台湾での選挙の結果が出ました。これで中台関係がどうなるのか、おそらくこれからもぎくしゃくとしたものが続くのではないか、と私は予想していますが、私はそもそも「一つの中国(台湾は中国)」というのに疑問を感じています。もともと台湾には「原住民」がいて、そこに漢民族が移住して「ここは中国だ」と主張した、つまり、かつてのハワイと似た状況だった、と私は理解しています。さらに日清戦争後は日本の領土になり、日本の敗戦後は国民党が乗り込んで、やはり「原住民(漢民族が大勢いますが国民党から見たら「日本かぶれした連中」)」を押さえつけて自分の政府を立てました(その典型が「二・二八事件」でしょう)。ともあれ、台湾は少なくとも「中華人民共和国」の一部だったことは歴史的にはないわけです。どうしてそれで「一つの中国」なのかなあ。
【ただいま読書中】『レオナルド・ダ・ヴィンチ ──手稿による自伝』裾分一弘 著、 中央公論美術出版、1983年、3000円
レオナルド・ダ・ヴィンチは、素描・素画・手稿は大量に残していますが、完成した作品は意外に少なく40点以下(学者によってはたった9点)だそうです。手稿の内容は自然観察や事実の記録が主で、自身の内面を語ったものはほとんどありません。その手稿を年代別に並べてレオナルドに“自身”で自分のことを語らせようというのが本書の趣向です。レオナルドは1452年(日本では応仁の乱の直前)にヴィンチ村で生まれました。ヴェロッキョ(フィレンツェの画家・彫刻家・金工家)の工房にいつ入ったかは不明ですが、当時の徒弟が14~5歳で修業を始めるのが普通だったことから、レオナルドも1466年前後に徒弟生活を始めたものと推定できます。その徒弟時代の素描(1473年)の文字は、いわゆる鏡像文字です。レオナルドは両手利きで、鏡像文字は左手で書いていたようです。
才能が注目され、30歳の時にミラノのスフォルツァ家に仕官。この地にレオナルドは20年間留まることになります。ここで完成した美術作品は、板絵「岩窟の聖母」、壁画「最後の晩餐」。未完成に終わった青銅彫刻「スフォルツァ騎馬像」も名前は有名ですね。特に最後の彫刻は、馬に2本足を上げさせると力学的に不安定になるため、手稿では様々な解決策が模索されたことがわかります。結局戦争のために銅は大砲製造に回され、粘土の原型はミラノに進駐したフランス兵に弓の標的にされて破壊されてしまいました。
30歳までのレオナルドはただの徒弟扱いですから、特殊な教育はうけていなかったはずです。絵画や彫刻の材料・素描のやり方・遠近法・陰影について、くらいでしょう。ミラノ時代にレオナルドは、美術だけではなくて、語学の勉強にも励みます。アルキメデスを読もうとしていた、という説もあるそうです。解剖も行いました。人間の眼球が、生だと切開しにくいので、卵の白身に入れて加熱し、固まったところを切った、と解剖手稿にあります。
手稿の中に女性の名前はほとんど登場しません。「カテリーナ」が数度登場していますが、実母カテリーナのことかどうかも不明です。有名な「モナ・リザ」は「モデルがリザ夫人」という説からの命名ですが、同時に「モデルはジョコンド氏の夫人」という説から「ジョコンド」と呼ばれることもあります。ところがレオナルドの弟子と親交があったロマッツォ(画家・美術批評家)は「レオナルドの手になる作品若干は、ジョコンドやモナ・リザのごとく美人画として描かれたもので……」と書き残しています。つまり「ジョコンド」と「モナ・リザ」という別の作品があったようなのです。さて、「モナ・リザ」は本当に「モナ・リザ」なのでしょうか? そして、そのモデルは?
「画家の心得」としてレオナルドが説くのは「勤勉」「清貧」「孤独」です。著者から見るとこの態度は、ルネサンス的というよりは中世的なのだそうですが、レオナルドが育った環境からの影響が強いのではないでしょうか。明治維新だって「江戸時代に育った人」が実行したわけですし。
解剖学手稿もインパクトのあるものです。自身でおそらく10体以上の解剖を行った成果が描かれていますが、防腐剤も使えない時代で、教科書も師匠もない状況です。おっと、「教科書」はありましたが、これがなんと古代ローマ時代のもの(古代ローマのガレノスの解剖学書が、中世ヨーロッパの「基準」だったのです)。だから、一見精密な図に見えて、けっこう間違っている部分が多いそうです。ただ、彼の功績は「解剖学」ではなくて「解剖の図示」にあると考えることは可能です。実際に彼の筋肉標本のスケッチなど、本当に“リアル”に見えますから。
レオナルドには実はあまり「学」はなかったのではないか、という指摘はなかなか新鮮でした。それでもあれだけの“業績”を残せたのですからよほどすごい資質を持った人だったのでしょうね。