消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(240) 新しい金融秩序への期待(185) 金融資本主義の終焉(1)    

2009-12-07 21:59:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)


際限のない貨幣への欲望を解放した帰結

 経済学的思考は、古代ギリシャの時代から存在しました。そして、そこでの主要なテーマは、人間の欲望をいかに抑制するかということでした。モノの場合、たとえばピアノや車が好きであるといっても、何十台も買うわけにいきません。また、コメの値段が下がったからといってごはんを毎日何十杯も食べられるわけもなく、モノに対する欲望には一定の限度があることがわかります。しかし、貨幣に対する欲望には制限がありません。10万円を手にして喜んでいた人は、次に100万円、さらに1億円を求めるようになり、1億円を手にしたからもういいだろうと言われても、今度は10億円が欲しくなるといったように際限がないのです。こうした貨幣への欲望を解き放してしまうと、今のような不幸な時代を招き寄せることになってしまいます。

 ウォーレン・バフェットをはじめとするアメリカの大富豪400人分の所得は、アメリカの人口3億人の半分、すなわち1億5000万人の総所得に匹敵するという富の偏在現象や、そのウォーレン・バフェットがアイスランドで運用していた資金を引き上げただけで、アイスランドという国家が破産状態に陥ってしまうといった問題を想起してみただけで、現在の資本主義のあり方の不健全性が浮かび上がってくるのではないでしょうか。こうした事態を引き起こした原因はただ一つ、お金に対する欲望を解き放したことにあります。

 そもそも経済学は、いかにしてお金に対する欲望を抑制するのかということを大きなテーマとする学問でした。しかし、1980年代頃からシカゴ学派の学者たちが次々とノーベル経済学賞を受賞するようになったことを受けて、いつの間にか如何にして効率的にお金を儲けるかということを大きなテーマとする経済学がもてはやされるようになってしまいました。こうして金融工学と称する分野に多くの研究者が引き寄せられ、経済学から儲からない産業の代表ともいうべき「ものづくり」の世界が外されて行くことになってしまったのです。

 余談ではありますが、ノーベル経済学賞というのは、スウェーデン銀行がアルフレッド・ノーベルを記念して設けた「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」というのが正式な名称であり、正確に言えばノーベル賞ではありません。ところがマスコミがノーベル経済学賞と呼び習わしているため、いつの間にかノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、そして平和賞などと同格のものであるという誤解が蔓延してしまいました。

 そもそもノーベル賞とは、ノーベルの遺言、すなわち「人類に対して最大の便宜を与える貢献を行った人物」に年次の賞を与えることを目的として創設されたものですが、シカゴ学派の9人のノーベル経済学賞学者の顔触れとその研究内容を見ると、人類に不幸をもたらしただけのものであるという批判も成り立ちえます。現にノーベルの名称の使用に抗議する声がノーベル本家の中にもあるようで、近年、アマルティア・セン、ジョセフ・E・スティグリッツ、そしてポール・クルーグマンといったような学者が受賞していることは、このような批判をある程度反映したものであると見ることもできそうです。

倫理ある資本主義に戻すには

 ところで、今回の金融危機の発端となったサブプライムローンの特色を一言で表せば、「貸手責任がなくなった」ということに尽きると思います。

  本来、「金融」という言葉には、「金を融通する」という意味があります。そして「融通」とは、「溶かして通りをよくする」ということです。つまり、偏在しているカネを溶かして、カネに不足しているモノの生産者たちに、カネが流れていくような状態を作り出すことが「金融」という言葉が本来持っていた意味なのです。この言葉の背後には、カネは社会的に必要なものを作り出すために使用されるべきであるという含意が控えていることがわかるのではないでしょうか。そして、かつての銀行員は担当した企業が倒産しないように支え、長期的にその企業が成長を遂げるお手伝いをすることに職業上の誇りを持っていました。万一、貸したお金の返済が滞る懸念が発生した場合には、市場分析を行い、業績好転のための提言を行うなど、必死に梃子入れをする形で、融資金の元利返済を受ける権利を全うできるように努めていました。

 ところが、サブプライムローンに象徴される金融形態においては、証券化という手法が前面に押し出されることになり、信用度の異なる様々な債権から組成された証券が作成され、それが第三者に転売されました。こうなると貸手としての責任もどこかに消えてしまいます。しかもその過程では、S&Pやムーディーズといった格付会社による格付評価や、AIGのような保険会社による保証などによって、リスクが覆い隠されてしまっていたのです。

 このような流れの中心に位置していた新自由主義的な金融の専門家たちは、口では市場の合理性を唱えながら、実際に自分たちが扱うデリバティブ(金融派生商品)についてはマーケットを通さず言い値で売買していたのです。金融工学の専門家たちが計算した価格をありがたく頂戴していたわけですが、実はそれが偽物であったことをわれわれは思い知らされたのです。

 かつてマックス・ウェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で強調したように、資本主義は単なる金儲けという動機のみによって成り立っているものではなく、禁欲的で勤勉な職業意識に支えられてきたはずです。それを踏みにじり、誤った方向に導いたのが1980年代から主流に躍り出た「最先端」の金融論です。

無名のオバマがなぜ大統領に就任できたのか


 それでは、この倫理なき資本主義をいかにすれば健全な姿に戻すことができるのでしょうか。それが本日の講演の最大のテーマでもありますが、1月に誕生したオバマ政権は一向に手を打ってはくれません。今回の金融危機の元凶ともいうべき投資銀行にメスを入れることなく、また証券化という問題に対して歯止めをかける気配すらありません。また、影響力が強いにもかかわらず、活動の実態に関する情報開示がなされていない投資ファンドに対する規制強化についても事態は何も進展していません。

 オバマ大統領は、実際に会ってみれば一度に心を奪われてしまうような魅力的な人物であるのかもしれません。けれども、彼は上院議員の最初の一期目で、しかも任期の4年を務め上げることなく、2年で辞めている人物です。議員として一期もまともに務め終えていない無名の人物が大統領に納まっているなどということは、世界でも例がないことです。

 こうした異例の大統領が誕生した背景にロバート・ルービンが控えていたことは間違いなさそうです。ルービンといえば、ゴールドマン・サックス(以下GSと表記)会長を務めた後、クリントン政権では財務長官に就任した人物です。また、続くブッシュ政権下で今回の金融危機が発生した時の財務長官も、やはりGSの会長を務めたヘンリー・ポールソンでした。つまり、金融界の大御所が金融を取り締まるべき財務長官に就任しているのです。このような異常な人事が常態化していることに対して、われわれは批判的に臨まなければなりません。

  そして、2006年4月5日、民主党系シンクタンクのブルッキングス研究所でハミルトン・プロジェクト構想が発表されるセレモニーにおいて、上院議員一期目のオバマが先頭を切って招待演説をおこなったのです。この時点で、民主党のルービン派は、オバマを次期大統領候補者に押し上げようとの決意を固めていたと推測しても、それほど間違ってはいないと思われます。世界最大の大富豪ウォーレン・バフェットが、「私の目が黒いうちにオバマが大統領になれば、人生最高の幸せ」と発言していたという事実は、この推測を裏付ける有力な状況証拠です。私はこのバフェットの発言を知って、やはり何かあるなと確信したことを覚えています。

  要するに、アメリカの金融界を取り仕切る面々にとっては、すでに2006年4月の時点において、このまま手を打たなければ、自分たちが推し進めてきた金融資本主義が潰れてしまうという懸念・確信が深まっていたのであり、自分たちの自由で好き勝手な行動が圧殺されてしまうことを恐れていたのではないでしょうか。