日本の仏教の基礎は聖徳太子によって築かれたという説がもっとも有力である。
聖徳太子*は西暦574~622年の人で、用明天皇の子にして推古天皇の摂政(593年)、遣隋使派遣、冠位十二階、憲法十七条と、中央集権国家を作り上げたことで有名である。
*(動画あり)
太子は、日本人の書いた最古の仏教書『三経義疏』を著したとされている。
三経とは、法華経、勝鬘教、維摩教である。法華経は日本でもっとも広く読まれている教典で「方便」(真理に導く手段)の言葉で有名である。勝鬘教は、如来思想が説かれている。維摩経は空の概念を説いたものである。この三教典の注釈が『義疏』である。
この真贋を巡って論争があるが、A級戦犯の東条英機の教誨師を務めた花山信勝は、その著『聖徳太子御製法華教義疏』(1933年)で、少なくとも『法華義疏』は太子の手になるものであることを論証した。
聖徳太子の著作は、強烈な小乗仏教批判が込められている。「常好座禅」という言葉がそれである。
この言葉は、「常に座禅を好め」と解釈されることが多いが、先述の末木氏は、「常好座禅小乗禅師」という一文として読まれ、「山中で座禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり」、菩薩が近づかない十種の対象(「十種不親近」)だと批判しているものとして読まれるべきであるとする。
確かに、太子は、在家の仏教徒であった。そうした自負心がこうした強烈な主張をさせたのであろう。そして、この自負が、後の日本の仏教の強靭な背骨を形成することになる。
奈良大仏は、民衆搾取の上に建造された。天平勝宝元年(749年)、それは完成した。大仏を作ろうと提案した、聖武天皇の言葉は背筋が寒くなるものであった。
「天下の富を有するのは朕なり」、「国銅を尽くして象を溶かし、大山を削り手堂を構え」、「この富勢を以てこの尊像を造らん」(『続日本紀』、天正15年743年10月)の詔のわずか3年後に大仏は完成した。
天平勝宝4年(752年)東大寺盧舎那仏開眼供養が営まれてた。前代未聞の大盛会であったという。しかし、その5年後の天平勝宝9年(757年)、大仏建立のために公民が貧窮に叩き込まれたとして橘奈良麻呂の乱が起こっている。朝廷には道鏡という怪物がのし歩いていた。聖徳太子の徳にも拘わらず、日本の仏教はまず大権力に媚びへつらうことから出発した。
私たちが、小者のことを何気なく「小僧」と呼んでいる。これはれっきとした仏教界の用語である。
つまり、「大僧正」の反対の言葉で、取りに足らない民衆の「自称、僧」のことである。
律令制時代には、僧は、官の許可を得た得度(官度)を受けたもの以外は認められていなかった。つまり、官の許可なく民衆に布教することは禁じられていた。許可を受けない僧を「私度僧」という。官度僧は官から給料を得ていた。私度僧は当然禁止された。民衆に人気のあった行基は私度僧にして小僧であった。この「小僧行基」が大仏建立に立ち上がり、「小僧」から「大僧正」に昇格した(天平17年(745年))。
律令制度はここから崩れる。天平15年(743年)墾田永代私財令によって、荘園の私有が認められるようになった。わが越前が俄然活性化したのはこれを契機とする。
ここからが、日本の歴史の愉快なところの開始である。天武天皇の時代に日本の公認仏教は確立させられるが、同時にこの時代に天照皇大神を頂点とする神祇体制が確立するのである。
ところで最近の小中学校の教科書では「聖徳太子」とは表記せず、「厩戸(うまやと)皇子」と表記するそうです。
以上のことから「聖徳太子はいなかった」という説があり、↓のサイトでは論争をしています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/shoutokutaishi.htm
『聖徳太子はいなかった』(谷沢永一,新潮新書)
は売れているようですが、↓のサイトでは酷評されています。
私はまだ読んでいないから何ともいえませんが、本当だったら「この本の欠点は,書かれている内容を全て理解するために,かなりの基礎知識を必要とするのだ。」とか「よほどの聖徳太子マニア,日本古代史マニアでなければ,何が書いてあるかよくわからない文章が多すぎるのである」という点は、本やブログを書いているものには気をつけなければいけないことだと思います。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31359486
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho72.htm
それと、末木さんは「大乗仏教派」なのか?大乗仏教派が使う侮蔑用語「小乗仏教」という名称を多用しているようですが、最近は、きちんと「上座仏教」という用語で語らないといけないようです。
「小乗仏教」という用語には気をつけてお使いいただいた方がよいのではないでしょうか?