消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.119 簑田胸喜の平凡な愚痴

2007-06-11 23:31:08 | 福井学(福井日記)

 佐藤優(さとう・まさる)と竹内洋(たけうち・よう)の対談、「いまなぜ簑田胸喜(みのた・むねき)なのか―封印された昭和思想」が、『諸君!』(2007年7月号、文藝春秋)に掲載されている。

 竹内は、昭和6(1931)年の満州事変が左翼文化全盛時代を国粋主義全盛時代に一変させた事件であり、その転換を演出した一人が簑田であったと理解する。竹内によれば、簑田の『原理日本』の論文がリベラル派学者を追放する力となっていた。

   簑田論文を参考にして政友会の宮澤裕滝川幸辰処分を導き(昭和8年、滝川事件)、同じく、昭和8年の『原理日本』の簑田による天皇機関説批判論文が、美濃部達吉を辞任に追い込んだ(昭和10年、天皇機関説事件)。

   昭和13年の大内兵衛有沢広巳が追放された人民戦線事件、昭和13年の河合栄次郎発禁事件、昭和15年の津田左右吉発禁事件、すべて簑田論文が起爆剤であった(『諸君!』当該対談、132ページ)。

 佐藤は、重要なことを言っている。毅然たる国家を作りたいといういまの思想状況に鑑みると、戦前の日本を閉塞情況に追い込んでいった簑田たち悲劇的な知識人のあり方に共感をもつというのである(136ページ)。

  しかし、日本のファシズムを醸成したすべての責任を簑田個人のせいにするのではなく、東大や京大のアカデミズムがはたしたマイナス面を虚心に分析すべきであるとした竹内の発言が光っている。戦後作られ、歪められた知識人論を、簑田胸喜を再考することによって、見直すべきだとする(143ページ)。この対談が、日本の論壇で大きく取り上げられるようになることは間違いない。

 竹内の協力者で、『簑田胸喜全集』第7巻(柏書房、2004年)の編集担当者の佐藤卓己氏が、第7巻の解説をしている(『毒書亡羊記』、「第31回・学者の処世を考える―竹内洋ほか編『簑田胸喜全集』始末」;http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-31.html )。

 第7巻には、簑田が主筆を務めていた『原理日本』の全目次と簑田の手になる「編輯消息」全文、原理日本社の宣言、綱領、会則などの資料が収められている。

 この機関誌は、1925年11月~1944年1月と約20年間、全185号という長期かつ膨大なものであった。しかし、資料は散逸してしまっていて、この機関誌の全巻を所蔵している図書館はない。

 佐藤卓己は、『原理日本』第6号(1926年4月号)「短歌欄」に掲載された簑田の「採点と編輯」という文を紹介してくれている。

 「かゝなべて七日余りは夜も昼も 答案をしらべたり二千近くの 機械的作業に近くはさけがたし かくも多くを一度に見れば 及落のまた一生のわかれめとなることあらんと思へばかしこし さまざまの事情あらもあらはれし結果につきて定むるほかなし 訴へくるものもあれど訴ふるに由なくもだへくるしめるもあらん それら一々顧る由なければあらはれし結果につきて定むる外なし いまの世の大量生産といふことをつくづく感じぬ採点しつゝ 現在の学校教育試験制度の欠陥を痛感す されどすべなし こゝに新聞雑誌の任あり また協会結社の任あり そを補ふべき あゝされど学校は増し知識は広まりゆけど思想はみだるゝ われらこゝにもだ<ママ> ありがたく社を結びこのすりぶみによりて叫ぶ ひろき世にかくれひそみてもだへつゝ国をうれふるはらからよたて 採点ををはりもあへず編輯にとりかゝりたり息つくまもなく 学校の勤務と雑誌の経営に原稿をかくひまもなかりき 日一日おくるゝ編輯をまへにしてあはただしくも原稿をかきたり ひたむきにつとめんとすれどはかどらず もどかしきかな時はすぎゆく ありがたきみたよりいたゞけどわが思ひかへすひまなしおしはかりたまへ 辛じて編輯を終へ頁をばかぞへて心やゝおちつきぬ 編輯はをはりたれども校正にまたひまどりて 発行おくれむ」

 佐藤はいう。善人ではないか。ファシストが悪人だったらわかりやすいのにと。歴史には善意も悲劇になりうると。そうだろうな。

 大学教師は、すべて採点の憂鬱を知る。血肉になっていない学生の思想の硬直性を憂う。才能ある学生を取り出そうとあがくが、答案の数が膨大すぎて、才能の発見は不可能である。時間がない。論文の期限は迫っている。雑用が追いかけてくる。

  懸命に採点を終え、懸命に論文を書き、そして雑用と雑誌の資金の心配をする。だれでも経験すること、自分と同じ感覚に住む人、いい人ではないか。この人が人を殺してしまう。ファシズム研究の難しさはここにある。

 国家社会主義運動に邁進し、赤尾敏たちと「建国会」を作った津久井龍雄は、『昭和維新』(85ページ)で述べている。現物を見つけられないので、「狂喜乱舞」と書かれたブログから転載させていただく( http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/minoda.html)。

 「蓑田といふ人は、個人としてはきわめてまじめな礼儀正しい人であったが、ひとたび反対者に対する闘いとなると、異常に近い情熱をおび、たんに言論文章の上でこれに攻撃するのみでなく、検事局や憲兵の力を借りても相手を克服しなければやまぬという気概を示した」。

 死をもって時代に殉じた。熊本の人であった。

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