それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

近況

2012-09-08 00:14:43 | 日記
今週、研究しているなかで気付いたことが色々あった。

結論だけ書くとなんとも奇妙なのだけれど、僕は「義憤」というものにかられ、そして、それをどうにかして伝えようと試みている。

そう思いながら論文を書けることはとても嬉しいことだ。

ところで、今日、ある日本語の本を本屋さんで立ち読みしていた。

有難いことに僕の論文を引いてくれていた。

著者の方とは一度だけご挨拶したことがあったのだが、社会的な地位と反比例するかのように腰の低い方だった。

その本は、僕がもしも日本で研究を続けていたら書いたかもしれないテーマのものだった。

その本を読んで僕は、イギリスで研究できて良かったと思った。

僕が書きたいことは、その本には書いていていなかった。

無論、クオリティはとても高かった。著者の方の人柄のように誠実で、そして緻密な素晴らしい本だった。



イギリスの指導教官とは、比較的頻繁にメールでやりとりし、今のところ、コミュニケーションに問題はない。

必要があって、メインの指導教官に博論提出が間近である旨を手紙に書いてもらった。

彼女は驚くほど正確に(誇張なく)手紙に現状を書き記しており、それは大いに好感が持てた。

推薦状は通常誇張するものであり、それが上手な人に執筆を頼む(当然、上手い下手がある)。

けれど、今回頼んだのは証明書に準じた手紙なので、それゆえに彼女は正確に書いたのだろう(一種の保証書的なものだから)。

知ってはいたのだが、彼女はいつの間にかプロフェッサーになっていた。

イギリスの教授職は、日本の(文系の)それと違い、とても高いポジションだ。

キャリアを色々積まないとなれない。

彼女は今の今まで本当にたゆまずに努力していた。

新しいプロジェクトへの挑戦、新しい研究領域の開拓、丁寧な教育。

指導法も含め、僕は彼女からとても多くのことを学んでいる。

これがイギリスのレベルなのか、と思い知らされている。