消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.91 鳥居龍蔵

2007-04-09 21:29:56 | 言霊(福井日記)
  琉球大学付属図書館が、平成7年3月1日~10日に開催した伊波普猷展用に、伊波普猷の略年譜と、同大学図書館に所蔵されている文庫の目録を作成している。これらは、同大学のホームページ(http://www.lib.u-ryukyu.ac.p/)で閲覧できる。同図書館が作成した略年譜は、以下の文献を参考にしたものである。

 金城正篤・高良倉吉『沖縄学の父・伊波普猷』(センチュリーブックス:日本 39)清水書院、1972年(これは、清水新書として1984年に再刊されている)の巻末年譜。

 外間守善編『
伊波普猷人と思想』平凡社、1976年、所収の略年譜。
 比屋根照夫『
近代日本と伊波普猷』三一書房、1981年、所収の年譜。
 上記の年譜以外に、以下のものがある。
 伊波普猷生誕百年記念会『
伊波普猷 - 伊波普猷略年譜・主要著作一覧』沖縄文化協会 、1976年。
 伊波普猷生誕百年記念会『
沖縄学の黎明』沖縄文化協会、1976年。

 今年から、日本の大学の中身が急激に変えられる。せめて、琉球大学の沖縄学のような個性的な研究組織を、全国の大学が失わないでいて欲しい。

 
どの地域にも、郷土学は必要である。人は、実学とともに「カネにならない学問」をも必要とするからである。哲学・歴史・文学・社会・民族学のない大学、また、もとうとしない大学は、学問をけっして発展させず、出世亡者か、刹那主義者ばかりを輩出するだけであろう。

 前回で紹介したように、1895(明治28)年、伊波普猷は沖縄中学から退学処分を受けた。退職処分を受けた漢那憲和、伊波普猷、、照屋宏(1875(明治8)年~1939(昭和(14)年)、西銘五郎(1873(明治)6年~1938(昭和13)年)の4人のうち、復学していないのに、奈良原県知事の特別の計らいで中学卒の資格を得た漢那憲和は、翌年に海軍兵学校に入学する。

  伊波普猷ら3人は、復学も許されないので、3人揃って、同年の8月、上京する。上京しても、編入させてくれる中学はなかなか見つからず、当時、上京してきた沖縄中学の和田校長の懸命の努力で、やっとのこと、明治議会尋常中学に編入でき、1897(明治30)年に卒業できた。伊波普猷はもう22歳になっていた。

 卒業した3人のうち、照屋宏だけが一高に入学できた。伊波と西銘は一高の入学試験に落ちた。伊波は、強いノイローゼに罹り、3年間もの浪人生活を送り、1900(明治33)年三高に入学した。25歳であった。入学後もノイローゼに苦しむ。仏教やキリスト教の宗教書をむさぼり読んだ。  

 ここで、照屋宏と西銘五郎のことを書いておく。
 東大工学部を卒業した照屋宏のことは残念ながら、まだ、よくは分からない。ただ、台湾の「後山鐵道風華文化資産數位博物館」に、1907(明治40)年3月、鉄道技師をしていた照屋宏が台湾鉄道台東線建設の調査をしたという記録が残っている。この鉄道は1908年に第一期工事が開始され、1919(大正8)年に完成という、7年4か月、総工費434万円(日本円)の大事業であった(http://www.cultural.hccc.gov.tw/railway/)。

 照屋宏は、1931(昭和6)年から1935(昭和10)年まで、第5代那覇市長を務めた。市長時代に、那覇市上水道を完成させている。通水開始の記念碑、「瑞泉潤民」(ずいせんじゅんみん)は彼の揮毫による。「瑞泉」とは、「めでたい立派な泉」、「潤民」は、「人々の生活を潤す」という意味である(ラジオ番組「那覇市民の時間」、http://www.city.naha.okinawa.jp/wk_simin/siminnojikan/y2003/m05/onair030503.htm)。
 西銘五郎は、沖縄本島知念岬の東海上5.3kmに浮かぶ、周囲8kmの細長い小島、久高島(くだかじま)に生まれた。

 この島は、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝最高の聖地斎場御嶽(せいふぁうたき)も、この久高島を遥拝する構造になっている。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。

 久高島は、琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に1度の秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。イザイホーは、午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。

 ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。

 久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地である。この地の穀物は、ニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では、流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子1人につき伊敷浜の石を3個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。

 久高島の土地は村有地などを除いてすべて共有地であり、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている島である。「久高島土地憲章」により分配・管理が行われている。

 島内は観光開発がほとんどされず、集落は昔ながらの静かな雰囲気を残している(ウィキペディアより)。
  沖縄大学人文学部教授・緒方修ゼミナール生の記述に依拠して西銘五郎を紹介する( http://www.okinawa-u.ac.jp/~ogata/flash2005/oshiro/2.html)。

 そもそもの彼の名前は徳太であった。トクーと呼ばれていた。トクーは父母を幼い頃に失い、祖父に育てられた。父は、シムグワと名乗っていた。屋号をスルバンといった。スルバンというのはシュリバン(首里番)か、スラバン(造船所の管理人)から転訛したと考えられる。祖父は首里王府の船頭であった。

 島には与那嶺のヤマガーと呼ばれる私塾があり、トクーは学校に入るまで学んだ。トクーは幼いときから神童の評判が高かった。

 西銘徳太の幼名はトクーであったが、西銘五郎という名前で呼ばれていた。五郎は1891年(明治24年)の4月に沖縄県尋常中学校(一中・現首里高校)に入学し、那覇区字西64番地に特別に寄留が許され、そこで祖父と共に住んでいた。その頃、五郎は17歳になっていた。伊波と同じく一高受験に失敗した西銘は、明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。

 五郎は明治専門学校を卒業後、1898(明治31)年、25歳のときに、第1回の直接渡米者の比嘉統煕に遅れること2年、第2回の直接渡米者として百名朝興、名護朝助、安元実徳と一緒に渡米し、サンフランシスコに上陸した。

 その頃には五郎は西銘徳太という名前になっていた。
 そして徳太は現地の人の家庭で働き、英語を習得した後、県人初となるオークランドでレストランを開いた。1902(明治35)年、サンフランシスコに北米初の県人会を創立して会長に選ばれた。1908(明治41)年、カナダから南下して来た県人とメキシコから入国して来た県人をも含む南加沖縄県人会を作り、その会長になった。
 1910(明治43)、アリゾナに砂糖大根(テンサイ)の仕事を受け、上間清十郎と共に15名ほどの団体を作って仕事をした。これが県人農園の初めである。アリゾナのレタスは質が良いことで有名だが最初にレタスを試作したのは徳太である。徳太は、1938(昭和13)年)になくなった。

 伊波普猷に話を戻そう。
 1903(明治36)年、三高卒業後、伊波普猷は、現役で東京帝国大学文科大学に入学し、言語学を専攻した。この頃、田島利三郎先生から「琉球語学材料」を譲り受け、オモロ研究に熱中する。

 東大では、非常に優秀な教師、先輩・友人に恵まれた。 
 東大には、英国人、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850~1935年)による琉球語研究の伝統があった。  


 チェンバレンは、1873(明治6)年に来日、個人の英学教師をした後、1874(明治7)年に海軍兵学寮の英学教師、1886(明治19)年、東大教師に採用された。1890(明治23)年まで雇用された。後の文学部国語学研究室の基礎を作った。1891(明治24)年、外国人として最初の東京帝国大学名誉教師となった。和歌をよくし、日本語(含アイヌ語、琉球語)についての研究業績や日本文化の紹介などを、日本アジア協会・ロンドン日本協会・英国人類学会などに発表した。また日本語ローマ字化運動を積極的に推進し、文部省に対して建議書を提出した。

 ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)は日本での親友であった。同氏との往復書簡が東大に所蔵されている。『古事記』を英訳している(http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai97/chamb.html)。

 このチェンバレンの琉球方言に関する研究についての講義を上田萬年(先述)が東大の「言語学講義」で行っていた。この講義を伊波普猷は聴いていた。伊波普猷と並んで聴講していたのが、鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう、1870(明治3)年~1953(昭和28)年)であった。

 現在の徳島県徳島市東船場のたばこ問屋の次男として生まれた鳥居は、小学校中退の学歴しかない。独学で人類学を学んだ。1893(明治26)年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入った。1895(明治28)年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を精力的に調査した。中でも満州・蒙古の調査は鳥居と彼の家族のライフワークとも言ってよいほど、たびたび家族を連れて調査に訪れている。妻のきみ子も鳥居の助手として働き、女性人類学者として近年評価が高まっている。

 1898(明治31)年)、東京帝国大学の助手となり、1921(大正10)年)、「満蒙の有史以前の研究」で文学博士を授与。1922(大正)11年、東京帝国大学助教授となったが、大学と対立、2年後の1924(大正13)、東京帝国大学を辞職し、鳥居人類学研究所を設立し、國學院大學教授となる。1939(昭和14年)、北平(1928年、国民政府が南京に首都を移してから、従来の北京は北平となっていた)に出発、燕京大学の客座教授となる。1951(昭和26)年、 燕京大学を退職し、帰国する。1953(昭和28)年)、東京で死去。82歳。鳥居の収集した資料は、現在主に徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。

 伊波普猷は、鳥居に沖縄調査を持ちかけた。上田教授が旅行費用を工面した。足は、横浜から、尚侯爵家所有の船が提供された。1904(明治37)年のことであった。この時も、鳥居は、件の写真機と録音機を持参した。この時の調査が、鳥居と伊波の日琉同祖の理論的な基礎になった。

 伊波と鳥居は意気投合していた。15年戦争で、日本を脱出した鳥居と、東大卒業後(1906(明治39)年)、直ちに沖縄に帰り、官職にもつかず、ひたすら資料収集をしていた伊波普猷には、反権力という確かに通じる矜持が見られる。

 鳥居の東大嫌いは、まだ整理係をしていた頃の東大総長・渡辺洪基から、人類学者の調査の優先順位は、沖縄、台湾、朝鮮の順にあると諭されたことから始まったのではないか。これら地域こそ、後の日本政府によって、順番に蹂躙された所である。

 鳥居の反骨精神を描き、大仏次郎賞を授与された中薗栄助『鳥居龍蔵伝 ―アジアを走破した人類学者 ―』岩波書店(2006年)は、日本の軍事支配下の異民族に向き合ってきた鳥居の学問の自由観に迫った力作である。

 燕京大学についても、少し書いておこう。この大学は、ロックフェラー財の資金を元に、米国の宗教家によって創設されたものである。北京大学の前身でもある。ハーバード大学のアジア学の拠点、エンチン研究所(Harvard-Yenching Institure)は、燕京大学の資料を受け継いだものである。

 鳥居が北平に移る2年前の1937年7月、盧溝橋事件が起こった。日本の本格的な侵略を予期した北平の諸機関はぞくぞくと奥地に移転していた。キリスト教系大学であった燕京大学は、学長が米国人であったために、日本軍部からは超然とした孤島のようなものであったが、日本軍部は、様々な圧力を加えていた。校内では抗日機運が高まっていた。日本の思想を伝達する役目の日本人教授を招聘するように、大学に日本軍部が要求したのもその1つであった。

 その圧力をかわすべく、親中意見をもつ鳥居を大学が招聘したのである。鳥居は日本軍部から有形無形の迫害を受けた。太平洋戦争が始まると、燕京大学は1941年に閉鎖された。鳥居一家全員が軟禁された。それにもめげず、エンチン研究所から『遼時代の画像石墓』を英文で出版している。燕京大学のスチュアート校長も軟禁され、北平では英語の使用が禁止されていた。そういう時期に鳥居は英文の本を、しかも敵国米国で出版したのである(Ryuzo Torii, Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty, Harvard-Yenching Institure, 1942)。

 鳥居は、日本軍部に連行されて行く教師や学生に向かって、校門の前で深々と頭を垂れた。重要な資料も、郊外に運び出した。非常に大学から感謝された。だからこそ、終戦後、大学が復活して、再度、鳥居はこの大学に招聘されたのである(『燕京大学人物誌 ―鳥居龍蔵(安志敏の執筆)』北京大学出版社、2000年、http://www15.ocn.ne.jp/~nestplan/ryozo/04.htm)。

 鳥居は、日本は中国に負けると思っていた。
 「日本人は中国民族の強さを知らない。これは悲しいことである。中国はあまりのも広大で、戦火が広がるにつれ、日本軍は負けて行くであろう」(『鳥居龍蔵全集』第6巻、朝日新聞社、1976年、58ページ)。

 鳥居は、これも先述した田代安定と親しかった。 
 伊波普猷は、これも先述した新村出の講義を金田一京助と聴講している。伊波普猷は、学問上で沖縄学の父であったが、人脈上でも、中心人物であった。一国史観を突き抜ける高い志から地域学は生まれる。伊波普猷が示した沖縄学がそれである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。