消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.124 アヘン戦争と南京条約

2007-06-26 01:05:30 | 福井学(福井日記)

 日本でキリスト教伝道において巨大な足跡を残したS. W.ウィリアムズ(Williams, 1857-1928)が、伝道、そしてその任務遂行のために、中国語学習者であったことは、当然であるが、彼はまた有能な外交官でもあった。

 彼の息子のフレデリック・ウェルズ・ウィリアムズ(Frederic Wells)による父の伝記には、副題として、伝道師(Missionary)、外交官(Diplomatist)、中国研究者(Sinologue)という単語が使われている(Williams, F. W. Williams, The Life and Letters of Samuel Wells Williams, LL.D.: Missionary, Diplomatist, Sinologue, G. P. Putnam's Sons, 1889)。

 彼は、1833年、米国海外伝道事務局(the American Board of Commissioners for Foreign Missions)の広東通信員として広東に派遣された。

 
その後、30年以上に亘って、中国と日本の開国のために奮闘した。そして、1856年、在中米国公使館に職員兼通訳として採用された。北京大学と復旦大学とエール大学が学術提携したさいに、彼の功績が称えられた(Tao, De-min, "The Charitable Man from Afar: A Reappraisal of S. W. Williams'(1812-1884)Involvements in the Mid-19th Century East Asia; http://www.sal.tohoku.ac.jp/^kirihara/public-html/cgi-bin/shibusawa/Tao.pdf)ことから類推しても、彼の中国における存在は大きかったと思われる。



 1854年の神奈川条約をペリー提督(Commodore Perry)が結んださい、ウィリアムズが通訳を務めた。

 
そのことに、ペリーは、1854年9月6日、香港から、感謝の手紙を彼に送っている。日本における成功は、貴方(ウィリアムズ)の類い希な素晴らしい通訳と知識のお陰であるというのである(Williams, F. W., ibid., pp. 229-30)。さらに、ペリーが帰国後、交渉経過を作成するときに、ウィリアムズの協力を強く要請している(1855年3月13日、ibid., p.231)。

 1856年から20年間、ウィリアムズは中国で外交的な仕事に携わった。米中間の1858年の天津条約(the Tientsin Treay)締結に大きく貢献する。ウィリアムズは、条約の中に、キリスト教布教の自由を挿入させたのである。

 キリスト者としの使命感は理解できる。しかし、後の中国に対する列強の植民地的政策を定着させた天津条約の中身について、ウィリアムズは良心の呵責を感じなかったのであろうか。キリスト信者を中国で増やすことができれば、帝国主義の暴虐を神は許してくれると信じきっていたのであろうか。



 天津条約に至る経緯をかいつまんで説明しておこう。

 清は、嘉慶元(1797)年、アヘンの輸入禁止令を出す。
 
中国からの銀流出が、銅に対する銀価値を高め、契約が銀、支払いが銅であった中国経済に物価騰貴をもたらし、経済破綻の様相を呈していた。銀建契約の下で、銀高騰・銅減価という状況は、通常の使用貨幣が銅貨であるために、中国民衆が支払わなければならない銅貨数が増えることになる。これは物価高騰である。

 アヘンの輸入激増が中国国内から銀貨流出を引き起こし、その結果、銅貨に換算した深刻な物価騰貴が進行してしまう。銀貨1枚が銅銭1000文であったのに、2000文に高騰したのである。もちろん、アヘン吸引による人間の廃人化が進む。こうした状況を阻止しようとしたのが、1797年のアヘン輸入禁止令であった。

 「弛禁論」といった妥協策も検討された。現実的にもアヘン輸入を禁止するのは困難なので、むしろ、輸入を認めて輸入関税を高くすればよいという類の現実妥協論がそれである。しかし、当時の皇帝はそうした妥協策を退けた。当時の道光帝は、林則徐を欽差大臣(特別任務を帯びた皇帝任命大臣)に任命して、アヘン吸引者の死刑を内容とするアヘン取り締まりの任務を林則徐に託した。



 林則徐は、道光19(1839)年、アヘン商人たちに、アヘンの中国持ち込みをしないという誓約書の提出を命じた。そして、英国のアヘン商人たちが持ち込んだアヘンを没収し、消却した。

 因みに、日本の史学者の多くは、東インド会社への反感が強すぎて、これらアヘン商人たちを自由貿易を行う私商人として賞賛した経緯がある。ジャーディン・マセソンやグラバーへの無神経な賞賛も軌を一つにしたものである。とくに、東大系に多かった。私の処女作はこのことへの反発から始まっている。長い長い私の研究はアヘン貿易の検討から始まった。




 林則徐はアヘンに海水と消石灰をかけてアヘンの毒素を中和した。この化学反応には煙が出ることから、林則徐がアヘンを焼却したという誤解が常識になってしまった。林則徐が英国アヘン商人から没収したアヘンは1400トンを超えた。そして、誓約書を出さないアヘン商人を港から退去させた。

 英国の監察官のチャールズ・エリオットは、退去しようとする英国船を押しとどめて、林則徐に抗議した。米国船は誓約書をいち早く提出して、広東貿易の独占権を確保しようとした。これに英国が反発したのである。エリオットは軍艦を出して林則徐を威嚇した。林は動じなかった。

 1839年、エリオットは武力行使に出た。広東港にいた清国の船はことごとく破壊された。後に首相になるが、当時は野党であったウィリアム・グラッドストーン、「こんなに恥さらしの戦闘はない」と反対したが、清への出兵費用は、英国議会で、賛成271票、反対262票で承認された。

 
英国の艦隊は、広東ではなく、首都北京に近い天津に急行した。これに驚愕した清政府は、林則徐を解任した。

 1840年1月7日、英国艦隊は中国各地を砲撃した。そして、1842年8月29日、江寧(南京)条約によって、清国は多額の賠償金の支払い、広東・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポウ)・上海の5港が開港させられ、翌年(1983年)の虎門寨追加条約によって、清は英国に対して、この地域での治外法権を認め、清側の関税自主権の放棄、英国の最恵国待遇を認めさせられた。アヘンに関する条文はなかった。英国も歴史に残る公式文書にアヘン貿易の自由化といった恥ずべき文章は残せなかったのであろう。

 他の列国は、これに便乗した。米国は望廈条約、フランスは黄埔条約を結んだ。内容的には南京条約と同じであった。

 清国高官は、事態を深刻に受け止めていなかったのかも知れない。しかし、林則徐は非常に正確に事態の深刻さを認識していた。



 彼を崇拝する部下の魏狄(この名を見てもただ者ではないことが分かる)は、『海国図誌』を表し、西欧の技術を修得して、西欧を倒すという「夷の長技を師とし、以て夷を制す」というスローガンが出され、以後のアジアの政治的指導者の共通認識となった。

 当然、この書物と、アヘン戦争(*)の結末は清国商人によって日本に伝えられてた。しかも、日本の学問を支えていたのが、英米仏からの圧迫に呻吟していたオランダの知識人であった。この歴史の偶然から日本はどれほど恩恵を被ったか。英米に跪く、旧幕臣・明治新政の高官に対して、事態の正確な認識を訴えていた蘭学を修めた知識人たちの苦闘を私たちはもっと遡及的に研究すべきである。

(*)動画あり(上記をわかりやすく説明したプレゼン動画です)

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