消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシャ哲学 10 アポロンに思う

2006-07-06 00:36:30 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

最近、若さのもつ危うさを強く意識するようになった。若さのもつ傲慢(ごうまん)さが、周囲に害悪をまき散らす。多くの経験に裏付けられたものではなく、一握りの取り巻きとそこでの聖典が絶対的なものとなり、自分が経験したことのないものには、威嚇(いかく)的に圧殺しようとするのが、若さの傲慢(ごうまん)さである。自分を相対視して、老人の曖昧(あいまい)さに学ぶことを恥として、透明な科学性を主張して、人間のもつデモーニッシュ*な側面を軽蔑(けいべつ)する。現在のブッシュ政権がそうであるし、小泉政権の若き取り巻きたちがそうである。

*(【damonisch(ドイツ)】悪魔的。超自然的)

 私が、いいだもも氏のの著作に導かれて、ニーチェに辿り着き、ニーチェの複眼から古代ギリシャの哲学を学び出したのは、現代の権力を担う若者たちに身震いするほどの怖さを感じているからである。ギリシャのアポロン的明晰(めいせき)*1さに対して、ディオニソス的デモーニッシュな非合理性を対置(たいち)*2する作業が、科学の名の下に急速に自らを干からびさせている経済学を救うためにも不可欠であると信じている。

*1〔哲〕(clara(ラテン))概念の内包が一つ一つはっきりしていなくとも、それの対象を他の対象から区別するだけの明白さをもつ概念についていう語。
*2相対して、物・事をすえること。「修正案を―する」

 デルフォイ神殿は、アポロンと並んでディオニソスを祭事に組み込んでいた。冬季、ディオニソスは酒の神として歌われた。春でも、桃花嬢(ミルト)を愛する花の神として大祭の主人公であった。いまでは失われてしまったが、アポロン神殿の切妻壁画には、一方の側にアポロン、他方の側にディオニソスが描かれていたという。

 ディオニソス大祭では、人々は仮面を被って酒を飲んで踊り狂う。狂乱女(マイナス)たちが、生け贄の山羊を引き裂き、その生血をすする。そして、巨人(タイタン)たちに彼らも食われて消滅してしまう。こうした象徴的な大祭は、明晰(めいせき)な姿を誇るかのように振る舞う現実の権力者の怯(おび)えを表すものである。

 眼前の権力に反抗する生は、闇の深い所から生まれ、そして、巨大な権力の力で消し去られてしまう。反抗者を圧殺することに成功した権力といえども、しかし、民衆の反抗に絶えず覚える。民衆のデモーニッシュな反抗精神のガス抜きをするためにも、公認のデルフォイ神殿で、デルフォイではアポロンよりも先に鎮座させられていたというデモーニッシュな荒ぶる神、ディオニソスを持ち上げ、民衆のエネルギーをそこで発散させる。そうした装置を、アポロンに代表されるギリシャの明晰さは、自己の裏側に必須の要素として保持していたのである。
ウォルター. F. オットーは、言う。

 「ディオニソスは、こうして当時のギリシャ人のすべての精神世界に出現していたし、その来訪ぶりのあまりの力強さに、今日でも、私たちを震えあがらせるのである」。オットー、ウォルター. F.『ディオニソス―神話と祭儀』論創社、1997年)。

 ディオニソス神話は多数あって、どれが正しいのかを判定することは不可能である。少なくとも東方のトラキア地方を起源とするのであろう。生肉を暗い、生き血を吸う荒ぶる神である。とんでもない酒飲みであり、とんでもない女たらしである。ポンペイの遺跡にその不良ぶりが描かれている。

 それが、アテネに来ると豊饒(ほうじょう)*の神として、葡萄酒とパンをもたらすおとなしい神としてデルフォイ神殿に祭られる。しかし、ディオニソスを口実とする民衆の酒池肉林的アウトローの行動を阻止することはできなかった。むしろ、そのエネルギーが巨大にならないように注意深くガス抜きしていた。キリスト教の聖餐式はその名残なのかもしれない。

*豊かに多いこと。また、土地が肥えて作物のよくみのること。ほうにょう。

 古代ギリシャは、アポロンに象徴されるくっきりとした明瞭な形象を特徴とする。若々しさ、肉体の美しさが賛美の対象となる。よぼよぼの老人がオリンポスの山上で雪の中で薪を拾っている姿などは、想像もしたくない世界がアテネの若さである。若さだけが賞賛されていた。権力者も哲学者も若かった。


 民衆の権力への反抗は不条理である。科学に対置(たいち)して情念でもって反抗する。そうしたことが軽蔑(けいべつ)される時代に現代は再び入ってしまった。

 民衆の悲しみと恨みを知ろうとするのか、学問的文献的正当性を重視するのか、ここに、学問は重大な分岐点を用意する。

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