消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 87 サンシー事件

2007-04-01 23:23:26 | 言霊(福井日記)

 サンシー事件」とは、1879(明治12)年4月、琉球藩の廃止、琉球藩主であった元琉球王、尚泰(しょう・たい)の退位、首里城の明け渡しを明治政府が迫ったことへの島民の抗議行動のことである。宮古島で起こった。

 たびたび言及するが、1872年(明治5)の琉球藩の設置は、琉球王を琉球藩の藩主にして、日本の華族に列し、天皇の臣民とした意味をもっていた。

 この年、明治政府は、鹿児島県を通じ、琉球王国に日本領に入ることを要請した。そして、同年9月14日、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文を下した。これが、琉球藩の設置と言われるものである。これによって、それまでは、鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球は、明治政府の直轄下に移されたのである。

 新しく設置された藩王と、それまでの摂政(シッシー)・三司官(さんしかん)の任免権も、明治政府によって掌握された。

 
摂政は本土の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目というのが建前であったが、通常は儀礼的な閑職であった。王子などの王族から選ばれた。

 三司官が、実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。3人制で投票により選ばれた。選挙権をもつ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権はなかった。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った(琉球王国、ウィキペディア)。

 また、明治政府は、1874(明治7)年、台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾に出兵した。これは、明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれている。

 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、漂流し、台湾南部に漂着した。船には琉球の役人と船頭を併せて69名が乗っていたが、遭難時に3名が溺死していた。残った66名は先住民(現在の台湾原住民パイワン族)によって集落に連れ去られた。これは拉致ではなく、先住民が客人を接待する積もりだったのではないかとも言われているが、真相は分かっていない。いずれにせよ、12月17日、琉球人たちは、集落から逃走した。

 逃走に怒った先住民は、逃げた琉球人を捕まえ、54名の首を切った。逃げ延びた12名は、漢人の移民によって救助された。台湾府が、福建省の福州経由で、彼らを宮古島へ送り返した。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は拒否した。まだ国内を完全掌握していなかった明治政府は、事件を3年間放置した。

 この事件を知った清国厦門(アモイ)の米国総領事リ・ゼンドル(Charles William Le Gendre)が、駐日公使を通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と外務省に提唱した。

 外務卿・副島種臣(そえじま・たねおみ)がゼンドルと会談、内務卿・大久保利通もゼンドルの意見に注目した。明治6年政変で征韓論派を一掃して主導権を握った大久保利通は、台湾出兵を企画した。1874(明治7)年4月、「蕃地事務局」を設置し、長官に大隈重信(おおくま・しげのぶ)、陸軍中将・西郷従道(さいごう・じゅうどう)を事務局長に任命して、全権を彼らに与えた。

 英国公使ハリー・パークス(Harry Parks)は、出兵には反対であった。木戸孝允も、大久保が征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、参議の辞表を提出して下野してしまった。しかし、政府は長崎に待機していた西郷従道率いる征討軍3,000名を、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で台湾南部に派遣、1874年5月22日に原住民を制圧し、現地の占領を続けた。

 ところが、明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益をもつ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。英国は、当初激しく反発したが、その後、英国公使トーマス・ウェード(Thomas Wade)の斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した結果、清が賠償金50万両(テール)を日本に支払うことと引き換えに、征討軍の撤兵が行われることとなった。

 日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に帰属することが国際的に確定した。しかし清は納得せず、日本は先島諸島の割譲を申し出た。清は一度は同意したが、いざ条約調印の直前になると態度を翻し、琉球全域の領有を再度主張した。このため、琉球の帰属問題が完全に解決したのは日清戦争で日本が勝利してからである(台湾出兵、ウィキペディア)。

 それを機に1875年(明治8)、明治政府から琉球に派遣されていた松田道之処分官が琉球藩に対して以下の要請を行った。

 1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封(さくほう)を受けることを今後禁止すること。冊封とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶことである。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ(冊封、ウィキペディア)。
 (2)明治の年号を使用すること。
 (3)謝恩使(しゃおんし)として藩王(尚泰)自ら上京すること。

 1609年に薩摩藩の支配下に置かれた琉球王国は、江戸幕府を頂点とする幕藩体制に組み込まれ、幕府の将軍や琉球の国王が代替わりしたときに江戸へ使節を送るようになっていた。琉球王国から幕府に送られた使節は「慶賀使」と「謝恩使」の2つである。「慶賀使」は幕府の将軍が代わるたびに、「謝恩使」は琉球の国王が代わるたびに、派遣された。それぞれが約100人前後で構成され、これに薩摩藩の藩主や役人達も加えて全体で1,000人を超える一大行列となった。これが「江戸上り」である。

 江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。

 おもな構成人員は正使(王子)・副使(親方)・掌翰使・楽童子などである。異国風の衣装に身を包み、琉球王からのさまざまな贈り物をたずさえ、にぎやかに楽器を演奏しながら行列していく様子は当時の人々の目を大いに引きつけた(琉球大学付属図書館、「江戸上り」、『文献で見る沖縄の歴史と風土』、http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/digia/tenji/tenji2002/m08.html)。

 通常、王子が務めるべき謝恩使を、王自ら務めよという明治政府の命令であった。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県を行うことを通達した。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった。

 明治政府の処分に不服を唱える琉球の士族たちの一部(脱清人)は、清国に頼って、事態を打開するように画策した。その後、日清両国の間で、先述のように、沖縄を2分割または3分割するという分島案が考えられた。しかし、結局まとまらず、琉球諸島に対する日本の領有権が事実上確定した(同上、「明治政府と琉球処分」、www.lib.u-ryukyu.ac.jp/biblio/bib35-1/bib35-4.pdf)。

 そして、1879年、「サンシー事件」が起こる。サンシーの言葉の由来には諸説あるが、沖縄の敵方である沖縄県政に「賛成(サンシー)する者たち」という意味ではなかろうかというのが有力である。

 同年4月、宮古島の島役場「在番仮屋」(ざいばんかいや)に首里から警官20名が訪れた。在番仮屋とは、旧王朝以来の島に設置された役所兼警察署である。これを廃止し、在番仮屋の代表は罷免するが、頭(かしら)と呼ばれたその他の官吏はそのまま明治政府が雇用するという事例を渡したいと警官隊は伝えた。しかし、頭たちは、全員、出頭しなかった。警官隊が到着する前に、宮古島の島民たちは、身分の上下を問わず、沖縄県の命令には従わないこと、その約束を破ったものは、「所払ひ」という流刑を課されることが取り決められていた。

 沖縄県は、在番仮屋を廃止し、代わって、「沖縄県警部派出所」を設けた。ところが、島民の士族の1人、下地利社(しもじ・りしゃ)という25歳の若者が、島民の取り決めを破って、通訳兼雑用人として、県の官吏の下僕となった。

 島民は、彼の家族(両親と弟)を伊良部島に「所払ひ」した。しかし、本人は警察署にいることもあって、島民は手出しできなかった。そうこうするうちに、本人の悪口を言っていた人妻を本人が捕まえ、警察署まで髪を掴んで引きずった。これを見聞した島民1,200人が警察の押しかけ、本人を捕まえ、外に引きずり回し、殺害した。

 急を聞きつけた那覇の警察は、48名を現地に急行させ、暴動の首謀者を捕らえた。その首謀者は、仲間を当局に売り、減刑を許された。

 下地の墓は、宮古島市西仲宗根の地にいまも建っている。これが、「サンシー事件」である。いまのイラクを彷彿とさせる事件であった。

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