野崎日記(34) 新しい金融秩序への期待(34) ついに買い手がいなくなった米国債―米国発金融恐慌の行き着く先(10)
注
(13) クーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)は、 一八六七年、アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。その後、クーン家の娘イーダ(Ida Kuhn)とレーブ家のモリス(Morris Loeb)が結婚して一族となっている。 その娘であるテレサ(Teresa Loeb)と結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)(14)である。 ジェイコブ・ヘンリー・シフはドイツ・フランクフルトのゲットーでロスチャイルド家(Rothschild)と共に住んでいた歴史をもつ。また、日本政府が日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をロンドンで販売した際、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海(Caspian Sea)のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否、その代わりロスチャイルド家と行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介され、その力で日本は、戦費を調達できた。
一九世紀末から二〇世紀にかけてジェイコブ・シフの下でJ・P・モルガン(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。一八七〇年代以降、クーン=レーブ商会は、成長産業と目されていた、当時の鉄道事業に積極的に投資。一八七七年のシカゴ・ノースウェスタン鉄道への資金調達を皮切りに、一八八一年にはペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)、シカゴ・ミルウォーキー・セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道への資金調達をおこなった。シフは、一八九七年にユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)の事業再建の資金調達を支援した。一九〇一年のモルガン財閥とのノーザン・パシフィック鉄道の買収攻勢防戦劇は当時の大きな話題となった。鉄道債の取引で米国では第二位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が一九二〇年のシフの死後も続いた。また、ウェスティングハウス(Westinghouse Electric Corporation )、ウェスタン・ユニオン(Western Union)、ポラロイド(Polaroid Corporation)など、米国の新興企業と密接な関わりをもち、長期の財政的な後ろ盾となった。またオーストリア、フィンランド、メキシコ、ベネズエラなど一部の外国政府の財政アドバイザーも務めた。ジョン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr)へのメインバンク・財政アドバイザーとしても有名で、国内の主要産業への投資のみならず、クーン・レーブは、中華民国や大日本帝国などの公債引き受け等にも参画していた。1911年にはクーン・ローブはロックフェラーと共同で、後にチェース銀行(the Chase Manhattan Bank)と合併するエクイタブル・トラスト社を買収した。
一時はモルガン財閥と並立する存在になったが、第二次世界大戦後、資金調達の方法が銀行家同士のやりとりから、ウォール街などでの証券市場での取引が中心となって、クーン・レーブの勢いに翳りが見え始め、一九七七年にリーマン・ブラザーズに統合されて、クーン・レーブ・リーマンになり、一九八四年にアメリカン・エキスプレスに買収され、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス(Shearson Lehman American Express)に改名された際、クーン・ローブの名は消えることとなった(
Wikipediaおよび、 http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
(14) ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847~1920)は、ドイツ生まれ。ドイツ名は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいたことが確認できる。
一八六五年、一八歳で渡米し、いくつかの銀行を転々とした後、レーブ家の親族となる。当時「西半球で最も影響力のある二つの国際銀行家の一つ」と謳われたクーン・レーブの頭取に就任。シフはユダヤ人社会への強い絆を感じ続けた。ロシアでポグロム(反ユダヤ主義)に苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジの創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館にユダヤ区画を作った。
日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清による外債募集に応じ、二億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。その訳はロシアの伝統的なポグロムに対する報復だったと言われている。日本は、国家予算の六倍以上の戦費をつぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ戦勝。その戦費の約四割を調達したのがシフであった。
日露戦争のときの日本国家予算も外貨準備高も、ロシアの十分の一以下だった。
まさに巨人と小人の戦いだった。
アルゼンチンが発注して、イタリアのジェノアの造船所で建造中だった二隻の装甲巡洋艦を、日本は、日露戦争(一九〇四年二月八日開戦)の前年一二月三〇日に、アルゼンチンから一五〇万ポンド(商社口銭込み価格一五三万ポンド)で購入した。このとき、日本政府の外貨資金を扱う正金銀行ロンドン支店には一五万ポンドしかなかった。この年の日本国家予算が二億六〇〇〇万円、海軍省予算が二九〇〇万円、巡洋艦二隻一五三万ポンドは当時の日本円で一五〇〇万円以上。「春日」「日進」と命名されて軍艦旗を掲げて日本へ出向した。日露開戦の前年一二月には、日本銀行には一億六七九六万円しかなかった。開戦三か月後の翌五月には、六七四四万円にまで落ち込んだ。国債の売り込みに、一〇〇〇万ポンド調達の任務を帯びて高橋是清が米英を走り回ったが、引き受け手は誰も無かった。日英条約締結(二年前)していたロンドンで、ようやく半分の五〇〇万ポンドの約束を取り付けた(英国銀行団)。締結の晩餐会に臨席したヤコブ・ヘンリー・シフが、残りの五〇〇万ポンドを引き受けてたのである。リーマン・ブラザースも、日露戦中に、シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。シフのこの時の滞日日記が出版されている(トケイヤー[2006])。
シフは天皇から直ちに、勲二等瑞宝章を授与された。その後、戦勝祝いにシフは、招かれ、陪食前に明治天皇から旭日大綬章を叙勲された(トケイヤー[2006]; 田畑則重[2005])。
シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにもかかわらず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。一九一七年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ二〇〇〇万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。同年にツァーリが倒れると、これで反ユダヤ主義が終息すると信じたシフはケレンスキー政権に対して期待を寄せたが、やがてケレンスキーやレーニンの考えていることが明らかになると、再び「彼らには何も貸すまいと決心するようになった」と言われる。
しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行、ユダヤ系のJPモルガンと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。
政治的・世俗的なシオニズムには反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学の設立をも援助した(Wikipediaより)。
注
(13) クーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)は、 一八六七年、アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。その後、クーン家の娘イーダ(Ida Kuhn)とレーブ家のモリス(Morris Loeb)が結婚して一族となっている。 その娘であるテレサ(Teresa Loeb)と結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)(14)である。 ジェイコブ・ヘンリー・シフはドイツ・フランクフルトのゲットーでロスチャイルド家(Rothschild)と共に住んでいた歴史をもつ。また、日本政府が日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をロンドンで販売した際、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海(Caspian Sea)のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否、その代わりロスチャイルド家と行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介され、その力で日本は、戦費を調達できた。
一九世紀末から二〇世紀にかけてジェイコブ・シフの下でJ・P・モルガン(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。一八七〇年代以降、クーン=レーブ商会は、成長産業と目されていた、当時の鉄道事業に積極的に投資。一八七七年のシカゴ・ノースウェスタン鉄道への資金調達を皮切りに、一八八一年にはペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)、シカゴ・ミルウォーキー・セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道への資金調達をおこなった。シフは、一八九七年にユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)の事業再建の資金調達を支援した。一九〇一年のモルガン財閥とのノーザン・パシフィック鉄道の買収攻勢防戦劇は当時の大きな話題となった。鉄道債の取引で米国では第二位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が一九二〇年のシフの死後も続いた。また、ウェスティングハウス(Westinghouse Electric Corporation )、ウェスタン・ユニオン(Western Union)、ポラロイド(Polaroid Corporation)など、米国の新興企業と密接な関わりをもち、長期の財政的な後ろ盾となった。またオーストリア、フィンランド、メキシコ、ベネズエラなど一部の外国政府の財政アドバイザーも務めた。ジョン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr)へのメインバンク・財政アドバイザーとしても有名で、国内の主要産業への投資のみならず、クーン・レーブは、中華民国や大日本帝国などの公債引き受け等にも参画していた。1911年にはクーン・ローブはロックフェラーと共同で、後にチェース銀行(the Chase Manhattan Bank)と合併するエクイタブル・トラスト社を買収した。
一時はモルガン財閥と並立する存在になったが、第二次世界大戦後、資金調達の方法が銀行家同士のやりとりから、ウォール街などでの証券市場での取引が中心となって、クーン・レーブの勢いに翳りが見え始め、一九七七年にリーマン・ブラザーズに統合されて、クーン・レーブ・リーマンになり、一九八四年にアメリカン・エキスプレスに買収され、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス(Shearson Lehman American Express)に改名された際、クーン・ローブの名は消えることとなった(
Wikipediaおよび、 http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
(14) ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847~1920)は、ドイツ生まれ。ドイツ名は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいたことが確認できる。
一八六五年、一八歳で渡米し、いくつかの銀行を転々とした後、レーブ家の親族となる。当時「西半球で最も影響力のある二つの国際銀行家の一つ」と謳われたクーン・レーブの頭取に就任。シフはユダヤ人社会への強い絆を感じ続けた。ロシアでポグロム(反ユダヤ主義)に苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジの創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館にユダヤ区画を作った。
日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清による外債募集に応じ、二億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。その訳はロシアの伝統的なポグロムに対する報復だったと言われている。日本は、国家予算の六倍以上の戦費をつぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ戦勝。その戦費の約四割を調達したのがシフであった。
日露戦争のときの日本国家予算も外貨準備高も、ロシアの十分の一以下だった。
まさに巨人と小人の戦いだった。
アルゼンチンが発注して、イタリアのジェノアの造船所で建造中だった二隻の装甲巡洋艦を、日本は、日露戦争(一九〇四年二月八日開戦)の前年一二月三〇日に、アルゼンチンから一五〇万ポンド(商社口銭込み価格一五三万ポンド)で購入した。このとき、日本政府の外貨資金を扱う正金銀行ロンドン支店には一五万ポンドしかなかった。この年の日本国家予算が二億六〇〇〇万円、海軍省予算が二九〇〇万円、巡洋艦二隻一五三万ポンドは当時の日本円で一五〇〇万円以上。「春日」「日進」と命名されて軍艦旗を掲げて日本へ出向した。日露開戦の前年一二月には、日本銀行には一億六七九六万円しかなかった。開戦三か月後の翌五月には、六七四四万円にまで落ち込んだ。国債の売り込みに、一〇〇〇万ポンド調達の任務を帯びて高橋是清が米英を走り回ったが、引き受け手は誰も無かった。日英条約締結(二年前)していたロンドンで、ようやく半分の五〇〇万ポンドの約束を取り付けた(英国銀行団)。締結の晩餐会に臨席したヤコブ・ヘンリー・シフが、残りの五〇〇万ポンドを引き受けてたのである。リーマン・ブラザースも、日露戦中に、シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。シフのこの時の滞日日記が出版されている(トケイヤー[2006])。
シフは天皇から直ちに、勲二等瑞宝章を授与された。その後、戦勝祝いにシフは、招かれ、陪食前に明治天皇から旭日大綬章を叙勲された(トケイヤー[2006]; 田畑則重[2005])。
シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにもかかわらず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。一九一七年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ二〇〇〇万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。同年にツァーリが倒れると、これで反ユダヤ主義が終息すると信じたシフはケレンスキー政権に対して期待を寄せたが、やがてケレンスキーやレーニンの考えていることが明らかになると、再び「彼らには何も貸すまいと決心するようになった」と言われる。
しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行、ユダヤ系のJPモルガンと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。
政治的・世俗的なシオニズムには反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学の設立をも援助した(Wikipediaより)。