消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 90-2 伊波普猷の中学校の思い出1

2007-04-06 23:12:57 | 言霊(福井日記)


  沖縄学の父、伊波普猷(いは・ふゆう)は、1876(明治9)年3月15日、沖縄県那覇市西村で長男として生まれた。家は裕福であったと言われている。

 
1886(明治19)年、10歳のときに沖縄師範学校付属小学校に入学。この学校は、「沖縄の学習院」と言われた格式ある学校で、貧しい家庭の子が入れるところではなかった(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/sou980623.html)。1981(明治24)年、沖縄県尋常中学校に入学。先述の漢那憲和は同級生であった。

 そして、1893(明治26)年、大恩人の国語教師、田島利三郎先生が同校に赴任してくる。如何にこの中学で田島先生から影響を受けたかを伊波自身が述懐している。教頭であった下国良之助へのアンビバレントな感情を語りながら、田島先生に万感の思いで感謝の言葉を出している。

 非常に流麗な文で、そのまま転載したい誘惑に駆られるが、自戒して、私の拙い文で要約する(伊波普猷、「中学時代の思出―この一篇を恩師下国先生に捧く―」、『琉球古今記』(大正15年))。

 ただし、伊波普猷の文体のすごさを知っていただきたく、文の末尾は、伊波普猷の文をそのまま転載する。著作権にひっかからないかと心配だがご寛恕を。

 沖縄を第2の故郷だと言う人は多い。しかし、その第2の故郷に再度帰ってきた島外の人は少ない。下国先生は、この珍しい人である。昨年(大正14年)、30年振りに、この第2の故郷に帰つて来られた先生は、思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、61の春を迎へられた。

 下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名である。4年8か月の間、私(伊波普猷)は、親しく先生の薫陶を受けた。(本山注、1895(明治7)年、先述のストライキ首謀者として伊波は退学処分を受けた)。

 私は、明治24年4月、16歳の時に、中学に這入つた。当時の中学はもとの国学のあとにあつたが、随分古風な建物であつた。(本山注、この中学校は、沖縄の国学発祥の地に建ち、その校舎の地が国学と呼ばれていた。1798年琉球の最高学府でその学校のことを国学と呼んでいた。首里高校ホームページより)。

 一緒に這入つた連中には、漢那(少将)や照屋(工学士)や故当間(市長)や真境名(笑古)などがあつた。この時、私たちはまだ結髪であつた。

 或日、1時間目の授業が済むと、教頭下国先生が教壇に上つて、演説された。「亜米利加印度人の学校の写真を見たが、生徒は何れも断髪をして洋服を着てゐる。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をして、だらしのない風をしてゐる所があるのは、実に歎かはしいことだ。今日皆さんは決心して断髪をしろ、さうでなければ退校しろ」という内容であった。生徒たちは真青になつた。頑固党の子供らしい者が、1、2名叩頭して出ていつた。

(本山注、当時の本土化政策に反抗し、琉球の古い習慣を温存しようとした一群の反日主義者たちが、「頑固党」(ガンクー)と呼ばれていた。彼らは、清に日本政府の横暴を諫めて欲しいと訴えたことから、「清国派」とも称されていた。Gregory Smits, Okinawa Identity Symposium, Hōsei University, Tama Campus, March 9, 2004, http://aterui.i.hosei.ac.jp/cgi-bin/iv/ga-pr040214.html。また、叩頭も、頭を叩いたと平凡に解釈されてはならない。これは、「三跪九叩頭の礼」(さんき・きゅう・こうとう・の・れい)のことである。三跪九叩頭の礼とは、中国皇帝の前で取る臣下の礼の1つである。叩頭(こうとう)とは額を地面に打ち付けて行う礼である。まず、立位の姿勢から跪き、手を地面につけて額を地面に打ち付ける。それを3回繰り返して一旦立ち上がる。そして、同じ動作を後2回繰り返す。合計、3回跪き、9回叩頭する。清の紫禁城の前庭での国事祭礼で皇帝の前で臣下が一斉に行った。また、琉球王朝や李氏朝鮮では、中国からの勅使に対しても三跪九叩頭の礼で迎えていた。ウィキペディアより)。

 すぐに、数名の理髪師、先生方、上級生たちが、手に手に鋏をもつて教室に押し入り、手当り次第に髪を切り落した。あちこちで畷泣きの声も聞えた。1、2時間後、全員が丁髭を切られた。(本山注、丁髪とは、「ちょんまげ」のこと、沖縄では、「カタカシラ」と名付けられていた。琉球王府時代には、士族以上の階級は15歳、一般庶民は13歳頃から結った。髻の中央部には、副簪の「ウシジャシ」(押差)を後方から前方へ挿し、前方から後方へは本簪の「カミサシ」(髪差)を挿す。沖縄言語研究センター、『首里・那覇方言音声データベース』よりhttp://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50435)。

 この時断髪した私たちの仲間中で、父兄の反対にあつて、学校を止めて改めて髪を生やしたのもいた。世間の人は彼らのことをゲーイといつた。ゲーイとは「やがて還俗」のことである。(本山注、沖縄には、日本語の古語が残っていることの証左である。いまでは、「やがて」は「そのうちに」という意味で使われているが、日本の古語、少なくとも源氏物語時代には、「ただちに」という意味、「間になにもない」という意味であった。広辞苑より)。

 この頃まで県人は殆んど全部結髪であったのに、東京遊学生の大多数、中学師範の生徒、官公吏は、断髪であった。久米村人はこれらの連中を冷笑していた。(本山注、クニンラ と発音。現在の那覇市久米。14世紀ごろから移住した中国系の人びとの住んでいた地域。明の風俗習慣にしたがって暮し、対中国文書の作成や通訳、中国への使者など、特別な役を受け持っていた。沖縄言語研究センター、首里・那覇方言音声データベース、http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50577。福建省から渡来し、那覇でビン(漢字のフォントなし、門構えに虫)人と呼ばれたのは「客家」(はっか)と称する集団生活を営む人々であった。中国の政治体制に詳しく交易の実務や先端技術に通じていた。彼らは琉球の発展を見越して集団移住し「浮島」と呼ばれていた場所に「久米村」を築いて理想的な住処とした。時の明国皇帝は琉球からの「進貢船」を歓びつつも付随して来るかの如き倭寇の侵略に苦慮していた。久米村からの情報では琉球各地に倭寇が定住し勢力を競っていた。その様な実情から琉球統一が急務とされ、道教の僧を名乗る「懐機」が派遣されて久米村の人々と共に琉球統一の深慮を巡らせ佐敷の「按司」となっていた「巴志」を擁立して琉球国が統一される。明国皇帝は大いに慶び「尚」の姓を賜り茲に第一「尚氏」琉球国中山王統が成立したのである。福州園:久米村発祥の地、http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/hukusyu.htm

 彼らは、断髪した人に会うと、「君は何処に奉職しているか」と聞いたものだが、何処にも奉職していないと答えると、「それではトランクワンニンだな」と冷笑《ひやか》していた。トランクワンニンとは「やがて」(注意!本山注)月給を取らぬ(すぐに月給を得ることができない)官人の義である。

 その翌年の4月から、断髪しない者は、中学側が、入学を許可しないようになった。
 明治26年、私は18歳で、3年生であつた。この時、田島利三郎先生に会った。田島先生は明治24年7月に国学院大学の前身たる皇典講究所を優等で卒業された新潟県の人で、身の丈6尺以上の大男だつた。私は先生の『土佐日記』の講義を聴いて、すつかり感服して了つた。先生は忽ちにして全校生徒の心を掴んだ。先生の宅には各級の生徒が絶えず出入していた。そして先生が外出する時には、いつでも2、3人の生徒がついて歩いた。下国先生が、「君等の気風が近来著しく田島風になつた」と私たちを評したこともある。

 田島先生のお宅で、私たちは、『枕草紙』の講義を聴いた。先生は尺八の名人だつた。その上旧劇には造詣が深かつた。直接先生から聞いた話だが、或時先生が歌舞伎を見に行った時、団十郎の芸にまづいところを発見したので、何とかいつて野次つたら、団十郎も早速気がついて、是非会いと言って寄こしたことがあった。先生は「歌舞伎」を初号から揃へて、意読して居られた。その頃沖縄では役者は非常に軽蔑されていたが、先生はいつも芝居小屋に出入して、役者を教育して居られた。先生はその土地を研究するには、何よりも先きにその言語に精通しなければならないということに気がついて、到着早々から琉球語の研究に没頭されたが、1年も経たないうちに、沖縄人と同じ様にその方言を操ることができた。

 それと同様に歌謡や組踊りの研究にも腐心されたから、沖縄人以上にその古語に通じて居られた。のみならず、先生は琉球音楽の研究にも手を染めていた。驚いたことには琉歌まで作つた。先生は、沖縄人と同じ様に話し、また感ずることができた。琉球研究者としては、十二分に成功すべき資格を備へておられた。こうして先生は沖縄人の内部生活に触れることができた。生徒には勿論、島民に愛されていた。しかし、児玉校長は、この点をもっとも嫌っていた。

 私は卒業後は高等商業に這入つて、外交官か領事になる気でいた。生徒の控室の本箱の中には、先生方が読み古した雑誌が沢山あつた。私はそれらをあさつて読んだ。私は『東洋学芸雑誌』に出ていた井上哲次郎氏の『教育と宗教との衝突』や、それに対して高橋五郎氏が『国民之友』に出した「偽哲学者の大僻論」を見て、当時国家主義と基督教との衝突について、世論の沸然たることを知つた。

 当時は生徒までが酒を飲んだ。中学でも師範でも、三大節の時は学校から泡盛をおごつて、職員生徒が一緒に祝杯をあげたものだ。(本山注、当時は、1月の四方拝、2月の紀元節、4月の天長節を指していた。四方節とは、明治の「皇室祭祀令」によって規定されていた。元旦の午前5時半に、黄色の束帯を着用して、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南の庭に設けられた建物の中で、伊勢神宮の二宮に向かって拝礼した後に四方の諸神を拝するように改められた。このとき拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮・天神地祇・神武天皇陵・先帝三代の陵・武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮である。陰陽道を始源とするとも、中国起源を持つとも言われるが両者共に明確な経緯を示す資料は無い。

 紀元節(きげんせつ)は、グレゴリオ暦、2月11日。明治5(1872)年、11月15日、明治政府は神武天皇の即位をもって日本紀元元年に定めた(太政官布告第342号)。『日本書紀』の記述によれば神武天皇の即位の日付は「辛酉年春正月庚辰朔」であり、その記念日は正月朔日すなわち旧暦(太陰太陽暦)の1月1日となる。ところが、明治政府は翌年からグレゴリオ暦を新暦(太陽暦)として改暦を予定していたため、その年の旧暦1月1日に当たる新暦1月29日を神武天皇即位の祝日に定め、例年祭典を行うこととした(太政官布告第344号)。翌年この日に祭典を行った後、これを「紀元節」と名付けた(明治6年3月7日太政官達第91号)。ところが、紀元節として祝ったこの日が旧正月と重なったため、旧正月こそが正しい正月だという解釈が広く行われるようになってしまった。この国民の反応を見て、これでは国民が新暦を使わなくなると危機感をもった政府は、神武天皇即位の日を新暦に換算して、「紀元節」を新暦の特定の日付に固定しようと考えた。2月11日という日付を文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

 天長節とは、天皇誕生日である。国家として初めて祝ったのは、1868(明治元)年9月22日(旧暦)である。1873(明治6)年の太陽暦採用後、11月3日に変更した。その後、即位した天皇の誕生日に合わせて天長節が定められた。戦後、天皇誕生日として国民の祝日と定められ現在に至る。なお、皇后の誕生日は地久節と呼ばれるが、戦前においても国家の祝日にはなっていない。いずれも、ウィキペディアによる。)

 下国先生は、秋田県人である。21歳の時に文検に及第して滋賀の学校に奉職し、当時の滋賀県知事中井桜洲散人の感化を受けた人で、熱のある教育家だった。先生の送別会の席上で、伊江男爵が、下国先生は吉田松陰のような人物であると言われたが、正にその通り。当時中学師範の先生には国士の風を備えた人が頗る多かった。

 27年3月に私たちは4年級に進級した。この頃那覇で九州沖縄八県聯合共進会が開かれた。この時本県人は沖縄を他県に比較するの機会に遭遇した。そして種々酷評などを受けたので、漸く自家の短所を自覚し始めた。中学生をして親しく本土の文明に接せしめようという議もこの時に起つた。そして5月には、京阪地方修学旅行が実現した。私たちは目の廻るほど多くの物質的文明を見せられた。ことに京阪地方には下国先生の知人が多かった為に、学校でもその他の所でも非常な歓迎を受けた。京都の第三高等学校の歓迎会はすばらしいものであつた。剣舞、弓術、野球などの余興を見せられた。晩には大勢の三高生が私たちの宿屋におしかけてきて、愉快な座談会が開かれた。そして私たちは、高等教育熱にかかってしまった。

 その頃、先生方は頗りに普通語の励行を迫られた。地方からの生徒は真面目に普通語を使っていたが、首里那覇の生徒は盛んに方言を使っていた。当時、普通語を使用する者は、至つて少なかつた。誰某は大和口ができるということは、今日で誰某は英語が話せるという位の所であつた。ところが、年取つた人たちや学校に行かない連中は、之を稽古する機会がないので酒宴の席上などで冗談半分に稽古する外仕方がなかつた。それ故に久米村人の間では、飲みに行こうというのに、「大和口《やまとぐち》シーガ行《い》カ」と言った。私も、父が酔ぱらうと、盛んに大和口をしかけられて困った。

 ある日、三大節の外は容易に顔を見せない児玉校長が気味の悪い笑い方をして、学校にやって来られた。講堂で、校長はおもむろに口を開いて、私は皆さんに同情をよせる。皆さんは普通語さへ完全に使へないクセに英語まで学ばなければならないという気の毒な境遇にいる。つまり一度に2つの外国語を修めると同じで、皆さんに取つては非常な重荷である。私は今その重荷の1つ、英語科を廃そうと思う。とんでもないと一同は激昂した。中にも高等教育熱におかされた連中の激昂は非常なものだつた。

 沖縄唯一の言論機関たる琉球新報がまず噛みついた。新報杜で采配を揮っていた護得久朝惟氏(同校卒業者)は、英語科を廃そうとするのは、沖縄人に、高等教育を受けさせまいとするので、沖縄を植民地扱いにするものだと激高し、児玉校長を糾弾した。この危期に臨んで、下国先生は校長に忠告してその計画を中止させようと力められたが、剛情な校長は一旦言い出したことを容易に取消すような人ではなかった。そして、折衷案として、英語を随意科にすることになった。当時の卒業証書には、「但英語科兼修」とか「但英語科ヲ除ク」という風に但書がついている。宮城鉄夫君は英語科を兼修しなかつた1人だが、上京して満2年間、英語ばかり研究してから札幌農学校に這入つたほどである。

 それから、この校長に就いては今1ついうべきことがある。それは沖縄県初代の県令、上杉茂憲伯が沖縄を去られる時、奨学資金として県に寄附された1,500円がこの人の学務課長時代に他の方面に流用されて、すっかりなくなったことである。そしてこの頃から県費留学生を出さなくなった。けれども私はこの人を悪人とは思わない。この人を私は一種の愛国者と思っている。この人は兎に角沖縄を甚だしく誤解した人の一人である。

 この人をしてそうさせた罪の一半は当時の東京留学生が負わなければなるまい。当時は廃藩置県が行われて間もない頃で、沖縄の留学生の中にも志士が多くて盛んに復藩論を唱へていた。彼らの機関雑誌が『沖縄青年』である。或時児玉氏が上京中青年会に臨んで、監督者のつもりで一場の訓話をやって、其の場で留学生から手ひどく反駁されたことがあった。それ以来彼は沖縄人に高等教育を受けさせるのは国家の為にならないという意見を抱くようになったたと言われている。彼が郷土研究者の田島先生を蛇蝸視し、生徒に同情の深い下国先生を敬遠したのは、むしろ当然なことである。彼がもし地下で、高等教育を受けた者の中から日琉同祖論を高調する者がでたり、30年前の恩師を迎えて還暦の祝賀会を開いたりするのを聞いたら、その教育方針の全然誤っていたことを覚るであらう。(本山注、伊波の日琉同祖論には、最近、厳しい批判が寄せられるようになった。冨山一郎、『暴力の予感』、岩波書店、2002年)。

 以下、伊波普猷の文体を味わっていただきたく、しばらく、そのまま掲載する。 
 「修学旅行から帰つて以来、学校の空気はとにかく不穏であつた。8月には日清戦争が突発した。琉球新報は諸見里朝鴻氏を従軍記者として台湾に派遣した。沖縄の人心は非常に動揺した。下火になつてゐた開化党と頑固党との争は再燃した。首里、三平等《みひら》の頑固党の連中は、毎月、朔日と15日とには、百人御物参《ももそおものまいり》といつて、古琉球の大礼服をつけて、弁ケ嶽、円覚寺、弁才天、園比屋武御嶽、観音堂等に参詣し、旧藩王尚泰の健康と支那の勝利とを祈つた。首里小学校の児童が彼等の行列を見て嘲つたといふので、原国訓導が頑固党の勇士たちから散々郷られたのもこの頃のことである。この頃久米村で発行する暦に間違があつて、頑固党は旧暦の大晦日を29日とし、開化党は日本暦によつて、之を30日としたが、これから頑固党のことを「29日党」と呼ぶやうになつた。琉球新報の「29日党」攻撃はだんだん激しくなつた。

 何月頃だつたか、戦争中、もとの首里区長の知花朝章氏が清国の事情視察の為に、山原船で脱走されたことがある。この時2艘の山原船は与那原からか、何処から出たか、途中で暴風に遭つて1艘は沈没し、知花氏を乗せた1艘は3日目に辛じて福州に着いた。そして一行は天津で日本の国事探偵と誤られて、獄に投ぜられたが、後琉球人だといふことがわかつて、許されたとのことだ。

 この頃は官庁と官庁との間に電話がかゝつてゐた許で、海底電信は未かゝつてゐなかつた。それ故に捷報なども一週間後でなければ知る事が出来ない有様だつた。捷報が至る毎に琉球新報に号外を出したが29日党は之を信じなかつたのみか、真赤な嘘だと言ひふらしてゐた。方々の家庭でも、このことに就いて父子兄弟の間に盛に議論が闘はされた」。


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