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ソクラテス以前のギリシャ哲学に私のこだわるのは、ソクラテス以後の形式的な論理に沈静するよりも鋭い直感と観察力を備え、宇宙全体の関わり方を知ろうとした一群の哲学者が、ソクラテス以前には存在していたことに感動したからである。
目の前のクライシスを無視し、とくとくと形式論理を振り回す、自称「理論家」への不信と怒りから、私は人間としての哀愁と共感を備えた理解力をそれこそ必死になって追い求めている。そこで見出したのがピタゴラス学派であった。彼らは、人間的「生」を真正面から見つめていた人々であった。
ニーチェは、彼らを「悲劇時代の哲学」と呼んだ。ヘーゲル的な思弁性の形而上学にまだ汚染されていない彼らの魂の純粋さに彼は感動したのである。
ピタゴラス派の数理思想と宗教思想は、民衆の心の奥底で沸騰している情念を取り出して見せたものである。彼らを「非論理的」といって切り捨てる「理論家」の誰一人として、現在社会から阻害されている民衆(権力から疎まれている外観上の文人を含む)への共感をもたないのは、けっして偶然ではない。
現在のクローニー的体制のぬるま湯を快適と感じている権力指向者の観念を砕き、暗闇に右往左往している虐げられた人々に光りをもたらす営為は、ピタゴラスのような「消された伝統を復権」させることである。
その思いを込めて、古代ギリシャ哲学で消されてしまったピタゴラス的伝統を復権させるべくこのシリーズを書いている。開花するまで、読者諸氏の忍耐におすがりする次第である。
ただし、私は古代ギリシャ哲学の専門家になるつもりはない。実在したかどいうか疑わしい文献の真偽を検討する時間は、いまの私には残されていない。たとえば、ディオゲネスの著作が、本人のものとして信用できるのか否かの議論には立ち入らない。ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第9巻57節が本当に彼の手になるのか否かは、いまの私にはどうでもいい。
「およそいかなる言説を論じ始めるにあたっても、その原理すなわち出発点として、異論の余地のないものを提出しなければならず、また記述は平明かつ荘重なものでなければならないと、私は考える」といった文だけですべてが語られる。こうした考え方がいつのまにか消えている。それだけで充分である。
人が合理的に行動するはずだ、だから経済学には歴史学はいらない。正しい方向に歴史は動くはずなので、正しい経済学を理解すれば人間の行動様式は理解できるからであると、本気で信じている経済学者の多い米国にあって、「レフトビハインド現象」を正統派の経済学者はどう説明しようとしているのだろうか。正当派経済学者の一人でも、イラク侵略戦争に反対した人はいたのか。日本の経済学会でそうした議論をする人はいたのか。
「異論の余地のない」ものを「原理」としてそれを平明に語る必要がある。こうした論点を、かつては堅持する哲学者たちがいた。私はこうした消された伝統にこだわりたい。