消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.117 オルコット『仏教問答』を邦訳した今立吐酔

2007-06-06 12:44:43 | 福井学(福井日記)

 國柱会の動きを、当時の仏教界は重く受け止めた。吐酔もまた、吐酔という名前そのままに、宗教的情熱に猛然と覚醒した。キリスト教に支配されようとしている日本仏教界にあって、仏教は無力でしかも堕落しているとの思いを吐酔は強くもったのである。すでに、グリフィスに師事していた時から吐酔は仏教界の現状に怒り狂っていた。

 『歎異抄』を翻訳する前は、吐酔たち浄土真宗の僧たちは、「白い仏教徒」を求めていた。明治10年代から20年代にかけてのことである。



 こうした時に、オルコット(Henry Steel Olcott 、1832-1907)が弥勒のごとく、日本の仏教界の前に現れた。神智学(しんちがく、Theosophy)を西洋世界に紹介したそのオルコットを吐酔は高く評価していた。

  そして、セイロンで書き、ベストセラーになった、オルコットの著書、A Buddhist Catechism, Madras ,1881 を吐酔は、『仏教問答』として、訳出している。



 
京都中学校校長時代にである(米国人エッチ、エス、ヲルコット氏著、日本京都中學校長今立吐醉譯『佛教問答』佛書出版會、明治19(1887)年4月)。 

 神智学というのは、心霊、および霊的世界を研究することによって、人間の精神の内部に潜む「宇宙の根元と同質のもの」を掘り起こそうとするものである。その意味では、1970年代の米国で「対抗文化」として流行した「ニュー・エイジ・ムーブメント」と思想的には同質のものである。それは、人間の中に、「神的なもの」を見出し、神の奴隷であることをやめ、東洋のあらゆる古代宗教を摂取して瞑想にふけることを心がける宗教思想である。オルコットは、1882年にセイロンで仏教に改宗している。



 さて、京都に同志社を建て(明治8(1875)年)、キリスト教を布教すべく、日本の仏教の偶像崇拝を容赦なく攻撃する新島襄(天保14(1843)年~明治33(1890)年)対する京都仏教界の憎悪は相当に大きなものであった。京都の教育界に奉職していた今立吐酔も例外ではない。



 明治10年代後半から20年代初頭にかけて、日本の仏教界は、消滅の危機に立ち、脱出口を国粋主義に求めていた。後に、石原莞爾が漂っていく、日米決戦をキリスト教対日本仏教という対立軸を生んだのは、このときの日本仏教界の他力本願の姿勢であると言ってもよい。しかし、当時、攻めるキリスト教世界も亀裂を見せていた。



 当時の日本仏教界は、国粋主義の勃興を挺として、井上円了の『真理金針』(西村七兵衛、1890年)を先頭に、いわゆる破邪顕正運動という体勢を取っていた。

 明治思想史における井上円了(安政4(1857年)~大正8(1919)年)の位置づけは難しい。

 山崎正一『近代日本思想通史』(青木書店、1957年)では仏教護法運動としてかなり大きく取り上げられているが、最近の松本三之介『明治思想史』(新曜社、1996年)では井上は無視されている。

 山崎正一は、仏教の護法運動を3期に分ける。第1期は明治元年から5年頃、神仏分離・廃仏毀釈運動に対抗するもの、第2期は明治6年から10年の教部省廃止まで、第3期は明治11年から23年頃までとする。その第3期を代表するものとして井上が挙げられる。

 井上は、強い危機意識をもって反キリスト教的な主張を展開した。それは明治20年代に勃興する国粋主義的な動向に先鞭をつけるものであった
http://www.transview.co.jp/24/text.htm)。

  井上円了は、水木しげるの元祖であった。井上の妖怪論はよく読まれていた。彼は、東洋大学の創始者でもあった。



 一方、キリスト教では、内村鑑三(文久元(1861)年~昭和5(1930)年)らの不敬事件から「教育と宗教の衝突」事件にかけての国粋主義陣営からの攻撃、チュービンゲン学派やユニテリアン等の自由神学の渡来によって、小崎弘道(おざき・ひろみち、安政3(1856)年~昭和13(1938)年、日本基督教団創始者、同志社大学学長)が言う「信仰試練の時期」を迎え、かつては聴衆の群がり寄せた教会も、人が退いた(吉田久一『日本近代仏教史研究』、1959年;吉田久一著作集第14巻、『日本近代仏教史研究』川島書店 1992年)。



 内村鑑三の不敬事件とは、明治23(1890)年から第一高等中学校の嘱託教員となった内村が、翌1891年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことに対して、世間が激しく糾弾した事件である。この事件によって内村は同年2月に同校を依願退職した。

 チュービンゲン学派とは、聖書の中の奇跡や十字架の贖罪を非科学的迷信と見なし、すべてを合理的に解釈することによって、聖書が神の言ではなく、人間の言であることを主張した。小崎弘道がこれに大きく共鳴した(日本のためのとりなし会『日本のためのとりなし』(ニュースレター)2003年8月号、1ページ)。

 ユニタリアン主義(Unitarianism)とは、父と子と聖霊という三位一体の教理を否定し、イエスの神としての超越性を否定し、イエスは、類い希なる優れた宗教的指導者であったとする説を採る(ウィキペディア)。

 つまり、聖書にある神話的要素を、歴史的事実ではなく、宗教上有益な寓話と見なすのが、これら2つの流派を代表とする自由神学である(ウィキペディア)。

 前回で紹介した、「宗教が科学で置き換えられてしまった」と嘆く宮沢賢治の受け取り方は、宗教心を重視するファンダメンタリストたち(キリスト教、仏教を問わない)の共通の危機意識の表現であった。オルコットの著作が日本で紹介されたのは、こうした流れからであって、真の神智学に由来するものではなかったであろう。

 仏教徒にとって、とにもかくにも、新島に対抗するには、西洋人の仏教徒を探し出せということになっただけのことであった。その点、オルコットは格好の人材であった。事実、野口復堂(のぐち・ふくどう、元治元(1865)年~?)なる人物が、明治22(1889)年、オルコトットを日本に連れてきた。

 当時、同じく浄土真宗の僧で、水谷仁海という人がいた。彼は、中西牛郎・北畠道龍らとともに「仏教革新」のアジテーターとして知られていた。大言壮語と奇行で知られる名物坊主であった。明治21(1888)年2月17日付の『国民新聞』に「大菩薩出現」と題する揶揄した記事がでている。

「水谷師なる一僧、四輪車に跨がり、水谷仁海大菩薩の旗を立て、東京の市中を馳回り、路傍演説を為し、頻りに佛教改良の事をぞ主張しける…改良又改良、佛法の改良は如何にして行はるる可きや、佛法は猶ほ古き錦の如し、其破損用ゆ可からざるに至て、金帛木綿を以て之を補綴す、果して効能ある可きや否や…」。

 この水谷が、オールコックに手紙を書いた。明治15(1882)年11月1日の日付である。そして、明治16(1883)年初頭、その水谷仁海の許に、マドラスからオルコットの返信の書簡が届けられた。オルコットは、1875年米国のニューヨークに神智学協会(The Theosophical Society)を設立、代表者になっていた。
 その手紙には、

 「…拙著 A Buddhist Catechismの最新版を一部、差し上げます。本書を翻訳することが、社会に有益と認められるのであれば、翻訳の特権を貴方に御譲します。本書の扉にあるとおり、この問答は現在セイロン島で一般に信仰されている純粋の佛教大意であることは、当地の僧正スマンガラの保証するところです」。

 手紙には、笠原研寿のことも記されていた。笠原は、前年の10月、英国から帰国途中セイロンに寄港し、神智学協会分会の会議に出席してスマンガラ僧正らとも会見した人である。そして、

 「私は元アメリカ人で、以前は陸軍に奉職していました。しかるに仏教徒となってより以来、当地(アディヤール)に在住を定め、終焉まで我が一身もってアジア人民の公益に供したく決心した次第。私が日本仏教の役に立てるなら、何なりと申し出て戴いても、私個人は一円の報酬も願いません」と記してあった。

 米国で神智学協会を設立したオルコットはインドを経て、1880年、スリランカに上陸。キリスト教会の布教活動に対抗してシンハラ仏教復興を指導して『白い仏教徒』として南アジアで救世主のごとく大活躍していた。

 彼はクリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集(カテキズム)に目をつけ、その仏教版をみずから執筆したのである。これが、書簡で紹介されている著書である。

 
その著書は、当時スリランカ仏教界の長老格であったスマンガラ僧正のお墨付きをえて、シンハラ語をはじめ20か国以上で翻訳された。現在でもスリランカの学校で英語テキストとして利用されているロングセラーである。

 明治18年頃、水谷は熊本の赤松連城(天保11(1841)年~大正8(1919)年、浄土真宗西本願寺派。宗門の近代的な改革を行い、後進の育成にも努めた)と会見し、その席でオルコットの書簡と『仏教問答』を差し出した。一読した赤松は、京都中学校校長の今立吐醉氏に依頼して本書を翻訳し、仏書出版会より出版することに決した。和綴じで45ページの短いものであったが、知恩院法主が題辞を寄せ、赤松連城による緒言、オルコットから水谷への書簡、訳者の凡例まで添えられた本格的な翻訳書である。

 以上が、神智学の翻訳書が日本で出された出されたいきさつであるhttp://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/chap1.htmlに依存させていただいた)。

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2007-06-06 02:49:38 | information

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