消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 53 アララギ派歌人の実業家

2006-12-29 18:44:06 | 人(福井日記)
  福井の街路樹は全国でも図抜けている。わが大学の周囲にも、桜、こぶし、ハナミズキとそれぞれの特徴をもつ道が続く。街路樹の足下には紫陽花、つつじ、椿が配置されている。それはそれは美しい道である。こうした町並みは、『北陸政界』(平成19年新春号)によると、熊谷組総帥・熊谷太三郎(くまがい・たさぶろう)によって作り出されたという。



 
雪残る 木立おぼろに 春の雨


            この街なかの 足羽川つつむ



 熊谷太三郎はアララギ派の歌人でもあった。この歌そのものは字余りでしまりがよくないが、歌には、町並みは自分が作ったのだとの自負が溢れている。

 太三郎は平成4年1月15日、福井市の済生会病院で亡くなった。85歳であった。 以下の記述は、上記の『北陸政界』に依拠している

 太三郎は、明治39年11月3日、福井市豊島上町に父三太郎の次男として生まれた。長男は生後1月足らずで夭逝していたので、事実上の長男であった。名前は父の名をひっくり返したものである。幼少の頃は病弱であった。

 一高に入学し、アララギ派の斉藤茂吉土屋文明などの薫陶を受けた。大学は東大ではなく京都大学に進学した。経済学部であった。ここでもアララギ派の結城哀草果に師事した。大学では河上肇の経済原論に傾倒したという。



 家業は土木請負業であった。幼児の時は、父の仕事の不調で貧しかったが、大学を卒業する頃には家業も上向いていた。大学卒業と同時に家業に就いた。

 昭和6年11月6日、根尾梅子(20歳)と見合い結婚した。太三郎25歳の時であった。

  昭和8年4月、父が勝手に応募した結果、福井市会議員に当選した。出張中の筑後から福井に入ったのは投票の2日前であり、選挙運動はまったくしなかった。26歳で市会議長になった


 家業は発展し、昭和13年1月に株式会社熊谷組になった。父が社長、太三郎は副社長であった。昭和15年社長になった。

 東京で空襲に遭うや否や福井に帰省し、焼け跡にバラックの熊谷組事務所を建てた。昭和20年10月、敗戦の混乱時に議会から推されて市長になった。38歳の時であった。

 まず着手したことは、焼け跡の清掃であった。駅前の闇市をバラックを建てて収容し、復興市場組合を作った。21年4月、幹線道路建設に着手した。

 22年4月には初の公選市長になった。全国初の下水道認可事業も始め、左内公園内に足羽ポンプ場を作った。

 
その後、佐佳枝ポンプ場も完成させ、下水道工事を推進した。昭和27年足羽山で福井復興博覧会を開催、翌28年数千本の桜の苗を足羽側の堤に植えた。これが全国でも著名な足羽側の桜堤である。


 昭和34年5月福井市役所を後にして、事業に専心していたが、昭和37年7月参議院議員に初当選した。56歳の時であった

 日本海を望む高台に三国出身の高見順の文学碑を建てた。除幕式には川端康成も参加した。



 佐藤内閣の時、椎名越三郎通産大臣の下で通産政務次官に就任したのが、昭和44年11月。この時、熊谷組の社長を辞任した。

 
昭和47年10月、新幹線ひかり号の米原停車が実現した。山陰線起点の京都、中央線起点の名古屋にひかりが停車するのに、北陸線起点の米原に停車しないのはおかしいと太三郎は当時の国鉄に詰め寄ったという。


 昭和49年の「電源三法」の成立に尽力したと『北陸政界』は記述している。これは田中内閣の時に成立したものである。

 
三法とは、「発電用施設周辺地域整備法」、「電源開発促進税法」、「電源開発促進対策特別会計法」である。福田内閣の下で科学技術庁長官になり、原子力船「むつ」の佐世保寄港を認めさせた。



 
昭和53年10月16日であった。むつ、4年間の迷走のはてであった。議員時代、福井の治山治水事業に尽力した。昭和61年の参議院選では過去最高の得票を得て5選を果たした。この5期を最後に30年間の参議院生活にピリオドを打った。

 北陸アララギ会を主催。『柊』を出版した。
 「くまがい公園」は市民の憩いの場である。

ギリシャ哲学 26 アルケー(始原)

2006-12-29 02:03:14 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 始原に「アルケー」という用語を当てはめたのはアナクシマンドロスであったとアリストテレスは言った。

 シンプリキオスによる『アリストテレス「自然学」注解』によれば、

「元のもの(始原)は単一であり、運動する無限のものであると語っている人たちの一人がアナクシマンドロスである。彼は、プラクシアデスの子でミレトスの人である。タレスの後継者にして弟子であった。
 彼は、存在するものの元のもの(始原)、すなわち基本要素はト・アペイロン(不安定なるもの、無限なるもの)であると語った。始原という名称を初めて用いたのはアナクシマンドロスである。
 彼は言う。それは、水でもなく、その他のいわゆる基本要素のうちのいずれでもなく、何かそれとは異なる無限なる本性のものであって、そこからすべての諸天界およびその内部の諸世界は生じる。そして、存在する諸事物にとって生成がなされる源となるもの、その当のものへと消滅することもまた必然に従って進行する」。

 無限の無形のものから有限の有形のものが生まれ、そして、また無限・無形のものに還って行く。そうした流転の時間的流れをアナクシマンドロスが重視したことをアリストテレスは説明するが、しかし、ここでもまた根性悪く、そのように「語っている人たちの一人」という表現をしている。

 
 アリストテレスにとって、自然学派は、まとめて、分析をしない非論理的輩として揶揄の対象になっただけである。

 ヒッポリュトス『全異端派論駁』(第1巻第6章)では、アナクシマンドロスが始原をト・アペイロンであると語ったと説明した後、

 「動は永遠である。それによって、諸天空の生成が起こるとも語った。・・・彼は言う。始原は無限なるものに由来するという本性をもっている。そこから諸天界、およびそれらの内なる世界(コスモス)が生じた。コスモスは永遠で不老であり、すべての世界を取り囲んでいる。 彼はまた、生成と存在、そして消滅を定めるものとして時というものを語っている」。

 ただし、「ト・アペイロン」を「空間的無限」であるとのアリストテレス派の通説的解釈には多くの疑問が出されている。

 ケンブリッジ派のコーンフォードなどは、ト・アペイロンとは、「内部的に限定のないもの、内部的区別のないもののことである」としている(1939年)。つまり、境界線の不明確な認識論的存在論を展開したのがアナクシマンドロスであったというのである。

 アリストテレスが、執拗にアナクシマンドロスを否定したのは、アナクシマンドロスが「知性とか愛のような他の原因を行使しようとしない」からである(アリストテレス『自然学』第3巻第4章)。

 アリストテレスは、無限なるものから相対立するものが生成し、相互の闘争から再度無限なるものに向かって消滅して行くというアナクシマンドロスの循環論が気に入らなかった(アリストテレス『自然学』第3巻第5章)。

 アリストテレスは、「相反する諸力は必然的に均衡する」という「特有の議論」に凝り固まっていたからである(チャーニス、1951年)。

 アナクシマンドロスの世界は、アリストテレスとは正反対のものであった。それは、ヘラクレイトスが「争いは正義」であるとアナクシマンドロスを擁護したのも、アナクシマンドロスの相反するものの運動を重視する宇宙生誕論を継承しようとしたからである。



 階級闘争を重視したマルクスがアリストテレスではなくソクラテス以前の自然学に接近したのも、けだし当然である。


本山美彦 福井日記 52 勝山城

2006-12-29 00:55:49 | 人(福井日記)
 以下は、2003 ココロワークス Produced by 大阪商工会議所に依拠している。

 越前大仏(臨済宗妙心寺派)と勝山城という大建造物を造った多田文化財団は、多田清の資財を基に設立された。


  多田清は明治 38 年、福井県勝山市で4人兄弟の末っ子として生まれた。多田家は、この土地で代々続く庄屋で、かつては苗字帯刀も許された家柄であった。

 父親の事業の失敗によって、清が3歳になる頃には代々受け継いだ豊富な山林や田畑をすべて散財し、逃げるようにして商都・大阪に移り住んだとされる。

 大阪では明日の生活もままならなかったが、当の清は体格もよく、天衣無縫の腕白小僧であった。

 気丈だった母親は、清に、「お前は偉くなって、多田家を昔のように繁栄させるのだよ。そして、みんなで力を合わせて、銀行を創業した野村徳七さんのような立派な人物になるんだよ」と励ました。野村徳七とは、野村証券を創業した人物で、同じ福井県出身であった。

 清は、小学校を卒業すると、早くも丁稚奉公に出て、「少しでも身入りのいい職場を」と職を転々とした。職種を選ばす、自分の体を酷使して働き始めるようになる。原料工場での荷物運搬、運送会社での日雇い労働、さらには、20歳で広島の電信隊に徴兵されてからも、2年間、厳しい軍隊訓練のかたわら休日を利用して働いた。

 彼は毎週土曜日に、訓練で疲れた体に鞭打って夜汽車に乗り、広島から神戸まで出ると、またそこから大阪港に来て沖仲仕の荷役労働を丸1日こなした。沖仲士と言えば、肉体労働の中でも最重労働である。毎日曜日に、清は港に姿を現した。

 軍務のかたわら、勉学に励み、自動車修理の免状と運転免許まで取得した。清は除隊すると、早速、地元の大阪・市岡にある相互自動車(現、相互タクシー)という小さなタクシー会社の一運転手となる。

 タクシー運転手になると、清は少年時代からの親分気質を見込まれ、社内に自分たちの労働組合を組織する。さらに、関西方面の中央組織である大阪交通労働組合にまで出かけ、ストライキの指導までした。

 入社3年後、労働組合は大阪交通労働組合のストライキに参加した。そこで、清たちは社長を前に、当時、多くのタクシー会社が実施していた名義貸制度(会社が名義を貸す代わりに、運転手から車庫賃を徴収するシステム)の不当性を訴えた。

 席上、社長は、車庫を車で一杯にしてくれたら車庫賃を下げてもよいといった。「よく分かった。それなら、われわれの力で車庫をいっぱいにしよう」と清は約束した。  清の交渉態度に信頼を深めた社長は、さらに会社の経営を組合でやってくれないか、と申し出た。清、26歳のことである。

 昭和6年11月6日、清ら 28名のタクシー運転手たちは、後に近代タクシー経営の一翼を担うことになる相互タクシーの前身「相互共済購買組合」を立ち上げた。まさに労働者管理の「協同組合」の設立であった。

 スタート時点から異例ずくめだった。当時のタクシー業界では、経営者が車両を1台も持たずに営業認可を得て、営業権を運転手に名義貸しする、いわゆる「名義貸制度」の会社が多かった。それに対して、「相互共済購買組合」はその名が示す通り、会社は同志的に集まった運転手たちが出資しあう共済組合であった。車両、ガソリン、タイヤ、自動車修理、すべてを共同購入するうえ、経営者が経営に関する責任の一切を負う「直営方式」を導入した。さらに、経営方針には「運転手の生活安定」、「利益はすべて運転手へ」というスローガンを掲げ、会社の利益を労使で折半するという画期的な経営手法が取り入れられた。

 清は、不足していた乗務員を広く募り、新車購入を計画。車両の購入には頭金を払っての月賦払いを活用し、組合員の稼ぎと新車購入の支払いを緻密に計算しながら毎月1~2台ずつ車両を増やし、拡大路線を敷いた。その結果、組合スタート時には 16 台しかなかった車両が、3年後には 70 台にまで増加した。

 また、運転手の生活安定を経営方針に掲げた相互タクシーは、タクシー業界で初めて公休制を導入し、それまで業界が全く手をつけなかった従業員の福利厚生面にも革命的な進化をもたらした。

 創業から5年後の昭和11年には、大阪・関目の地に3000坪の土地を購入し、車両100台を駐車できる大規模な車庫と従業員が居住できる社宅を建設して、“一大タクシー村”をつくり上げたの。手厚い従業員の保護と家族主義的経営が基本であった。他社が1~2年で新車を買い換える時代に、相互タクシーは4~5年もの長い間、車両を走らせることができた。

 昭和12年には日中戦争が勃発し、翌年には国家総動員法が公布された。その戦時体制化にあって、中小のタクシー業者は経営に行き詰まり、次々に大手企業に身売りするようになる。

 日中戦争で世間が日本の将来を案じている時、清は部下に「タイヤをぎょうさん買っておけ」と命じた。そして、清はオイル不足を見越して、いちはやく「木炭自動車」の研究に取り組み始めた。そのうち彼にも召集令状が届き、軍隊に入隊するが、それでも研究を諦めなかった。そして、ついに清は、多田式木炭車を完成させた。

 時を経ずして、太平洋戦争に突入すると、清の予見通り、ガソリンは急激に不足し、ついにはガソリンの配給が完全にストップした。そして、ガソリン車休車命令が発令された。この時にはすでに相互タクシーは600台の木炭車が稼動できる体制を整えていた。部下に大量購入を命じたタイヤも急速に不足したが、清は倉庫一杯にあふれるストックを抱えて、同業他社との経営体力に大きな差をつけた。

  また、一億総決起で戦意が最高の高まりを見せていた頃、清は会議で開口一番、「今日から経理、営業部長らは中之島の図書館に通って勉強をしてもらいたい。ドイツが第一次世界大戦に負けた直後の経済状況を調べて、1週間後に報告書を出して欲しい」と言った。

  「金、銀、の価値がどう変わるかも調べてくるんだ」と付け足した。「戦後のインフレ対策は、山林を買う、土地を買う、平和産業の株を買う」というものだった。

  清は、これらのインフレ対策をすぐに実行に移した。そして、山林は昭和38年頃までに京都府で58 山、大阪府で65山を買占め、平和関連産業の株購入に至っては昭和39年頃までに約6000株、93 銘柄に及び、当時の時価総額で約65 億円にも達した。

 後に、木炭車の燃料確保に端を発した山林の買占めは、植林事業として受け継がれ、戦後の地価高騰時代には計算のしようもないほど莫大な資産となる。さらに、一流上場企業の株主となったことで、その受取配当金は半期で5億円にも上る多大な収入源となった。

 こうした多田式経営は、ほどなくして経済界にも響き渡り、当時、経営の神様と言われた阪急の総帥・小林一三が、阪急バスの経営を頼み込んだという逸話も残っている。

  紺の詰襟と制帽を着用する乗務員

 「私が今日あるのは、あらゆる人達に有形無形の迷惑をかけ、そういう意味での借金をしてきたからだ。残された人生で、これらの借金を返してしまわなければ、人間としての価値はない」。

 戦前に一タクシー運転手から起業し、一代で大阪を代表する一大タクシーグループを築き上げた清は、晩年、「人生借金返済論」をしきりに説くようになる。

 そして、その言葉通り、「社会に対する当然の恩返し」として数え切れないほどの寄付行為や慈善事業を重ねるが、その最後の仕上げとして構想したのが、父祖が眠る生まれ故郷に大仏を建立する事業だった。

 清は、本社の敷地内のガレージを大仏工場に改造して、自ら大仏殿の設計や付属品の試作に取り組んだ。そして、実際に工事が始まると、天候に構わず1週間に一度は現場を訪れ、細部まで自分の目で確かめ、工事業者に厳しい注文を出した。

 昭和62年、実に1857日、延べ8万485人の作業により、大仏殿と五重塔、そして中国の国宝に指定されている装飾壁を再現した九龍壁が完成し、開眼落慶法要が執り行われた。


  越前大仏は身の丈17㍍、両脇に羅漢像と菩薩像を従え、3方を1281体もの仏像に囲まれた、座像では奈良の大仏をしのぐ日本一の大きさとなった。この大仏の完成により、清は地域社会への貢献を合わせた観光事業への進出を目指そうとしたのだった。


 そんな折、清は突然、病に倒れる。病状は重く、長期の入院生活の中で、志半ばの清は事業を後継に託すことを決意する。そして、平成3年7月、ついに清は帰らぬ人となる。葬儀は、清自身が建設した大師山清大寺越前大仏で、しめやかに執り行われた。



 地縁・血縁の大きな財産が福井にはあったものと想像される。