消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.123 モリソン 

2007-06-25 00:53:16 | 福井学(福井日記)


 ロバート・モリソン(Robert Morrison, 馬禮遜、1782-1834)は、スコットランド長老教会派の牧師であり、プロテスタントとして最初の中国での伝道師である。

 1807年、中国で宣教しようと願うが、中国行きのイギリス東インド会社の船に乗船を拒否され(当時の同会社は宣教師の乗船を好まなかった)、やむなくニューヨーク経由で中国を目指すことにし、1807年5月12日、トリデント号(the Trident)でニューヨークを出発し、同年9月4日にマカオに到着した。



 しかし、マカオでも、カトリック教によって、布教を禁じられ、広東郊外の13行(英国商社)の居留地に向かう(1807年9月7日)。しかし、馴染めず、病気になって1808年6月1日、マカオに引き返す。

   しかし、その間に北京語と広東語を修得した。マカオで最初の妻(Mary Morton)と遇う、1809年2月20日に結婚、再度、単身で広東に向かう。当時の広東では外国の女性の居住が禁じられていたからである。広東でイギリス東インド会社に雇われる。




 広東での布教活動中に、聖書の中国語訳を12年かけて、英中辞書を16年かけて作成した。ただし、広東では外国人が中国語を学ぶことと、キリスト教関係の書物を中国語で刊行することが禁じられていた。そのために、モリソンは、マラッカに移住し、印刷所を作った。1818年には中国人とマレー人の子供を対象とした学校を設立した(the Anglo-Chinese College)。



 この学校は香港の英国領有とともに、1843年香港に移設された(ただし、モリソンンの死後)。この学校は、いまでも英華書院(Ying Wa Collrge)として香港にある。



 また、シンガポールのラッフルズ学院(Raffles Institution)も、設立後すぐ、モリソン・ハウスと呼ばれるようになった。これは、中学校で、名門中の名門である。1823年にラッフルズが創設した。ラッフルズは、モリソンを崇拝していた。



 モリソンは、1834年、広東で客死した。墓所は、マカオのオールド・プロテスタント・セメトリー。墓碑銘を拾い読みする。

 「最初の中国伝道者。この地で17年間、神の王国を広げる。中国語辞書を作成。マラッカに英華学院を創設。一人で数年かけて聖書の中国語訳を作成。1807年、ロンドン伝道協会(the London Missionary Society)によって中国に派遣された。東インド会社の雇用人として25年間、通訳として勤務。1834年8月1日、広東で死去」。

 膨大な著作を残している。詳しい著作の一覧は、英文のWikipedia(Robert Morrison)参照。

 幕末の日本に巨大な影響を与えたモリソン号事件の船、モリソン号は、もとより、モリソンの名に因んだものである。この船は、ゴスペル・シップ(福音の船)と呼ばれていた。建造したのは、当時、広東貿易で巨利を得ていたオリファンド商会の共同経営者、C.W.キング(King)である。アヘン貿易で巨利を得ていた他の英国商社と異なり、キングは、林則徐と協力して、アヘン廃棄に立ち会っている(『有鄰』第445号、平成16年12月10日、p.3、http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_445/yurin3.html)。

 当時の米国の宣教師たちが、アジアの地にくるさいには、ほとんどこのモリソン号を使用していた。この船は、宣教師たちに無償で提供されていたのである。

 先述の、日本人漂流民7名を伴って、モリソン号が、江戸を目指して、マラッカを出港した日は、米国独立記念日の1837年7月4日であった。キングも同乗した。船の装備からすべての武器が撤去されていた。丸腰であることをアピールしていたのである(同上)。

 キングは、漂流民を日本に送還するだけだと弁明していたが、送還するだけなら、日本の領土ならどこでもいいはずであった。わざわざ江戸を目指したのは、布教の自由とキング自身が通商権を得たかったのであろう。



 既述のように、モリソン号には、S. W. ウィリアムズ、K. F. H. ギュツラフ、P. パーカー(Parker)等の宣教師たちが乗船していた(Cary, Otis, A History of Charistianity in Japan, Vol. II, Tuttle, 1976, p. 14)。

 19世紀半ばまでに、プロテスタントの布教活動ができなかった地域は、アフリカ奥地と日本のみであった。米国の伝道教会の日本への関心は異常なほど高かった。ペリーは言った。

 「(日本人が)キリスト教徒の仲間たらしめる日の明け初めんことを」(土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』(1)岩波書店、1948年、24ページ)。

 しかし、それは、純粋なキリスト教精神の発露ではなかった。米国は、1846年にオレゴン、48年にカリフォルニアを武力で領有した。西へ西へと向かうことが、米国の支配者の共通の野望であった。「全世界を巡って、すべて主によって造られたものに福音を伝えよ」という聖書のマルコ伝16章1節の言葉が、悪辣な暴力的奪取の言い訳になった。我々は略奪しているのではない。キリストの真理を伝えているのだと。

 東アジアでは、捕鯨の隆盛(いまは、米国は日本の捕鯨を非難している)、広東貿易の巨大な魅力が米国の支配者をして、宣教師を最大限利用した。それは組織的であった。考えてもみよ。多くの宣教を野蛮なアジアに派遣する費用を誰が出し、彼らの身の安全を誰が守ったのか。それにしても、日本のキリスト教史研究の、いかに、悲しいほどの牧歌主義か。

 少なくとも、信夫清三郎編『日本外交史』(1)毎日新聞(1874年)のような研究は、希有の存在である。

 キングは、キリスト教布教を通じて、日本との通商関係を強化しようとした。だからこそ、大量の宣教師を自分の建造した船、しかも、カリスマのモリソンの名を最大限利用した船で、運んだのである。キングは商社の経営者であった。この点、とくに強調されるべき論点である。

 モリソン号事件に関するかぎり、キングは失敗した。しかし、彼は言った。
 「よしかかる企図が個人の努力で出来なくてとも、合衆国政府は本問題を採択して日本通商の為の国力を以て日本の開国に対処しなければばらない。・・・基督教の聖書其の他の書籍を日本語に訳出して、何等かの方法で日本国内に配布し、日本国民に真の開国の意義を知らしめ、自由通商の門戸を開かしむる様努力をしなければならぬ。福音の光のみがそれをなし得る」(高谷道男『ドクトル・ヘボン』牧野書店、1954年、79~80ページ)。

 中国で伝道した宣教師たちが、非常に多くの中国語による宗教書を出した背景には、将来、日本で布教すべく、日本人が当時は読めた中国書を多数出版することによって、日本人に読んでもらうことを意識していたのではないだろうか(町島豊「明治前期キリスト教女学校史管見―プロテスタント宣教師の開拓者的役割―」http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf).。