消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.122 郭実猟

2007-06-20 11:29:22 | 福井学(福井日記)

 世界最初の英和・和英辞典は、1830年バタビアでメドハースト(Walter Henry Medhurst 麥都思, 1796 - 1857)が編纂した『英和和英字彙』である。



 メドハーストは、オランダ伝道教会の伝道師で、今後、オランダから派遣されるであろう宣教師たちのために、バタビアで、アジア各国の言語を学んでいた。

 日本語は、オランダ東インド商会から借りた日本語文献から学んだ。



 この辞書を頼りに、日本初の聖書和訳を試みたのがギュツラフ(Karl Friedrich Ausut Gützlaff, 1803-51)である。



 ギュツラフは、北ドイツのポンメル(Pyritz, Pomerania)に、織物会社の子として生まれた。1820年ハレ(Halle)の神学校(Padagogium)、1821年、イェニッケが設立したベルリンの宣教師養成学校(Janike Institute)に転じ、神学と医学を修めた。

 そして、1824年、ロンドンで中国伝道で著名な聖徒モリソン(Robert Morrison 、馬禮遜; 1782- 1834)に出会う。

 
モリソンに感動したギュツラフは、オランダ伝道教会宣教師としてバタビヤに赴任、メドハーストの家に寄宿し、そこで、中国語とマレー語を学んだ。天保3(1832)年、琉球に到着。1834年、モリソン没。



 モリソンは父子ともに中国で活躍した。アヘン戦争との関わりも深い。Godを神と訳すか、上帝と訳すかで一大論争があった(柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』岩波文庫、2001年)。

 ギュツラフは、1835年、英国商務庁の主席通訳官として採用され、マカオに滞在。そこで、尾張小野浦の猟師たちを保護する。彼らは、1832年秋、江戸に向かう途中遭難、1834年北米に漂着、ハドソン湾会社に拾われ、ロンドン経由でマカオに送り込まれた人たちであった。

  小野浦は愛知県知多半島美浜町小野浦が現在の地名で、日本最初の聖書翻訳に貢献したとして、これら猟師たち(岩吉、久吉、音吉)の顕彰碑を日本聖書教会が美浜町字福島に建てている。

 ギュツラフは、彼らの力を借りて、怪しげな日本語ではあるが、日本最初の聖書和訳『約翰福音之伝』、『約翰上中下書』を1837年、シンガポール堅夏書院から木版刷で出版している。



 
前書は、同志社大学などに7冊が日本に保存されているが、後者は日本にはない(解説がある。高谷道男・秋山憲兄解説、ギュツラフ訳『約翰福音之伝・約翰上中下書』覆刻版別冊、新教出版社、1976年。海老澤有道『日本の聖書』講談社文庫、1964年)。

 ギュツラフは、有名なモリソン号事件の当事者でもある。モリソン号事件というのは、1837年7月、7名の日本人漂流民(先の尾張の3人と新たに肥後の4名)をオリファント商会の船、モリソン号で日本に送ろうとしたが、浦賀港で激しい砲撃を浦賀奉行と薩摩藩から受け、撤退する運命になった事件を指す。砲撃は異国船打ち払い令に基づく。

 新しい4名とは、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松で、1835年11月、天草を出向し、長崎に向かっていたが漂流して、1836年ルソン島に漂着、スペイン官憲に保護され、オリファント商会の好意によって、マカオに送られ、ギュツラフの家に引き取られていたものである。浦賀で砲撃されたモリソン号は、マカオに帰港した。



 ギュツラフは、日本での伝道を夢見て同船に乗り込んでいた。S. W. ウィリアムズも同乗していた。


 モリソン号は、軍艦ではなかった。そのために、異国船打払令の安易な適用に対して日本側でも批判が高まった。



 とくに、『慎機論』を著した蘭学者の渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こった。

 1839年のアヘン戦争以降、ギュツラフは、外交上の顧問、通訳として中国に滞在、中国名を郭実猟として、1844年、中国人の伝道師を養成する学校、「漢会」(Chinese Union)を設立。欧州に一度帰国し、中国での伝道の必要性を謳え、再度、中国にやってきたが、1851年、香港で客死。

 ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812-84)も中国での伝道のために、衛三畏と名乗った。ニューヨーク州ユーティカ生まれ、1833年アメリカン・ボード宣教師として広東に到着(1833年)、ミッション系の印刷所に勤務の傍ら布教活動。しかし、中国官憲から布教を禁止され、1835年マカオに移住、そこで、ギュツラフと知り合い、彼の家に寄宿し、すでに、同宅で寄宿していた件の日本人7名と知り合った。浦賀で追い返された後、天草漂流民の3人を印刷所で働かせ、彼らから日本語を学び、彼もまた、聖書の和訳を行っている。『馬太福音伝』がそれである

 ウィリアムズは、ペリーが来航したとき、通訳として同行している。その手記が、洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』雄松堂、1970年、である。

 1859年、日本の開国とともに、S. R. ブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-80)が日本に来航する途中、香港でウィリアムズと再会(最初は、後述のように、マカオで、ウィリアムズの家に寄宿)した。このときに、ウィリアムズは、ブラウンに自らの訳本の写しを手渡した。



 
写しというのは、1856年に、マカオの印刷所の火事によって、ウィリアムズの自らの稿本が消失していたからである。しかし、この写しも、1867年、ブラウン宅の火災のために消失。気か滴に1850年の庄蔵写本のみが残された。

 ウィリアムズは、長崎にもきている。その地で、サイル(E. W. Syle)、ウッド(H. Wood)
と連名で、米国の3つのミッション本部、つまり、聖公会(Anglican Episcopal Church)、長老教会(Presbyterian Church)、改革派教会(reformed Church)の伝道部に日本への宣教師派遣を訴え、以後、陸続と日本に宣教師が派遣されることになった。

 聖公会からは、J. リギンズ(Liggins)、C. M. ウィリアムズWilliams)、長老教会からJ. C. ヘボン(Hepburn)、D. トムソン(Thompson)、改革派教会からC. R. ブラウン(Brown)、D. シモンズ(Simmons)、J. H. バラ(Ballagh)、フルベッキたちが来日した(http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2003/2003.06.pdf)。
 ウィリアムズは、1876年、エール大学で東洋近代史・中国語教授となり、米国聖書協会会長を務め、1884年72歳で没した。 

  ブラウンもまた、米国のオランダ改革派教会派遣の宣教師である。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。ピルグリム・ファーザーズの子孫である。母、フィーベは、賛美歌319版の作者である。エール大学、ユニオン神学校卒、ニューヨーク市の長老教会に属した。中国モリソン記念学校(マカオ)長も務める。マカオ(ウィリアムズの家に寄宿)、香港に移り、8年間の中国での伝道の後、日本で伝道することになった。

 シンガポールでブラウンに出会い、それが機縁で20年間も一緒に日本で伝道することになったのが、ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)である。



 ヘボンは、米国長老派協会派遣の医者である。
米国ペンシルバニア州ミルトンに生まれる。プリンストン大学、ペンシルバニア大学医学部卒、ミルトンの米国長老派教会に入る。1841年東洋に向かったヘボンは、シンガポールでギュツラフの『約翰福音之伝』を入手、マカオのモリソン校からきていたブラウンと知り合う。シンガポールで中国語を学んだ後、1843年マカオに移り、その地でウィリアムズから中国での伝道方法を学び、アモイに移り、医療伝道に従事したが、夫人の病気で1845年一時帰国。1859年、日本開国とともに、同年10月来日、神奈川の成仏寺に住む。同年11月ブラウンも来日。聖書翻訳に両者は従事。格調の高い日本文を目指した。

 そして、1867年5月『和英語林集成』出版、8年間の労苦。明治20(1887)年、壮大な翻訳作業完了。じつに20年に亘るヘボンの辛苦。ヘボンは1889~91年明治学院初代総理、92年帰国。1911年ニュージャージー州イーストオレンジで没す。
 以上の資料は、ttp://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato6/kato_6.htm;  http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato7/kato_7.htm

 日本最初のプロテスタント教会は、1872年に設立された「横浜(耶蘇)公会」(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)である。これは、米国オランダ改革派(現RCA)の宣教師、フルベッキ、ブラウンおよびバラによる。

 また、米国長老教会の宣教師ヘボンおよびルーミスによる1874年創立の指路教会(現・日本基督教団横浜指路教会)は、明治初期のキリスト教伝道基地となり、横浜バンドと呼ばれた。

 日本におけるプロテスタント全教派の一致と協力を理想とした合同教団「日本基督公会」(1874)の構想が出され、それを踏まえて、米国オランダ改革派、米国長老教会、スコットランド一致長老教会の宣教師たちが、1877年に設立したのが、日本最初の改革・長老教会教団である「日本基督一致教会」である。

 日本基督一致教会は、日本基督公会の理想を再現すべく組合教会との合同を画策するがこれは不成立に終わる。それが決定的になったのち、日本基督一致教会は長老制に立つ改革教会としての憲法および規則の刷新を行い、1890年に「日本基督教会」(旧日基)と改称した(ウィキペディアより)。