消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.120 ラトガース大学

2007-06-17 10:17:46 | 福井学(福井日記)

 幕末の日本人留学生を多数受け入れ、グリフィスをはじめとした教師を日本に派遣したことで知られる米国のラトガース大学は、オランダ改革協会との関係が深かった。



 この大学は、米国がまだ英国の植民地であった1766年11月10日付けの英国王・ジョージ3世(George the Third of Great Britain, France and Ireland)の勅許状に基づき、1771年11月、ニュージャージー州ニューブランズウィックの地に開学されたクィーンズ・カレッジ(Queens College)の後継である。

  このカレッジの設立を申請していたのは、ニューヨークとニュージャージー州に居住していたオランダ生まれの人々と、彼らが依拠していたオランダ改革派協会である。このカレッジは州立である。

 このカレッジは、1825年11月に、校名をラトガース・カレッジ(Rutgers College)に変えた。それも、ニュージャージー州議会法によってである。

   これは、ニューヨークの富豪で、独立戦争時に大尉として活躍し、同校に多額の寄付をしていたヘンリー・ラトガース(Henry Rutgers)の名を付けたからである。当時の学長、ミレドラー博士(Dr. Mikkedoler)はオランダ改革派協会に所属していて、ヘンリー・ラトガースが、その協会の先輩であり、同校の評議員でもあったことから、校名の改称が同校理事会で承認されたのである。同校は、さらに、1924年にラトガース大学(Rutgers University)と校名を変更している。



 熊本藩の横井小楠の甥兄弟の横井左平太(海外渡航禁止令がまだあったので、伊勢佐太郎との偽名を使った)と横井太平(同じく、沼川三郎の偽名)が同校に留学したのが、慶応2(1866)年。

   日本初の米国への留学生であった。しかし、彼らは病を得て、やむなく帰国し、明治初年に病死している。



 不幸なことは重なるもので、福井藩の日下部太郎(くさかべ・たろう)が、1866年5月21日、幕府が渡航禁止令を撤回したことを機に、正式の海外旅行免状をもって、慶応3(1867)年、遊学先の長崎からラトガース・カレッジに留学し、数学では首席を通していたが、卒業目前の1870年4月13日、同地で客死している。結核であった。25歳であった。

 日下部はあまりにも成績優秀であったために、正式に卒業していないにもかかわらず、卒業者として認定され、金の鍵(ゴールド・キー)が遺族に贈呈されている。グリフィスがそれを携えて来日し、遺族に渡した。日下部は、ニューブランズウィックのウィロー・グローブ墓地(Willaw Grove Cemetry)に埋葬されている。

 しかし、同墓地には、同大学在学中に死亡した日本人留学生が他に8名も葬られている。いかに、結核が当時の日本の青年の国民病であったとはいえ、これは多すぎる。1866年に初めてこの大学に入学した日本人留学生は、1870年代になっても累計約40人にしかすぎなかったのに、その2割が客死したのである。

  なにがあったのだろう。単なる偶然の重なりなのだろうか。私には気になる。

  水が合わなかったこともあろうが、藩の運命を担って荒々しい米国の地で、なにかを掴もうとした青年たちの強迫感はいかばかりであったろう。秀才たちであったという総括はなにも語らない。過度の期待を背負う真面目な青年たちの悲壮感に私たちは思いを馳せるべきである。

 幕末、それも、日本の開国前夜、オランダ改革派教会海外伝道局ニューヨーク本部は、オランダ生まれのフルベッキ(Guido Flidlin Verceck, 1830-98)を長崎に派遣した。外国人は長崎にしか居住できなかったからである。安政6(1859)年のことであった。



 このことは、非常に重要なことである。米国は、市場開放をはじめとした開国を相手国に圧力をかけながら、タフなネゴシエーターを現地に派遣して、相手国民衆の心を掴むという米国の手法は、南北戦争後から定式化されていたことをこの事態が示しているからである。

 ネゴシエーターは、カルバン派の改革・長老派教会(Reformed & Presbyterian churches)から派遣されることが多かった。

 
つまり、米国の外交には、必ずといっていいほど、米国の主流のキリスト教宣教師の派遣を伴うものであった。この手法は、現在でも変わっていない。まず、自国企業を現地に進出させ、その企業を十全に活動させるべく、外向的圧力を加えると同時に、進出した企業が進出先の有力者を取り込む。

 お雇い外国人の研究は、わが福井では先進的な位置にある。しかし、先人の大きな業績に対して、申し訳ないが、米国政府の外交姿勢との関係、および、日本国内の権力機構との関連でお雇い外国人が分析されることなく、先生と弟子たちという局面のみに照準が合わされてきたことに、私は、いささか不満を覚える。

 フルベッキは、森有礼の学制改革にもっとも大きな影響を与えたカルバン派のクリスチャンである。日本のキリスト教系大学の創設には彼が大きな役割をはたしている。彼はまた、日本最初のプロテスタント教会、「横浜(耶蘇)公会」(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)の設立の中心メンバーであった。

 以上の、資料は、Burks, Ardath W.{1985], The Modernizers- Overseas Students, Foreign Employee, and Meiji Japan, Westview Press, Boulder and Londonの邦訳、梅渓昇「緒言―ラトガース大学と日本―」、バークス、アーデス・梅渓昇監訳『近代化の推進者たち―留学生・お雇い外国人と明治―』思文閣出版  1985年、3~9ページ、による。



 この著作は、ラトガース大学創立200周年記念、日本との交渉開始100周年記念行事として、1967年4月26~28日にかけて同大学で行われた「文化交流100年記念祝賀・ラトガース・日本会議」の成果である。

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