T先輩の研究室は、建物の6階にあった。
部屋自体は思いのほか広かったが、他の博士課程の学生との相部屋だった。
「おぉ、いらっしゃい。お茶でも飲みに行こう。」
と言って、T先輩はタカシを大学構内のカフェに誘った。
春休みもとっくに終わっていたので、カフェにはまばらに人がいた。サークルの会議や、ただ友人たちと話をしている様子のグループが何組かいた。
タカシにとって、T先輩と向かい合って話すのは初めてだった。
「で、相談ってなんだっけ?ちょっと、かいつまんでもう一度話してくれるかな。」
関心があるのか無いのか分からない静かな口調でT先輩は言った。
T先輩がおごってくれたコーヒーを飲みながら、タカシはこれまでの経緯を話した。
留学したいこと、けれど、英語が全然出来ないこと、どうしたらいいのか分からないこと。
「留学ねぇ・・・。出来るなら、した方がいいだろうねぇ。」
T先輩は俯き加減で言った。
「T先輩は留学したこと、あるんですか?」
「あるよ。イギリスに一年間いた。修士課程で勉強したんだ。まあ、あっという間だったね。」
「すごい。」
T先輩は少し笑って、
「いや、そんなことはない。」
と言った。
「僕も英語が出来なかった。だから、留学まではとても苦労した。君の気持ちはとてもよく分かる。」
「困っています、とても。」
「残念ながら、僕は未だに大して英語は出来ないんだよ。」
「ウソです。一年間いたわけですよね?」
T先輩は申し訳なさそうな顔をしながら、
「大変に恥ずかしい。しかし、まあ、英語っていうのはそういうものだ。」
と、だけ言った。
「でも、僕は留学に行く前につまずいています。」
「うん。」
「何かいい方法はありませんか?」
「そうだねぇ。英語のスコアを偽造するっていう手があるね。途上国とかで。」
「え?」
「それは冗談だけど、イギリスにもそうやって来た子たちが、ごく少数だったけどいたよ。もちろん、日本人ではなかった。」
と言って、T先輩は笑った。
タカシは冗談で笑う気分ではなかった。そんなことより、良い方法を早く教えてほしい。
「英語に近道はない。まず、このことを確認しておこう。」
「はい・・・。」
「仮に君が今、英語圏に行ったとしよう。すると、急にしゃべったり、書いたりできるようになるかというと、そうはならない。」
タカシはがっかりした。留学すれば一気に英語が使えるようになると期待していたからだ。
「もちろん、早く成長することは間違いないよ。でも、日本でも出来ることが沢山ある。」
「それが知りたいんです。」
「じゅあ、まず確認するけれども、毎日、英語のリスニングはやっているかね?」
「やっていません。」
「じゃあ、毎日、英語の本や新聞記事を読んでいるかな?」
「読んでいません。」
「会話や英作文などは、もちろん、やっていないだろうねぇ・・・。」
タカシはやられっぱなしで、なんだか悔しかったし、何より恥ずかしかった。
このまま帰れと言われても仕方がないような気がした。
「大事なことのひとつはね、君の言語のギアを英語に入れる練習をすることなんだよ。それと、英語のエンジンを大きくすること。」
「はあ・・・?」
「って言っても、感覚的な話だから、分かりにくいと思うんだけど。まあ、徐々に説明していくから。」
T先輩は本腰を入れて説明し始めた。
「君は英語だけで何時間も会話し続けたことはあるかな?その間に日本語を話したりしては駄目だよ。」
「ありません。」
「そうか。英語を勉強しはじめたぐらいのころはね、何時間も英語で会話し続けると、途中で頭のなかのギアが変わる瞬間がおとずれる。」
「ギアですか?」
タカシは何とかイメージしようと、自分のこれまでの経験をひっぱりだそうとしたが、役に立ちそうなものは見つからなかった。
「まあ、近いもので言うと、そうだな・・・、何時間も走ったり、あるいは泳いだりすると、途中で急に苦しくなくなることがあるだろ。」
「はい。心臓とか肺とかが慣れてきますね。」
「それに近い。」
「へぇ・・・。」
「まあ、口で説明しても、こんなもんだろう。それと、エンジンのことだけども。」
「はい。」
「ギアが英語に変わっても、エンジンが小さいとスピードが出ない。」
なぜ、車の比喩なのだろうと、タカシはどうでもいいことが気になっていた。
「エンジンとは、語彙であり、文法であり、表現パターンの量のことだ。これが多ければ、スピードも速くなる。なぜなら、自分が言いたい感情を適切に表現する選択肢が簡単に選べるからだ。」
「なるほど。」
タカシはちょっとだけ分かったような気がした。
「これが大事なことのひとつめね。」
まだ、ひとつめらしい。
「もうひとつ大切なのが、音だ。」
「音ですか。」
「アクセント、イントネーション、リズム、それらを沢山頭に入れなくてはいけない。そうしないと、聞き取れないし、話せない。僕はこれが苦手でねぇ。」
タカシは、T先輩だけでなく、多くの日本人が苦手だろうと思った。
「たとえば、ボルトって陸上選手がいるだろ。」
「はい。」
「上の名前は知ってるかな?」
「ウサインです。」
「英語圏の人はそう発音しない。」
「え?」
「ユーセイン、と発音する。だから、もし君がユーセイン・ボルトという音を聞いた場合、おそらく誰のことか分からないだろう。もちろん、文脈で理解することはあるだろうが。」
「へぇ。」
これはすんなり理解できた。
「ところで、外国に長期滞在するのに必要なものは何かしっているかな?手続き上のことだよ。」
「え?ビザですか?」
「それも英語圏では通じない。正確には、ヴィザだ。当たり前にビザと言うが、発音としては間違っている。」
これについては、タカシは半信半疑だった。
「実際、僕がイギリスの空港で通じなかったんだ。」
と言って、T先輩は笑った。
「何度、ビザって言っても職員が理解しなくてねぇ。現物を見せて理解されたとき、絶望的な気持ちになった。」
タカシは何て言ってのか分からず、
「困りますねぇ。」
とだけ言った。
「そんなことが無限にある。だから、英語を20歳からやっても限度というものがある。だから、諦めた方がいい。」
「え?」
「ネイティブ・スピーカーに勝つことはね。」
また、T先輩は笑った。
「英語を使えるようになるには、君の目的をはっきりさせることが必要だ。どの分野の、どの英語を勉強するのかはっきりさせるんだ。そうしないと、きりがない。
まず、英語の試験の英語に絞ろう。」
タカシは暗澹たる気持ちになった。
部屋自体は思いのほか広かったが、他の博士課程の学生との相部屋だった。
「おぉ、いらっしゃい。お茶でも飲みに行こう。」
と言って、T先輩はタカシを大学構内のカフェに誘った。
春休みもとっくに終わっていたので、カフェにはまばらに人がいた。サークルの会議や、ただ友人たちと話をしている様子のグループが何組かいた。
タカシにとって、T先輩と向かい合って話すのは初めてだった。
「で、相談ってなんだっけ?ちょっと、かいつまんでもう一度話してくれるかな。」
関心があるのか無いのか分からない静かな口調でT先輩は言った。
T先輩がおごってくれたコーヒーを飲みながら、タカシはこれまでの経緯を話した。
留学したいこと、けれど、英語が全然出来ないこと、どうしたらいいのか分からないこと。
「留学ねぇ・・・。出来るなら、した方がいいだろうねぇ。」
T先輩は俯き加減で言った。
「T先輩は留学したこと、あるんですか?」
「あるよ。イギリスに一年間いた。修士課程で勉強したんだ。まあ、あっという間だったね。」
「すごい。」
T先輩は少し笑って、
「いや、そんなことはない。」
と言った。
「僕も英語が出来なかった。だから、留学まではとても苦労した。君の気持ちはとてもよく分かる。」
「困っています、とても。」
「残念ながら、僕は未だに大して英語は出来ないんだよ。」
「ウソです。一年間いたわけですよね?」
T先輩は申し訳なさそうな顔をしながら、
「大変に恥ずかしい。しかし、まあ、英語っていうのはそういうものだ。」
と、だけ言った。
「でも、僕は留学に行く前につまずいています。」
「うん。」
「何かいい方法はありませんか?」
「そうだねぇ。英語のスコアを偽造するっていう手があるね。途上国とかで。」
「え?」
「それは冗談だけど、イギリスにもそうやって来た子たちが、ごく少数だったけどいたよ。もちろん、日本人ではなかった。」
と言って、T先輩は笑った。
タカシは冗談で笑う気分ではなかった。そんなことより、良い方法を早く教えてほしい。
「英語に近道はない。まず、このことを確認しておこう。」
「はい・・・。」
「仮に君が今、英語圏に行ったとしよう。すると、急にしゃべったり、書いたりできるようになるかというと、そうはならない。」
タカシはがっかりした。留学すれば一気に英語が使えるようになると期待していたからだ。
「もちろん、早く成長することは間違いないよ。でも、日本でも出来ることが沢山ある。」
「それが知りたいんです。」
「じゅあ、まず確認するけれども、毎日、英語のリスニングはやっているかね?」
「やっていません。」
「じゃあ、毎日、英語の本や新聞記事を読んでいるかな?」
「読んでいません。」
「会話や英作文などは、もちろん、やっていないだろうねぇ・・・。」
タカシはやられっぱなしで、なんだか悔しかったし、何より恥ずかしかった。
このまま帰れと言われても仕方がないような気がした。
「大事なことのひとつはね、君の言語のギアを英語に入れる練習をすることなんだよ。それと、英語のエンジンを大きくすること。」
「はあ・・・?」
「って言っても、感覚的な話だから、分かりにくいと思うんだけど。まあ、徐々に説明していくから。」
T先輩は本腰を入れて説明し始めた。
「君は英語だけで何時間も会話し続けたことはあるかな?その間に日本語を話したりしては駄目だよ。」
「ありません。」
「そうか。英語を勉強しはじめたぐらいのころはね、何時間も英語で会話し続けると、途中で頭のなかのギアが変わる瞬間がおとずれる。」
「ギアですか?」
タカシは何とかイメージしようと、自分のこれまでの経験をひっぱりだそうとしたが、役に立ちそうなものは見つからなかった。
「まあ、近いもので言うと、そうだな・・・、何時間も走ったり、あるいは泳いだりすると、途中で急に苦しくなくなることがあるだろ。」
「はい。心臓とか肺とかが慣れてきますね。」
「それに近い。」
「へぇ・・・。」
「まあ、口で説明しても、こんなもんだろう。それと、エンジンのことだけども。」
「はい。」
「ギアが英語に変わっても、エンジンが小さいとスピードが出ない。」
なぜ、車の比喩なのだろうと、タカシはどうでもいいことが気になっていた。
「エンジンとは、語彙であり、文法であり、表現パターンの量のことだ。これが多ければ、スピードも速くなる。なぜなら、自分が言いたい感情を適切に表現する選択肢が簡単に選べるからだ。」
「なるほど。」
タカシはちょっとだけ分かったような気がした。
「これが大事なことのひとつめね。」
まだ、ひとつめらしい。
「もうひとつ大切なのが、音だ。」
「音ですか。」
「アクセント、イントネーション、リズム、それらを沢山頭に入れなくてはいけない。そうしないと、聞き取れないし、話せない。僕はこれが苦手でねぇ。」
タカシは、T先輩だけでなく、多くの日本人が苦手だろうと思った。
「たとえば、ボルトって陸上選手がいるだろ。」
「はい。」
「上の名前は知ってるかな?」
「ウサインです。」
「英語圏の人はそう発音しない。」
「え?」
「ユーセイン、と発音する。だから、もし君がユーセイン・ボルトという音を聞いた場合、おそらく誰のことか分からないだろう。もちろん、文脈で理解することはあるだろうが。」
「へぇ。」
これはすんなり理解できた。
「ところで、外国に長期滞在するのに必要なものは何かしっているかな?手続き上のことだよ。」
「え?ビザですか?」
「それも英語圏では通じない。正確には、ヴィザだ。当たり前にビザと言うが、発音としては間違っている。」
これについては、タカシは半信半疑だった。
「実際、僕がイギリスの空港で通じなかったんだ。」
と言って、T先輩は笑った。
「何度、ビザって言っても職員が理解しなくてねぇ。現物を見せて理解されたとき、絶望的な気持ちになった。」
タカシは何て言ってのか分からず、
「困りますねぇ。」
とだけ言った。
「そんなことが無限にある。だから、英語を20歳からやっても限度というものがある。だから、諦めた方がいい。」
「え?」
「ネイティブ・スピーカーに勝つことはね。」
また、T先輩は笑った。
「英語を使えるようになるには、君の目的をはっきりさせることが必要だ。どの分野の、どの英語を勉強するのかはっきりさせるんだ。そうしないと、きりがない。
まず、英語の試験の英語に絞ろう。」
タカシは暗澹たる気持ちになった。