消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.116 『歎異抄』を英訳した今立吐酔

2007-06-03 03:32:42 | 福井学(福井日記)

 今立吐酔は、唯円の『歎異抄』の英訳を行っている。

 The Tannisho(Tract on Deploring The Heterodoxies), An Important Text-book of Shin Buddhism founded by Shinran(1173-1262), Translated from the Japanese by Tosui Imadate, The Eastern Buddhist Society, Otani, Daigaku, Karasumaru-Dori, Kyoto, 1928、がそれである。なかなかよくできた訳文である。



 『歎異抄(異説を歎く論考)─親鸞創設の真宗の重要教典』、今立吐酔による日本語からの翻訳、東方仏教徒協会、大谷大学、京都・烏丸、1928年。

 歎異抄』とは、表題が示す通り、親鸞没後、親鸞の言葉が様々に解釈され、門弟たちの間で混乱が生じていることを憂えた高弟の常陸国河和田の唯円が著したものである。東方仏教徒協会は、昭和8(1928)年、鈴木大拙が設立した協会である。



 京都の烏丸を「からすま」と読まずに、「からすまる」としたのが憎い。

 
京都人は、余所者が「からすまる」と発音すると露骨に軽蔑のまなざしをくれる。京都人に言いたい。本来、「からすまる」なのである。これが、撥音便化し、現在、「からすま」と呼ぶようになったのである。少なくとも、平安時代は烏丸小路であり、れっきとして「からすまる」と呼ばれていたのである。

 『歎異抄』は、異説を糺す著書であったことをもじって、京都人の常識に反して"karasumaru"と表記したのであろう。

 
ここの小路に由来する公家に、烏丸(からすまる)家がある。烏丸家の始祖は、藤原北家日野資康の三男豊光である(永和4(1378)年~正長2(1429)年)。

 この翻訳書には、鈴木大拙の名が翻訳者として挙げられていないが、実際には、鈴木大拙の役割の方が大きかったという説もある。吐酔は、昭和6年、76歳で没したが、死の直前の73歳で翻訳したのである。

 鈴木大拙が明治3(1870)年生まれ(昭和41(1966)年没)なので、安政2(1855)年生まれの吐酔よりも15歳も若いし、翻訳年の年齢が58歳という働き盛りであったことからすれば、翻訳の栄誉を大拙が吐酔に譲ったのかも知れない。

 当時、廃仏毀釈と欧化ブームによるキリスト教の台頭によって、江戸幕府の人民政策を代行していた日本の仏教界の危機感は強かった。



 宮澤賢治(明治29(1896)年~昭和8(1933)年)が、『農民芸術概論要』を発表したのが、昭和元(1926)年であった(「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房)。

 熱心な浄土真宗の信者の息子として育った賢治のこのエッセイは、「農業・芸術・化学・宗教」の相互関連を論じたものであるが、当時の既成の仏教界に怒りをぶつけたものであった。その序論で賢治は言う。

 「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。この方向は古い聖者の踏み、また、教えた道ではないか。新たな時代は世界がひとつの意識になり、生き物となる方向にある。・・・われらは世界のまことの幸福を索ねよう。旧道すでに道である」。

 宮沢賢治は、日蓮宗に傾斜していくが、吐酔もまた既成仏教に怒りをもちつつも、浄土真宗の枠を守ったと思われる。

 
吐酔は、今立郡松成村の浄土真宗の名刹、満願寺の第14世乗永の5男であった。キリスト教への改宗を迫られた吐酔は、米国において、恩師、グリフィスの元から去っている。

 賢治は叫びは悲痛な響きをもつ。

 「宗教は疲れて近代科学に置換された。しかし、科学は冷たく暗い。芸術はいまわれらをはなれた。しかし、わびしく堕落した」。

 賢治は、「國柱会」(こくちゅうかい)に惹かれていく。



 國柱会は、大正3(1914)年、田中智學(たなか・ちがく、文久元(1861)年~昭和14(1939)年)によって創設された日蓮主義の思想を流布する団体である。

 
田中は10歳で日蓮宗の宗門に入ったが、宗門改革を目指して、明治13(1880)年、横浜で「蓮華会」を設立、さらに、明治17(1884)年、日蓮宗信者組織として「立正安国会」を組織し、それが、「國柱会」の母体となった。



 田中は、「日本国体学」を創始し、高山樗牛(たかやま・ちょぎゅう、明治4(1871)年~明治35(1902)年、1900年文部省海外留学への壮行会の直後、喀血、入院、帰国後は京都大学教授のポストがまっていたが、1901年辞退)、姉崎正治(あねざき・まさはる、明治6(1873)年~昭和24(1949)年、東京大学在学中に、高山樗牛と『帝国文学』を創刊、東大教授として、1905年、東京大学文科大学に宗教学講座を開設)、石原莞爾(明治22(1889)年~昭和24(1949)年、終戦記念日に逝去している)、たちに影響を与えた。

 「八紘一宇」という標語は田中の手になる。

 
後に軍部に採用されたこの標語の意味は、「天下を一つの家のようにする」ということである。明治36(1903)年、田中が、(日蓮を中心として)「日本国はまさしく宇内を霊的に統一すべき天職を有す」と論じたことから生まれた言葉である。

 これは、『日本書紀』の巻第三「神武天皇」の条にある「掩八紘而為宇」から採ったものである。「掩」は「おおう、被う」、「八紘」は「あめのした、天下」、「而」は「しかして、そうして」、「為」は「なす」、「宇」は「いえ、家」である。つまり、「天下を被う家としよう」ということになる。

 『日本書紀』のこの言葉の出典は、『准南子』(えなんし)である。



 「九州外有八澤方千里八澤之外有八紘亦方千里蓋八索也一六合而光宅者亦有天下而一家也」がそれである。「准南子」(えなんじ、とも読む)は、中国、前漢の学者。姓は劉(りゅう)、名は安(あん)。准南(わいなん)王に封じられ、紀元前123年没。この准南王・劉安が、編集と著述をした哲学書が『准南子』で、20巻が現存。正式には『准南鴻烈解』(http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page036.html)。



 近衛文麿(このえ・ふみまろ、明治24(1891)年~昭和20(1945)年)は、1940年7月22日に第二次近衛内閣を組閣、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡洋右外相談話)という基本国策要綱を閣議決定、近衛自身も、「皇国の国是は、八紘を一宇となす建国の精神に基づく」と発言している。



 そして、この年、「八紘一宇の塔」が、「皇紀2600年」を記念して宮崎市中心部北西の高台、「八紘台」に建設された。正式名称は、「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら」である。なぜ、この地が選ばれたのかというと、神武天皇の大和への東征までの皇居、「皇宮屋」(こぐや)がこの地であったという言い伝えによる。



 建築にあたっては、日本軍がの各部隊が戦地から持ち帰った様々の石材が使われた。高さ37m、塔の四隅には武人埴輪像、正面中央には秩父宮(大正天皇の第2皇子、明治35(1902)年~昭和28(1953)年)揮毫の「八紘一宇」が刻まれている。内部には、神武東征の絵画があると言われている(未公開)。

 お札も発行された。拾銭札で、この塔が印刷されている。「一宇塔拾銭札」と呼ばれている。



 歌も作られた。じつは、私も亡くなった父からこの歌を教えられた。身体虚弱により、兵隊に取られなかった父は、このことが屈辱であったのだろう。幼い私に、「人から、『僕、大きくなったら何になるの?』と聞かれたら、『兵隊さんになる』と答えよ」とひつこく言われた。そして、その歌を教えられた。正しい歌詞でないかも知れないが、私の記憶にある歌を紹介する。

 「錦糸(きんし)輝く日本の、栄(は)え有(あ)る光(ひかり) 身(み)に受けて、今こそ歌え此(こ)の明日(あした)、 紀元二千六百年、ああ一億の「胸が鳴る」(「栄えあれ」だったか?)」

MIDI音源で音楽をお聴き下さい-編集部



 私は、誠実に生きた職人の父を心から尊敬しているが、「兵隊さんになる」とこの歌は、幼い時の哀しい思い出である。

 この高台と塔は、いまでは、「平和台公園」と「平和の塔」と名前を変えられた。東京オリンピックの際には、聖火の宮崎ルートのスタート地点となった。

 1940年の年には、軍部とそれに従う人たちにとって、日米開戦は既定のコースとなっていたようだ。 

 石原莞爾も、1940年9月、『世界最終戦論』を立命館出版部より発行している。



 世界は、ヨーロッパ、ソ連、アジア、米国という経済圏に分かれ、それぞれの経済圏で統一が進むが、ヨーロッパは内部対立で崩壊し、ソ連もスターリン死後、崩壊する。結局、アジアの盟主である日本と米国との決戦となる。これが最終戦争である。

 これに勝った国が世界をまとめるという考え方である。そのためにも、アジア諸民族が団結し、日蓮の教えに従う国家作りを目指すべきだとしたのである。石原もまた國柱会の重要メンバーであった。

 福田和也氏は、『文藝春秋』(平成19年6月号)の「日本の陸軍」という座談会で、

 「(石原の)心性はおそらく同じ国柱会の宮沢賢治などと相通ずるものがあったのだと思います。宮沢賢治も、もし長生きしていたら満州に行ったでしょうね」
と語っている(同誌、113ページ)。

 笹川良一(明治32(1899)年~平成7(1995)年)が、笹川記念会館などに設置された碑文に「世界は一家、人類は皆兄弟」とあるのは、この八紘一宇の記憶を留めたのかも知れない。 



 今立吐酔の仏教心の鼓舞も、純粋に心の中のものではなく、満州を核とする八紘一宇の雰囲気に呑まれていたのではないかと思われる。

福井日記 No.115  三高

2007-06-01 23:22:08 | 福井学(福井日記)


 医学から分離独立した純粋の物理・化学研究所が、長崎の「分析究理所」であり、これが、大阪に移転させられて、明治2年5月1日(新暦では、1869年6月10日、旧暦を新暦に変えられたことのこぼれ話は後述)、舎密局(せいみきょく)が開設された。



 これが、20年後に三高に引き継がれる。

 
私は、蘭学の正統な流れが、京大に引き継がれたことを幸運だと思う。形は異なれ、成熟した大人の学問である蘭学が、わが京都大学に伝わったことと、私などが夢中ですごした京大の生活、そして、憧れた恩師たちの思想とには、かなり濃密な接点がある。幸せな京大時代であったなとつくづく我が身の過去を追想する昨今である。



 新政府になったとは言え、まだまだ、世間が騒然としていた時期である。この日、箱館戦争を応援するために、西郷隆盛(文政10(1828)~明治10(1877)年)が、鹿児島を出発している。10日後には、この戦争で、土方歳三(天保6(1835)~明治2(1869)年)が戦死している。



 こうした混乱期に、まがりなりにも、新政府は、旧体制で交わされたオランダとの約束を守って、大阪に純粋の物理・化学研究所を設置した。偉業である。

 その後、この舎密局は目まぐるしく名称が変わる。明治3(1870)年、化学所になり、さらに、理学所、開成所になる。そして、明治5(1872)年、第一番中学いう教育機関になる。明治6(1973)年、開明学校と改称、明治12(1879)年には大阪専門学校、明治13(1880)年には大阪中学校となった。明治18(1885)年、大学分校となる。そして、明治19(1886)年、第三高等中学校となる。



  あの著名な第三高等学校は、創立時には大阪にあったのである。

 注意されなければならないのは、「中学校」の意味である。現在の中学校はもとより、帝国大学設置後の中学校のイメージとはまったく異なる。少なくとも明治27(1894)年までは、中学校はいまの大学のイメージであった。

  そして、大学とは、いまの大学院博士課程のイメージであった。こうした高等教育機関にわざわざ中学校という、へりくだった名称をつけた理由は、今の私には分からない。分かった時点で、またこのブログで報告する。

  明治20(1887)年には、岡山県立医学校が第三高等中学校の医学部となる。このことを見ても、当時の中学校と現在の中学校とは、まったくレベルを異にしていたことが分かるだろう。

 医学部ができたのと同時に、大学進学の予備教育を行う予科が第三高等中学校に設置される。

 そして、明治22(1889)年、第三高等中学校は大阪から京都に移転される(ウィキペディアより)。

 話を転じて、西島安則先生の説明を聴こう(「『中高一貫』原風景─100年前の吉田山麓」、http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2004/01/post_4.html)。

 明治5(1872)年、新政府は「学制」を公布しそれまで、各府県で地域の文化風土に合った教育機関が設置されていたのに、そのことごとくを廃止するという命令を下した。しかも、京都にある役所もすべて廃止するという決定である。

 正式の遷都の勅令がないまま、16歳の天皇が明治2(1869)年3月に京都を発って東京に移るや、京都から都としての機能のことごとくを奪うという暴挙に新政府は出た。

 京都人の中央に対する反骨精神はこの時に養われたものであろう(ただし、これは西島先生の意見ではなく私見)。

 京都は、維新当初、「京都大学校」を設置していた。ただし、これは維新政府から正式の「大学校」として認可されず、「仮大学校」の扱いであった。

 京都大学校について述べておこう。
 維新政府の大学創設計画は、まず京都で始められ、その後政治の中心が東京に移るとともに東京で展開された。すなわち、大学創設計画には京都におけるものと東京におけるものとの2つの流れがあり、その背後には、国学・漢学・洋学の三派の異なった思想的系譜があった。

 時代の動きとともに、結局、洋学派が優位を占め、欧米先進国の制度を模範とした大学創設の方向が固められていった。

 京都における維新政府の学校設立計画は、まず学習院の開校によって始められている。

 学習院は、幕末に設けられていた公家の学校を復興したものであり、これを大学設立の基礎としようとしたものであった。

 
学習院開校の通達は、明治元(慶応4)(1868)年3月であり、翌月これを「大学寮代」と改称した。しかし、この学校はまもなく閉校され、これに代わって同年9月に「皇学所」および「漢学所」が設けられたが、これらも大学創設を理由に翌2年9月に廃止された。当時は東京および京都に大学校設立の方針が定められていたが、京都大学校の設立計画は容易に進行しなかった。同年12月に至ってようやく旧皇学所・旧漢学所を母体として「大学校代」が設けられたが、これも明治3年7月には廃止され、京都における大学創設計画は遂に実現を見るに至らなかった(学制100年史、http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_016.html)。

 それでも、京都には、「仮大学校」がまがりなりにも機能していたのである。まがりなりにもという表現をしたが、実際には、この学校には全国から200名近い俊秀が集っていた。

 政治の中心が東京に移るとともに、新政府の大学創設計画は東京を舞台として展開されることとなった。

  新政府は、明治元年6月から9月にかけて旧幕府の学校を復興し、林家の昌平坂学問所を昌平黌、医学所を医学校、開成所を開成学校としている。



  新政府はこれらの学校を母体とし、これを総合して大学の創設を計画したのである。新政府の大学創設計画は、明治2年6月の通達で、昌平黌を大学校(本校)とし、開成学校と医学校を大学校分局として、これらを総合して大学校を設立しようとした(上記、学制100年史)。

 これが、正式な「大学校」とされた。しかも、東京に正式の大学校ができたのだから、京都の「仮」の大学校は必要がなくなったとして、「京都大学校」(仮)の廃止命令が中央政府から出された。

 じつは、明治3(1870)年、二条城北の旧所司代邸に「京都府中学校」が開講していた。この中学校が、廃止の憂き目にあった京都大学校(仮)を受け継いで、新政府から正式に認可された「京都府中学校」という新しい学校として模様替えされることになった。

 この新生中学校の初代校長に抜擢されたのが、グリフィスの門弟であった今立吐酔だったのである(グリフィスとの関係については複雑なので稿を改めて後述する)。



 抜擢したのは、植村正直知事の後任として、明治14(1881)年に赴任してきた第3次京都府知事・北垣国道(天保7(1836)年~大正5(1916)年)であった。北垣によって校長に登用された今立吐酔は若干27歳であった。吐酔の着任は、明治15(1882)年の時であった。

 吐酔は、米国ペンシルバニア大学で土木建築学を修め(したがって、日本中央運河計画の提唱者として唐突なことではない)、明治12(1879)年に同校を卒業後、京都府の学務課に採用されていた。理化学を修得した米国帰りに北垣は近代的な学校教育体系の実現を期待したのである。

 そして、三高の運命を決する重要な会談が、明治19(1886)年の冬、吐酔と時の文部大臣、森有礼との会談が東京でもたれる。東京に出張した吐酔が森文部大臣の官邸に立ち寄ったのである。



 そこで、大阪の第三高等中学校を京都に移さないかとの示唆を受ける。たまたま北垣知事も東京に滞在していたので、すぐさま、吐酔は北垣に連絡、北垣は馬車を駆って森大臣の官邸にかけつけ、話が具体化した。



 この年の前年、明治18(1885)年、日本初の内閣制度ができ、第一次伊藤博文(天保12(1841)年~明治42(1909)年)内閣が組閣され、森有礼が若干38歳で初代文部大臣に抜擢されていた。

 森の学制改革は電光石火であった。明治19(1886)年3月「帝国大学令」、同年4月、「師範学校令」、「中学校令」、「小学校令」が制定されたのである。

 中学校令によれば、これまでの中学校を尋常中学校、高等中学校に区分けする。その上で、尋常中学校を都道府県立、高等中学校を国立にする。都道府県立尋常中学校は各府県に1校、高等中学校は全国に5つと決められた。

 まだ新制度が具体化する前に、時の文部大臣が、吐酔を呼んで、高等中学校設立の打診をしたのである。

 
つまり、第三高等中学校は、新しい学制下で、全国で5校しか設立されない高等中学校になるが、それは京都にもってきた方がいいのではないかと。ただし、森は、自分は、京都にもってくる方が望ましいが、敷地提供と建築費に10万円を出してくれるなら、京都でも大阪でもどちらでもよいと政治家らしい発言をしている。

 どちらでもよいといいながら、全国で5つしかない高等中学校の話を、既存の高等中学校が設立されている大阪府知事の与り知らぬ所で、私的会話として森は吐酔に漏らしたのである。しかも、直後に京都府知事が森官邸にかけつけた。そして、即時に、つまり、明治19(1886)年12月、第三高等中学校の大阪から京都への移転が決められた。

 大阪府には事情が知らされないままに、こうした重要な決定がなされたのである。あまり、誉められた話ではないが、三高の京都移転にまつわるこうした裏話を、吐酔は文章にしている。

 10万円というのは、総工費の約6割に相当したという。これを京都の財政から出せというのである。地方の税収から10万円という、当時としては、大金を出費しても、結局は、京都府の財産ではなく、国の財産になってしまうだけではないかと言って、京都府議会の反対意見は強かった。議会はかなり紛糾した。北垣と吐酔は懸命になって府会議員たちを説得したという。明治20(1887)年5月、10万円供出は、賛成32、反対30という僅差で府議会を通過したのである。

 新しい高等中学校は、まず、東京を第一区、京都を第三区、金沢を第四区と決められ、その少し後に仙台の第二区、熊本の第五区が決定された。

 明治20(1887)年、吉田村に新校舎建設が着工される。明治22(1889)年竣工、明治2(1869)年の大阪の舎密局は、20年間の大阪時代を終えることになった。

 そして、京都に移った5年後、つまり、明治27(1894)年、「高等学校令」が出されて、第三高等中学校は「第三高等学校」と改称され、通称、「三高」となったのである。

 京都にとっての幸運は、西園寺公望が同年秋に文部大臣になったことによってさらに飛躍的に続くことになった。就任早々の西園寺は、



 「政治の中心から離れた京都の地に、自由で新鮮な、そして、本当に真理を探究し、学問を研究する学問の府としての大学を作ろう」、
との私見を広言したのである。

 こうして、明治30(1897)年、京都帝国大学が創立された。

 しかし、新大学は、新校舎を建てるにあたって、ゼロから出発したのではなく、三高の土地と建築のすべてを引き継いだのである。これが、いまの京都大学の法経工教文の5学部が入っている吉田キャンパスである。




 時計台は、京都大学のシンボルになっているが、その地は、三高のものである。この事実を京都大学関係者で熟知している人は残念ながら少ない。三高とは旧教養部のある吉田南キャンパスにあったと思っている人がほとんどである。

 京都帝国大学は、理工科大学として出発した。舎密局の伝統が生きていたのである。しかし、三高は、追いやられ、京都府が寄付した今の地に新たに建設されたものである。

 
特筆すべきは、この時に、三高の南に京都府立尋常中学校(後の府立第一中学校、洛北高校)が新校舎を建てて移転してきたことである。明治30(1897)年秋には、吉田山麓に京大、三高、一中が南北に並列して開講したのである。さぞかし、圧巻であったことだろう。

 西島先生による紹介はこの程度にして、最後に、京都移転(明治22(1889)年)後の三高の編成替えを説明しておこう。

 明治27(1893)年、第三高等学校に名称変更、予科は廃止され、予科を本科にして、大学進学予備教育の機関として位置付けられる。同時に工学部が設置される。

 明治31(1897)年、大学予科の復活。明治35(1901)年、高等学校から法学部と工学部が廃止。同年、高校の医学部が岡山医学専門学校に分離。

 昭和24(1949)年、新生京都大学の一般教養担当の分校になる。

 昭和29(1954)年、京都大学教養部に改称、

 平成3(1991)年、教養部内に独立大学院人間・環境学科設置。



 平成4(1992)年、教養部を総合人間学部に改組、旧教養部は廃止。



 平成15(2003)年、総合人間学部と人間・環境学研究科が統合された
(三高史については、ウィキペディアより)。

 数々の曙光に恵まれた三高であった。京都大学関係者はそうした曙光に感謝することはあっても、努々(ゆめゆめ)、自力で孤高の学府を作ってきたものではないことに思いを馳せるべきである。