやすい状況を作ることです。
 「Check」ではついつい「結果」に目が向いてしまいますが、リーダーは「経過」も見る必要があります。それも「もっとよくできる方法」を探すのです(その逆、「なんでできないんだ」と部下を叱責する上役のなんと多いことか)。
 そして「改善」。うまくいっているときほど改善の努力が必要だそうです。人はすぐ結果に安住してしまうものですから。
 PDCAは完璧にやる必要はありません。なんども「サイクル」を回せば良いのです。
 ビジネスだけではなくて、人生での様々なこともこのPDCAサイクルで語ることができそうです。……ということは、たとえば恋愛もPDCAでサイクルを回したら、上手になる?


豚の家

2015-03-20 06:54:54 | Weblog

 三匹の子豚は、藁・木・煉瓦でそれぞれの家を建てました。ところで彼らの親は、どんな家で彼らを育てていたのでしょう?

【ただいま読書中】『マザー・グースと三匹の子豚たち』桐島洋子 著、 文藝春秋、1978年、880円

 未婚の母として3人の子育てをしていた著者は、30代最後の1年は「休暇」にしようと決心し、子供たち(小2、5、6)を引き連れて渡米します。流れ着いたのは、名高い避暑地イースト・ハンプトン。ただし季節は冬ですが。しかも歴史的な大寒波なのですが。
 1時間歩けば町に着く、と著者はのんびりと田舎の生活を楽しみます。子供たちものびのびと学校に通い、英語が全然しゃべれないのに友達がどんどん増えます。2箇月間のサマーキャンプでも、「不自由な生活」を“子豚たち”は満喫します。「ブロイラー」よりは「地鶏」として育ってほしい、という著者の願いは、ある程度叶えられたようです。
 本書ではアメリカという国の魅力について多く語られていますが、アメリカのおかしさも指摘されています。たとえば反知性主義。エリートはどんどん勉強するが、しない人間は生涯で一冊も本を読まず、その“格差”はどんどん拡大している。それでも昔は「生活」の中で伝承されていく知恵があったが、最近では子供たちは体だけ大きくなって野放しにされてしまっている、という危惧です。今から約40年前の本ですが、今の日本のことを言っているような気にさせられます。


文民統制

2015-03-19 07:21:48 | Weblog

 本来は「軍が暴走するのを、政治家が抑制する」ためのシステムですが、イラク戦争などでは「戦争をしたくない軍に、戦うことを政治家が強制する」という意味で用いられる言葉になったようです。本土戦でなければ、戦死するのは軍人だけですからねえ。

【ただいま読書中】『戦争の経済学』ポール・ポースト 著、 山形浩生 訳、 バジリコ、2007年、1800円(税別)

 戦争は経済に影響を与えます。まず心理的な影響から、株価が下がります。戦費調達によってほとんどの国でインフレが起きます。これはマクロ経済の話。戦争によって貿易の流れが阻害されるとミクロ経済も阻害されます。また「人命」も金に換算することが可能です。本書の試算では、ベトナム戦争は戦死者によってアメリカに710億ドルの経済損失をもたらしていますが(1968年当時)、これは2000年価格だと3550億ドルとなります。
 ところで、二十世紀のアメリカは本土戦を経験せず、戦争によって経済成長がもたらされたように見えます(そういえば日本も、本土が無関係な第一次世界大戦と朝鮮戦争では好況を享受できましたっけ)。そこで本書では、二つの世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争を検討し「戦争が経済に有益」である場合には「戦争前に低い経済成長で有休リソースが豊富、戦時中に巨額の政府支出が続く、自国が戦場にならない、期間が短い、資金調達が節度を持って行われている」という条件がそろったときである、という結論が出されます。逆に言えば、これらの条件のどれかが破綻したら「戦争は経済に有益ではない」となってくるわけです。
 ただ、政府と個別に契約が結べる企業にとっては「戦争は有利」です。近年正規軍が縮小しているアメリカでは予備役や州兵が大量動員されましたが、それは有能なエンジニアなどを引き抜かれた地域社会にダメージを与えました。
 「軍事費」そのものが国の経済(民間支出)や財政に与える影響についての考察も興味深いものです。ここで挙げられている「SIPRI年鑑」の「2002年軍事支出上位15ヶ国」(2000年のドル換算)では、ダントツは当然USAですが、2位はなんと日本です。ただし「対GDP」では1%となってヨーロッパ各国より下位に位置するのですが、日本は(少なくとも総額では)「軍事大国」扱いでした。ちなみに本書ではそれに関連して「憲法第9条」も取り上げられています。本書の他のテーマと同様、きわめて冷静な手つきで扱われていますが。
 1970~80年代に米ソは軍拡競争を行いました。ゲーム理論では双方が軍拡を行うのは当然ですが、軍事支出の対GDP比が増えると、国の経済にどのような影響が出るか、がここで具体的に論じられます。軍備支出と民生品生産、それと主観的な安全感とを関数にしてその関連を見ると、軍拡競争がなぜ起きるか、その行き着く先はどのような国の状態か、が明確にわかります。
 軍人の数や徴兵と志願兵の構成比の章もあります。ここでは日本はみごとなくらい軍事小国です。ちなみに「軍人数」のトップは中国、現役軍人数の人口比でトップは北朝鮮です。では、徴兵制度と志願兵制度のどちらが“安上がり”でしょう? もちろん徴兵の方が(兵隊を集めるための)予算費用は低くなります(民間企業と人件費で競争する必要がありませんから)。しかし国としての機会費用(あきらめなければならないもの)は高くなります(熱意のない人や兵隊よりも有為な活動が社会でできた人を強制的に兵隊にしてしまうのですから)。
 民間軍事会社、軍需産業(と民生産業との関係)、テロとの戦い、などが「経済学の視点」から語られます。本書を読みながら私はそこはかとない違和感を感じ続けていたのですが、「内戦の原因は様々語られるが、紛争の真の原因は経済状況(貧困、資源採掘、強欲、少数民族からのリソース搾取、格差、など)だ」と喝破されると、私は一瞬たじろぎます。となると、他人ごとではないぞ、と。特に「自爆テロ」を経済的に解析したところでは、私は何度目かのたじろぎを感じてしまいました。
 「戦争は事業だ」という“宣言”が本書の最初にありますが、では「事業の収益性」は結局どうなのでしょう。最近の戦争は昔とは違って複雑かつ長期化の傾向があります。そこで例として取り上げられるのが「日清戦争」と「自衛隊のイラク派兵」です。まずは政府の財政的な分析が行われ、次いで日本経済全体での費用や便益の評価(経済分析)が行われます。というか、戦前の日本政府は日清・日露戦争での詳細な経済分析を行っているそうです。ということは、第二次世界大戦についても、きちんとした財政的分析と経済分析を行って“収支決算”をしておくべきじゃないでしょうか。次の戦争をするのなら、その“事業”がペイするかしないかくらいは知っておいてバチは当たらないはずです。


学のある兵隊

2015-03-18 06:43:48 | Weblog

 日清戦争や日露戦争で日本軍が強かったのは、全く教育をうけていなかった清やロシアの兵隊に比べて日本の兵隊は義務教育をうけていたからだ、という説があるそうです。
 なるほど。もしそれが正しければ、第二次世界大戦では、ハイスクールや大学を出た兵隊を相手に高等小学校を出ただけの兵隊が苦戦をした、と言うこともできそうです。

【ただいま読書中】『テアイテトス』プラトン 著、 田中美知太郎 訳、 岩波文庫(青601-4)、1966年(2014年改版)、900円(税別)

 若き優秀児テアイテトスとソクラテスとの対話、という形式で本書は進みます。問いかけられるのは「知識とは?」。
 まず紹介されるのが、「知識とは感覚である」(プロタゴラスの説)。脳への情報入力は感覚によります。だから知識の本体は感覚だ、という考え方です。ソクラテスは「では、視覚によって得られた知識は、目を閉じたら失われるのか?」と尋ねます。そこで次に登場するのが脳に入力されたもの、つまり「思いなし(ドクサゼイン)」それも間違ってはいない「真なる思いなし」こそが知識である、という考え方です。私の言葉を使うなら「脳内に入力された情報」。しかし「思いなし」が単独で存在していることはありません。“それ”が存在している脳との相互関係があるはず。そこで「知識とは、思いなしとそれに加味されたロゴス」という説が三番目に登場します。
 こうしてみると「単純な論考を並べただけの本」のように見えますが、もちろんそんなことはありません。他の本と同様、ソクラテス(プラトンのアバター)は話をあっちに持っていったりこっちに持ってきたり、自由自在です。知恵がぽろぽろこぼれてきますが、たとえばその中には「最初から結論を出しておいてからそれを証明しようとするのではなくて、まず仮説をいろいろ考え、それぞれを検証することで結論に迫っていく態度が重要」なんて知的態度で重要な方法論も含まれています。
 プラトンは現在でも、けっこう“有効”です。


社会に無知な人

2015-03-17 07:03:22 | Weblog

 教師は、学校を卒業したら学校に就職します。そして生徒たちに「お前たちは社会を知らない」と言い放ちます。自分たちだって「学校」以外を知らないのに。もちろん生徒の父兄(まさに「社会」で生きている人々)から「社会」を学ぶ教師もいるでしょうが。
 検事や裁判官は、学校を卒業して司法修習を受けたら裁判所や検事局に就職します。そして人々に「お前たちの生き方は社会的におかしい」と言い放ちます。

【ただいま読書中】『ニッポンの裁判』瀬木比呂志 著、 講談社現代新書2297、2015年、840円(税別)

 著者は三十三年間勤めた元裁判官で、だから裁判制度の“現場”について非常に詳しい人だということになります。
 世間一般の常識では「裁判官はまず事実認定を行い、ついで法律や過去の判例に照らし合わせて結論を下す」となっています。著者もそう信じていたそうです。ところが「法が固定したもの」というドグマを疑った「リアリズム法学」という思想があるのだそうです。そこでは「裁判官が法を“素材”として用いて、自分の判断で法を変更あるいは新しい“法”を創造する」と考えられているのだそうです。アメリカのプラグマティズムの影響が強いこの思想を唱えた代表格の学者はアメリカのジェローム・フランクですが、その主著『法と現代精神』の出版は1930年なんだそうです。本書の著者瀬木さんも、プラグマティズム的考え方に親和性があるそうで、だからリアリズム法学の影響も受けているそうです。
 最高裁が用いるレトリックには「韜晦型」と「切り捨て御免型」があるそうです。どちらも「粗暴な論理」の展開ですが、前者は結論を正当化するために延々と説明が展開され、後者は都合の悪いことには一切触れない、というやり方です。どちらも判決文を「日本語」に“翻訳”してみたら、そのおかしさがよくわかる、と具体的な例が挙げられています。そしてその「おかしさ」は、「法」ではなくて「裁判官の総合的な人格」から生み出されている、と(「法」は最初に直感的に出された結論を正当化するための“手段”として使われているだけです)。
 著者は民事裁判の裁判官だったからでしょう、刑事裁判については“内部”(同じ司法の世界の人間)であると同時に“外部”の人間としても見ることができるようです(逆に民事のトンデモ判決については判断が甘いのですが)。
 「人質司法」「冤罪は国家の犯罪」「日本の刑事司法のあり方はあきらかに異常」「三権分立など絵空事」などと強めの言葉が並びます。そして「見込み捜査」。日本文化では「事実」よりは「物語」の方が人気があるので、「証拠」よりも「自白」が偏重されるのではないか、というのが著者の推定です。
 日本の裁判官は「独立」しているはずですが、実際には最高裁判所の事務総局によって“管理”されているのだそうです。ただしその管理手法は、身内の雑誌や協議会を通じるという、外部の人間にはまず見えない巧妙なやり方となっています。フクシマ以前に「原発は安全で事故なんか起きない」判決が続出し「危険だ」という判決はわずか2例しかありませんでいたが、著者によれば「しか」ではなくて「2例もあった」のだそうです。しかもその裁判官はどちらもすぐに裁判官を辞めています。つまり、著者によれば、「最高裁は原発容認」だった(そして日本中の裁判官はそれに逆らえないようにシステムがなっていた)、となります。
 行政訴訟や住民訴訟でも「これが民主国家の裁判か」と言いたくなる実態が明らかにされます。「自分は権力者なんだ」と言いたそうな最高裁の判決文(とそれに対する著者の解説)を読まされると、げんなりします。本来は三権分立で、立法・行政の監視をするべき司法が「権力の走狗」に成り下がっているのですから。国民を相手に威張り散らして本人たちは快感なのかもしれませんが、走狗は走狗で、どこからも尊敬されなくなるだけなのですが。
 一種の「内部告発」の本です。ただ「内部」とか「告発」とかにだけ注目するのではなくて、その内容に注目をするべきでしょう。司法が腐ったら、国はおそらく倒れますから。


球春到来

2015-03-16 06:26:48 | Weblog

 ケーブルテレビのスポーツチャンネルで野球のオープン戦をやっていました。オープン戦にしてはずいぶん観客が入っていて盛り上がっているなあ、と思ったら広島カープ対オリックス戦で、広島の先発ピッチャーが黒田でした。なるほど、アメリカから帰ってきた姿を見よう、とファンが押しかけたのでしょう。
 ところで黒田投手は「かつてカープに在籍していたエースが戻ってきた」と言うこともできますが、「現役ばりばりの大リーガー(ヤンキースのローテーションの一角)がやって来た」と言うこともできるわけです。
 あ、こう書いたら、私も見に行きたくなってきました。

【ただいま読書中】『最後の遣唐使』佐伯有清 著、 講談社学術文庫、2007年、800円(税別)

 遣唐使を廃止した“功労者”は菅原道真です。ということは(実際に唐に渡った)「最後の遣唐使」はその前、ということになります。しかしその人はあまり有名ではありません。実際に渡った人よりも渡らなかった人の方が遣唐使に関して有名、というのも面白いものです。
 承和元年(834)正月、遣唐使の任命が行われました(延暦二十年(801)の派遣以来33年ぶりのことです(延暦二十年の船に乗った“有名人”は空海))。大使に任命されたのは藤原常嗣(つねつぐ)。その父の藤原葛野麿(かどのまろ)は延暦二十年の遣唐大使でした。副使は小野篁(百人一首の「わたの原 やそしまかけて……」を詠んだ人です。なお、篁の五代前が遣隋使で有名な小野妹子です)。
 777年の第14次遣唐使では、大使の佐伯今毛人(いまえみし)が出発直前に「病気」になり、副使の小野一族の石根は第一船に乗船。唐からの帰途に船が難破して石根は死んでしまいました。この“事件”(船の交換と副使の死)が、有名な小野篁の乗船拒否につながったようです。
 ともあれ、承和三年五月十四日に遣唐使船4隻は難波津を出港します。出港するなり大嵐。四隻は輪田の泊(神戸)に避難します。それでも何とか博多に四隻とも無事たどり着き、七月二日に博多の津を出港。ところがまたもや荒天で第一船と第四船が肥前国に吹き戻されてしまいます。小野篁が乗った第二船も肥前に漂着、第三船はバラバラになって一部は対馬や肥前に漂着しますが、乗り組んだ百四十余人のうち助かったのは28人だけでした。残る三隻でトライした翌年の渡海も失敗。このときすでに、大使と副使の間はぎくしゃくしていたようです。律令政府は強硬に出発させようとします。しかし副使は「病気」で渡海を拒絶。学者の中にも船を勝手に下りる者たちがいました。
 国は疲弊していました。班田収授の法はすでに機能しなくなっており、飢饉と疫病により国家財政は破綻寸前。遣唐使の一行が出発せずに太宰府にぐずぐずしているのを食わせるのでさえ、太宰府ではひどい負担に感じていました。遣唐使一行は、少なくとも小野篁は、このような状況で大枚をはたき人命を賭けて渡海するのは無意味、と感じていました。だから彼は船を下りたのでしょう。
 さて、ともかく三隻の船(第三船は“欠番”)は博多を出航しますが、ここから本書は円仁の『入唐求法巡礼行記』に頼って記述を続けます。私の記憶が確かなら、ここの部分はほとんど直訳に近いですね。船は狙い通り揚子江の河口に到着しますがそこで船は座礁、そこから長安までは長い長い道のりです。長安に到着したら、こんどは官僚主義との長い長い折衝が待っています。円仁が天台山を巡礼できるように、大使は細かく心を砕きます。結局円仁は唐に残留することにしました。
 翌年一行は日本に帰りますが、乗ってきた船のうち二隻はもう使えません。そこで、当時外洋航海に定評のあった新羅船を九隻雇い、分乗しての帰国となりました(百数十人乗れる遣唐使船とは違って、新羅船には数十人しか乗れなかったのです)。大使の帰国後、島流しになっていた小野篁は許されて帰京します。ただし、無位無冠の扱いで、以前の位階が許されるのはしばらく後のことでした。
 当時の新羅は戦乱で荒れていて、交易目的以外に、難民も多数日本にやって来ていました。そのおかげで、日本では東アジアの情報をほとんどリアルタイムで知ることができていました。その情報の中には、唐の騒乱も含まれていました。実は中国から優れた文物を輸入するための遣唐使は、その頃にはすでに主な使命を失っていたのかもしれません。


人の大きさ

2015-03-15 07:15:32 | Weblog

 「人は有限の脳で無限について考えることができる」という言葉があります。これは人に勇気を与える言葉ですが、現実として「身の丈以上のこと」を実際に考え実行している人が、さて、どのくらいいるのでしょうか?

【ただいま読書中】『剣客商売全集第4巻』池波正太郎 著、 新潮社、1992年(98年3刷)

 第7巻「狂乱」と第8巻「隠れ蓑」が入っています。
 父親の秋山小兵衛は相変わらずひょうひょうとしています。息子の大治郎の道場には、二人目の弟子が現れました。もちろん小兵衛や大治郎が関与しなければならなくなる「ドラマ」付きで。
 先日読書したばかりの『孤児の物語』には「河童」が登場しましたが、こちらにも「河童」が登場します。登場しただけではなくて、不逞の剣客の鼻を切り飛ばして逃げていきます。いやいや、剣呑な「河童」です。
 昔のテレビドラマ「コンバット」では、戦死するのはゲスト出演者だけで、レギュラーメンバーは必ず生き残ることになっていました。これはもちろん「戦場」ではなくて「テレビの事情」によるものです。それと同じように、本書でも「レギュラーメンバー」はきっちりと生き残ってくれます。死ぬのは“ゲスト”。ただ、剣客商売ですから、いつ“事故”が起きるかはわかりません。あまり安心はせずに、読み続けることにいたしましょう。


選民意識

2015-03-14 07:04:02 | Weblog

 ユダヤ人は神によって選ばれたという選民思想を持っています。
 ヒトラーも選民思想を持っていた様子ですが、自分は誰に選ばれたと思っていたのでしょう?

【ただいま読書中】『孤児の物語II ──硬貨と香料の都にて』キャサリン・M・ヴァレンテ 著、 井辻朱美 訳、 東京創元社、2013年、円(税別)

 『孤児の物語I』「第一の書 草原の書」は王子の物語で「第二の書 海の書」は「雪」と呼ばれる少女の物語でした。第一の書で登場した人物(動物)が第二の書でも登場したり、別の形になっていたり、「同じナイフ」が違う話で違う人によって握られて登場したり、話はどんどん複雑になっていきます。私は両眼に万華鏡の眼鏡をかけて歩いているような酩酊感を覚えながら、『孤児の物語II』のページを開きます。
 そう、本書の特徴は「物語に酔う」ことです。不思議な隠喩と暗喩と比喩に彩られ、もつれ合った鉄条網に偽装した茨の茂みと、もつれ合った茨の茂みに偽装した鉄条網で延々と形作られた言葉の迷路をさ迷う内に、読者は「物語」の迷路に酩酊し、さらに迷いながら酩酊している自分自身にも酔ってしまうのです。
 本書は「第三の書 嵐の書」で始まります。その時になって、物語の第一の聞き手である童子は、語り手の女童の名前を知らない(聞いていない)ことに気がつきます。女童は名前を明かしません(あるいは、本人も知りません)。さらに、物語が始まると、童子は「この物語は、気に入らない」と言い出します。もちろんそれは“伏線”なのですが。
 「第一の書」「第二の書」では、話はバラバラでその中に関連性や連続性を見出すのは困難でしたが、「第三の書」で話は少し“タイト”になってきます。これまでの話との関連性があちこちに散りばめられているのです。ただ、それで全体像が見つけやすくなったわけではありません。そもそも「全体像」なんてものがあるのかどうかもわかりませんが。
 日本人としてクスリとしたのは、「河童」が登場したことです。もちろん好物は胡瓜。ただし頭にはお皿ではなくて凹みがあってそこに青々とした水が湛えられているのですが。これって、頭池?
 そしてついに最後の「第四の書 スカルドの書」が始まりますが……ここで私は意表を突かれます。物語を読み始めるのは、童女ではなくて童子なのです。彼はおずおずと読み始めます。「〈星〉たちが目を向けぬ荒れ果てた野に、げっぷのごとき熱風が吹き、セージの灌木が白い岩の上を這い、この野に、大きな鉄の枠があり、さらにその中に大きな鉄の檻があり、風がその中を叫びながら吹き抜けていった。平石の上で体を裂かれた女の声を思わせて……」 私はぞくぞくしながらその文章を目で追います。頭の中で、童女と童子の声が響きます。
 やがて、童子を庭園に出さないように(童女の話を聞かせないように)努力していた姉ディナルザドが結婚することになります。姉と和解した童子は、結婚の宴に童女を紛れ込ませることにします。宴の間にも「物語」を聞く(読む)ことができるように。婚姻の宴と「孤児の物語」が同じ場所で同時進行をします。
 最後に、物語は終わります。しかし童女は待っています。その後、どうなるのか、と。
 読み終えて、本書を閉じて、そして私も待っています。何かまだ、起きるのではないか、と。
 ファンタジーというジャンルの地平線の向こうを望み、人の想像力と文字による表現力の限界を越えようとし、さらに文化や宗教の違いをも吸収しようとし、それらのすべてにそれほどの力みを見せずに挑戦してみせた作品です。これはすごい作品です。ため息を1001回ついても足りないくらい、すごい作品です。


「寄り添う」と書いてなんとルビを振る?

2015-03-13 07:08:17 | Weblog

 政府の人は口では「沖縄に寄り添う」と言い続けていますが、行動は「たとえ強い反対があっても平気で工事再開」なんですね。「寄り添う」って、そういう状況で使う言葉でしたっけ? もしかして「寄り添ってやるから、ありがたく思え。だから俺の言いなりになれ」が本当の意味?

【ただいま読書中】『若菜摘み ──立場茶屋おりき』今井絵美子 著、 角川春樹事務所、2011年、667円(税別)

 目次「秋ついり」「籬の菊」「初明かり」「若菜摘み」
 立場(たてば)とは、本来は街道の難所などのことで、そこにできた茶屋が「立場茶屋」なんだそうです。「峠の茶屋」もその一種。もっとも本書の立場茶屋は品川にあるのですが。武家の立場を捨ててその茶屋の二代目おかみとなったおりきと彼女を取り巻く人々の江戸人情ドラマ、という仕立ての連作短編集です。
 主要舞台が茶屋ですから、そこで出されるお料理が美味しそう。ただ、まるでラジオドラマのように台詞ですべてが余すところなく説明されていて、台本だったらト書きの部分も全部ことばで説明されて、だからストーリー展開は平板です。話は一直線に結末に駆け込んでしまいます。シリーズものとは知らずに図書館から借りてきたのですが、もうお腹いっぱいで、私はこのシリーズの他の本は読まなくてもよさそうです。


落ちた鱗

2015-03-12 06:24:58 | Weblog

 「目から鱗が落ちる」と言います。では「目に鱗がはまった状態」で「真っ直ぐな美点」に見えていたものは、「鱗が落ちた目」にはどのように見えるのでしょうか?
 ところで、今私から見て「真っ直ぐな美点」に見えているもの、それはまさか「目の中の鱗」が見せているものではないでしょうね。

【ただいま読書中】『孤児の物語I ──夜の庭園にて』キャサリン・M・ヴァレンテ 著、 井辻朱美 訳、 東京創元社、2013年、5500円(税別)

 わずか四ページの文章と一ページの絵だけで構成された「前奏曲」。これだけで私の心は「物語」によって静かに満たされてしまいます。膨大な物語とまじないの言葉を精霊によって瞼と目の周りに精密に書き込まれた童女と彼女を訪ねたスルタンの息子である童子。童子は物語を聞きたがります。童女は、自分の瞼に彫り込まれた物語の一つを語り始めます。「昔、遠い地に、満ち足りることを知らぬ王子があった」……そして中断。
 物語の突然の中断は『千夜一夜物語』を思わせます。そして、物語は入れ子構造となり、複雑さを増していきます。最初の物語の中で、王子の指を切り落とした魔女〈あいくち〉が語り出すのです。「わしは北方の出、毛むくじゃらの馬と暮らし、編み髪には雪のこびりついた草原の女──わしらは怪物であり、天然の理を外れたものであり、それにふさわしき運命をこうむった」……魔女をひどい目に遭わせたのは王子の父でした。そして、魔女の祖母が語る物語が始まりますが……また中断。童女は寝てしまいます。童子が彼女を起こし物語が再開されると、こんどは魔女の祖母の師匠の物語が始まります。
 「夢から覚めた夢」ということばがありますが、本書はその逆で、夢の中で寝たらまた夢を見てその中で寝たらまた夢を見て……といった感じの入れ子構造の繰り返しで、少しずつ読者は“魔法”にかけられていきます。もちろん“最初の読者”である童子は物語にしっかり耽溺してしまいます。
 「王子」は、自分が殺した乙女を生き返らせるために「物語の旅」を行います。天文学者の熊と出会い湿原の王と出会い〈けだもの〉と出会い……長い長い詩のような言葉の旅ですが、ここでまだ120ページ。本書は500ページ×2巻もあるのに、このまま最後まで「物語」は続くのでしょうか、というか、童女の瞼(と目の周囲)に、そこまで長い物語が書き込めるものなのでしょうか。そして、それを聞かされる童子と読者は、一体どうなってしまうのでしょうか。わくわくどきどきで、ページをめくる手が止まりません。危険な本です。読むときには取り扱いに注意をしてください。