消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.99 沖縄の「アメ亡組」

2007-04-23 18:22:41 | 言霊(福井日記)
 一橋大学加藤哲郎氏は、労働者国家のソ連に憧れて、その地に入った共産主義者たちが、スターリン粛正にあって抹殺されたという絶望の軌跡を追う仕事をされている政治学者である。

  同氏は、沖縄出身の共産主義者たちを襲った悲劇にも暖かい眼差しを注いでいる。

  以下、同氏の『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ、2000年)、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)等々に導かれて、沖縄の共産主義者たちの悲劇を追体験したい。

 日本の辺境に組み込まれた沖縄は、食べ物がなく、蘇鉄の実を食べてその毒で多くの人が死んでいった。それを「蘇鉄地獄」という。沖縄では、本土に比べて農村の過剰人口対策があまりにも希薄であった。島人は、低賃金労働力として島外に出るしかなかった。

 「ここに、『ソテツ地獄期』のすさまじい労働力流出が必然化されたのである」(冨山一郎『近代日本社会と「沖縄人」』、日本経済評論社、1990年、101ページ)。
 米国、南米に多くの沖縄人が移民した。加藤氏によれば、カリフォルニアの日系移民には沖縄出身者が多く、戦前はプランテーション労働から入って一流庭師やクリーニング屋になるのが成功例であった。新天地を求めて米国に渡ったのだが、人種差別が強かった米国では、いつまでたっても底辺から這い上がれなかった。そこで西海岸の労働運動や共産主義に近づいた沖縄人が多数出てきた(『月刊百科』平凡社、1995年7月号における加藤氏のインタビュー記事より)。

 しかし、ロサンゼルス郊外のロングビーチで、1931年末、失業者集会・飢餓行進を組織した米国共産党が官憲に襲撃された。100人以上が逮捕され45名が起訴された。その中に9名の日本人移民が含まれ、内5名は沖縄本島出身の在米沖縄青年会活動家であった。又吉淳、宮城與三郎(與徳の従兄、與徳はロサンゼルスで伊波普猷と会っている、次回で後述する)、照屋忠盛、山城次郎、島正栄で、彼らは国外追放になり、同様の事件で先にソ連に渡った米国共産党日本語部指導者健持貞一らにならい、ニューヨークから船に乗り、ドイツ経由で「労働者の祖国」ソ連へと亡命した。
 
  治安維持法のある日本に帰国すれば逮捕されることを恐れたこともあったろうが、なによりも、「労働者の祖国」といった幻想に捕らわれていたことの方が大きかったのだろう。

 彼らは、旧ソ連在住日本人の中で「アメ亡組」と称されていた。クートベ(東洋勤労者共産主義大学)に学んだ後、野坂参三や山本懸蔵の指導下で東洋大学の日本語教師や外国労働者出版所に職を得る。いわば初めてまともな労働者、まともな日本人として扱われるはずであった。

 しかし、彼らの消息はソ連亡命後に途絶え、戦後も手がかりがなかった。ところが1991年ソ連崩壊により、かなりの事実が明らかになった。「アメ亡組全員がスターリン粛清最盛期に「日本のスパイ」として逮捕され、銃殺・強制収容所送りとなっていたのである。

 1930年代後半のソ連では、日本人であるというだけでスパイ扱いされた。野坂参三さえスパイと疑われる状況下で、一網打尽に粛清された。旧ソ連秘密警察(KGB)文書によると、沖縄出身の5人も1938年3月15日に照屋、同22日に宮城・又吉・山城・島が「日本のスパイ」として逮捕され、5月29日に又吉・山城・島、10月2日に宮城が銃殺された。強制自白を拒んで無実を主張し続けた照屋も、39年11月に5年の強制労働刑に処されて後、行方不明となった。

 これら粛清裁判は1989年に過去に遡って無効とされ、又吉・宮城・山城・島は名誉回復された。しかし遺族に事実が伝えられたのは、91年のマスコミ報道によってであった。照屋については名誉回復も確認できない。

 希望を持って海外に雄飛した沖縄人が、日本・米・ソ連という国民国家に差別され裏切られ、時代の波に翻弄された悲劇であった(前掲、『沖縄を知る事典』、http://homepage3.nifty.com/katote/longbeech.html)。

 このロングビーチ事件については、『北米沖縄人史』(北米沖縄クラブ、1981)、比屋根照夫「羅府の時代」『新沖縄文学』89-95号、1991-93年)がある。

 スターリンによって粛正されたのではないが、日本の官憲によって事実上、殺された宮城與徳についても紹介しておきたい。

 宮城與徳(みやぎ・よとく、1903(明治36)年~1943(昭和18)年)は、沖縄本島の名護出身であり、近所には徳田球一が住んでいた。また、球一の弟、正次が與徳の小学校時代の同級生であった。沖縄県立師範学校に入学したが、病気で退学した。家は貧しく、宮城家も生活のために父や、兄の與整、従兄の與三郎らは渡米し生計をたてていた。1919(大正8)年、兄・與整の招きで與徳もまた米国に渡った。渡米後はカリフォルニア州立美術学校やサンディエゴ美術学校に学び、1925年には沖縄県における良心的兵役拒否者の先駆けである屋部憲伝らとともに「社会問題研究会」(後の黎明会)を結成、共産主義へと傾斜して行った。この頃プロレタリア芸術会の機関誌『プロレタリア芸術』の発行にも協力した。

 1931(昭和6)年、米国共産党日本部に入党、1933年に帰国した。そして、尾崎秀実、ゾルゲと接触した。しかし、1941年10月、「ゾルゲ事件で検挙され、未決勾留中に巣鴨刑務所で結核のため獄死した。

 その遺骨は一度沖縄に渡り、宮城家の墓所に埋葬されたのだが、国賊として戸籍は抹消された。事件後、遺族は、白眼視され、ついに與徳の遺骨とともに渡米した。戦後、ゾルゲの名誉が回復されると、この事件に連座した人々の活動も見直されることとなった。與徳の遺骨は分骨され再び日本に戻り、同志ゾルゲとともに眠ることとなった。

 尾崎秀実は裁判中に与徳の死を告げられるが、その事について妻子に宛てた書簡で次のように述べている。

 「ここの生活は彼の健康では堪えられなかったのでしょう。彼は実にいい男でした。彼の絵は一般受けはしませんでしょうが、一種の魅力を持っていました。色彩が特異なもので、それにどの絵も独特の淋しさを持っていることが感じられます。全く天涯の孤客で、郷里の沖縄から誰も遺骸引取りに来なかったそうです。家にある絵を大事にして下さい」(尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』青木書店、1998年)

 遺骨の引き取りがすすぐにできなかったのは、遺族が忌避したからではない。東京に出る金がなかったのである。與徳の叔母の証言によると、この頃は家の経済的な事情で遺骨受け取りがかなわなかったという。尾崎秀実の娘は、與徳から絵の指導を受けていた。 

 ゾルゲの墓域には、正面自然石に「リヒアルト・ゾルゲ」と刻み、その上に黒御影石が乗り、ロシア語でゾルゲの名と日本語で妻石井花子の名が刻まれている。右側にはゾルゲの略歴が刻む墓誌、左側に「ゾルゲとその同志たち」11名の名が刻まれた墓誌碑が建っている。

  11名とは、リヒアルト,ゾルゲ(1944年11月7日刑死、巣鴨)、河村好雄(1942年12月15日獄死、巣鴨)、宮城興徳(1943年8月2日獄死、巣鴨)、尾崎秀実(1944年11月7日刑死、巣鴨)、フランコ・ヴケリッチ(1945年1月13日獄死、網走)、北林とも (1945年2月9日、釈放の2日後死)、船越寿雄(1945年2月27日獄死)、水野成(1945年3月22日獄死、仙台)、田口右源太(1970年4月4日歿)、九津見房子(1980年7月15日歿)、川合貞吉(1991年7月31日歿)である。

 碑の裏面には、獄死した宮城與徳の兄、與整の句が刻まれている。
 「ふた昔 過ぎて花咲く わが與徳 多磨のはらから さぞや迎えん」(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/miyagi_y.html

  地理的にも、生活面でも、辺境から辺境に追いやられた一群の人たち。私は彼らをマルチチュードと名付けたい。彼らこそ、社会変革の巨大なエネルギーを保有している人たちである。現在、世界のマルチチュードは、おそらく数億人はいるだろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。