それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

不意のジャズ

2012-09-09 06:23:10 | 日記
昨日、彼女とある田舎街をぶらぶらしていていたら、ふいに(50年代のオールドスクール調の)ジャズの演奏が聞こえてきた。

彼女「どこかで演奏してるみたいだよ。」

僕「いや、これはうますぎる。録音されたものかもしれない。」

音が聴こえる方に進んでいくと、飲み屋街のなかにカフェがあり、そこで確かに演奏が行われていた。

会場はニ階で、一体どういうかたちで演奏が行われているのか、また席がどれくらいあるのか、外からは一切分からなかった。

が、演奏はまるで会場にいるかのように外に漏れ出していて(大丈夫なのか)、僕らはしばらくその場所で聴き入っていた。

演奏していたのは、僕も知っている北海道のプロの演奏家たちで、上手かったのも当然と言えば当然だった。

けれど、そのふいのジャズの演奏に僕らは一瞬にして心をつかまれてしまったわけで、それはとても意外なもとだった。

現代人は色々なかたちでプロの演奏家の音源を簡単に聴くことが出来、ある意味で上手な演奏のインフレが起きている。

それにも関わらず、僕らは確かに一瞬で心をぐっとつかまれてしまったのである。

僕らは店のなかに入るか逡巡したのだが、あまりにも不意のことだったし、演奏はもうすでに始まっていたし、食事をまだとっていなかったし、そして何より、選挙カーがとんでもない騒音を発していたので、今回は見送ることにした(ちょうど市長選をやっていたのだ)。

僕らはその後、家に帰って僕が買ったばかりのモダンジャズのCDを聴いたのだけれど、

彼女は「ライブってCDと全然違うね。特にドラムが直接響いてきた」と、至極まっとうなことを言った。

まったくそのとおりだった(ちなみに僕はドラムよりもトランペットの音にひどく惹かれていた)。

とにかく魅力的な演奏だった。

けれども、思うに、結局なかに入らなかったというのが、実は一番のその魅力を引き立てた原因なのではないか、と僕は思う。

つまり、先入観なく、予備知識なく、とても純粋に音だけが聴こえてきて、

それがあまりにも生き生きしたもので、その街で聴こえてくるなどとまさか想像できないようなものだったからこそ、

その演奏は魅力的だったのだ。

たったひとつの演奏がその街全体の印象を一気に変えてしまった。

音楽にはそういうところがあるらしい。