竹富島玻座間村の種子取祭の7日目、夜明けに弥勒神を起こし(ミルクウクシ)、その後、その神を「歓待」(カンタイ)する儀式を「世持御嶽」(ユー・ムチ・ウ・タキ)の特設部隊で行う。
その後、島の古老たちが、集落の責任者である主事の家を訪問する。この訪問時に、「世乞い」(ユークイ)歌を歌う。彼らが「世持御嶽」に戻ってくると、この御嶽の広場で、彼らを「迎え」(ンカイ)る儀式がある。そして、その場所で「庭の芸能」なるものが奉納される。午前10時頃である。約1時間。
まず、「棒」の演技。祭りの「清め」の意味がある。三尺棒・鎌・刀が竹富島の武力を表し、頭に「マンサージ」と呼ばれる鮮やかな紫頭巾を被った「二才」(ニーセー)と呼ばれる青年たちが演じる。さらに、槍・薙刀(なごなた)という薩摩藩の武力を表す武士姿と二才たちの闘いが演じられる。
次ぎに、「太鼓」が演じられる。小太鼓を左手に、右手に撥(ばち)をもった薩摩武士の行列が続く。鉢巻・羽織袴(ハオリバカマ)といういでたちは、琉球のものではない。
そして、前回、紹介した、働き者の「真女」(マミドー」が演じられる。姉さんかぶりの野良着姿、鍬・鎌を手にして、農作業の踊りを演じながら、「作物の生長」の歌を歌う。
「ジッチュ」という着物の「片袖」を脱いだ男女の踊りが続く。人頭税に苦しみながらも、10人の子供を育て上げ、税も完納した夫婦を、首里国王が、誉めるべく、王宮に招待したが、この夫婦は貧しく、着物の片袖が取れていた。片袖のまま国王に拝謁したという伝承である。国王に拝謁できた喜びが踊りになっている。釈然としないが、まあ、いいとしよう。「ジッチュ」の言葉の意味には諸説ある。かけ声を表したのではないかという説が有力である。
「真栄」(マ・サカイ)という伝説上の人物を讃える踊りも奉納される。
人頭税があった時代、人が増えすぎると、他の地域に強制移住させられた。これを「道分け」(ミチ・バギ)といった。
住み慣れた地を離れて、荒地の開墾のために強制移住させられるのだから、島人たちは皆、この「道分け」を嫌がった。しかし、300年ほど前に、進んで石垣島への移住に応じた「真栄」という若者がいた。彼の開拓精神を讃えた踊りと歌が「真栄節」である。鍬を担いだ踊りが演じられる。
「腕棒」という空手の演技もある。元々は男性の演技であったが、踊りが単純なので、しばらく廃れていたが、女性の演技として復活した。女性が空手を演じるのである。
「祝い種子取」という芸能もある。これは、伝統芸能ではなく、新しく構成された芸能である。島を離れた人たちが、島に里帰りし、離島たちが協力して、島のために奉納する芸能として創り出されたものである(戦後すぐ)。
「世乞いの道歌(ミチウタ)」、「安里屋(アサトヤ)ユンタ」、「クイチャー」などいくつかの民謡が混ぜ合わされた踊りである。
元々は、竹富島から石垣島に移った人々が、石垣竹富郷友会を創り、その婦人部が竹富島の「種子取祭」に帰郷して奉納したのが始まりである。それまでは、島を離れた者は島の踊りを奉納することはなかった。これはすごいことである。
庭踊りで一番人気は「馬乗者」(ンーマ・ヌー・シャ)である。頭に先述の「マンサージ」、足には脚絆(キャハン)と草鞋(ワラジ)、腹に馬型を括り付けて「二才」たちが面白可笑しく躍る。かけ声も、笑いを誘うように工夫されている。
これは、琉球王朝時代の「京太郎」(チョンダラー)という芸能集団の名残である。彼らは、村々を渡り歩いて芸能を披露するとともに、葬儀をも引き受ける「念仏者」(ニンブチャー)であった。
いまでも、沖縄に残っている、人形芝居・念仏歌・口説・鳥刺舞・馬舞者・エイサー等々は、チョンダラーを創始者としている。
これら盛りだくさんの演技がわずか1時間、庭で、つまり、土の上で演じられるのである。演技者と観客は当然、一体となる。こうして島人たちは、互いの結びつきを強めている。