野崎日記(33) 新しい金融秩序への期待(33) ついに買い手がいなくなった米国債―米国発金融恐慌の行き着く先(9)
注
(8) Freddie Mac。正式名称は、FHLMC(Federal Home Loan Mortgage Corporation)。ファニーメイがモーゲージ市場で十分にカバーできなかった部分に資金供給するために一九七〇年に設立された。ファニーメイもフレディマックも、連邦議会によって設立され、住宅都市開発庁(HUD=Department of Urban and Housing Development)と連邦住宅公社監督局の(OFHEO=Office of Federal Housing Enterprise Oversight)という二つの監督官庁の管理下にある。定款は連邦議会の承認を必要とする点で純然たる民間会社ではない。監督を受けているにもかかわらず、政府からの出資を受けていなかった。ニューヨーク証券取引所に上場している。発行証券は政府債に次ぐ信用を得ている(http://www.nomura.co.jp/terms/english/f/fhlmc.html)。住宅関連の政府金融機関として、ジニーメイ(Ginnie Mae)がある。正式名称は連邦政府抵当金庫(GNMA=Government National Mortgage Association)。住宅都市開発庁の下で、全額政府出資で設立された金融機関。ジニーメーは、債権を保有せず、モーゲージ証券を組成しているローンの債務者が元利金支払いを滞納した場合に、元利金の支払いを保証する役割を担う(http://www.nomura.co.jp/terms/english/g/gnma.html)。
(9) 債権を直接移転することなく、信用リスクのみを移転するデリバティブ(本体に関連するが本体そのものではないもの)取引がCDS取引である。CDS取引ではプロテクションを売買する。保有債権の信用リスクを回避したい場合、CDS取引ではプロテクションを買う。プロテクションの買い手は、プロテクションの売り手に対して対価を払う。これをプレミアムという。プレミアムは通例四半期ごとに支払い、契約元本金額の年率で値決めする。通例、年率一二bp(ベーシスポイント)である。ベーシスポイントとは一〇〇分の一%の大きさである。
(10) ベアスターンズ(Bear Stearns)救済策とは、次のようなものであった。米商業銀行大手のJPモルガン・チェース(JP Morgan Chase)が公定歩合の利率で、連銀から借り入れ、その資金を二八日間の期限付きでベアーに迂回融資する。JPモルガンが仲介するのは、証券会社が公定歩合を直接利用できないためであった。ベアーはサブプライム関連の金融商品で巨額損失を計上。金融市場で貸し渋りの動きが強まり、資金繰りが急激に悪化した。また、融資先の投資ファンド会社の経営破綻観測で信用不安に拍車がかかった。シュワルツ(Alan Schwartz)最高経営責任者(CEO)は二〇〇八年三月一四日の電話会見で「一三日に大量の資金流出があった」と述べ、取り付け騒ぎが起きたことを明らかにした。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)によると、三月一四日早朝、NY連銀(the Federal Reserve Bank of New York)のガイトナー総裁(President, Timothy F. Geithner)、バーナンキ(Ben Shalom Bernanke, 1953~)FRB議長(Chairman)、ポールソン(Henry Merritt Paulson, 1946~)財務長官が緊急電話会議を開催。同社に対する異例の救済策を決定し、財務長官がブッシュ大統領に報告したという(http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/080315/fnc0803152042008-n1.htm)。
(11) MMF(マネー・マーケット・ファンド、Money Market Fund)とは、公社債などの優良債券を中心に投資する投資信託の一種。政府発行の短期証券などに投資して、元本の安全を確保しながら安定した利回りを得られるような運用をおpこない、即日の購入・解約が可能となっている。一九七一年、それまで銀行の預金しか利用してこなかった客を証券会社に呼び寄せるべく、米国のブルース・ベント(Bruce Bent)、ハリー・ブラウン(Harry Brown)の二人が設立した「ザ・リザーブ」(the Reserve)がその創始である。従来、公社債などの債券は購入単位が大きく、小口の個人投資家には手が出せない商品であったが、このような投資信託が生まれたことでそれらへの間接投資が可能になった。一九七三年のオイルショックでインフレーションが起こり、銀行預金の実質的価値が目減りしたことや、CMA(証券総合口座、Cash Management Account、)の設定により、MMFで運用した資金をそのまま株式などの購入に当てられるようになったこと、小切手の振出しができ当座預金の機能を有するようになったことも、MMFへの大量資金流入の要因となった。銀行側ではこの動きに応じ、それまで規制がかけられていた預金利率の撤廃を一九八〇年代に実現させ、MMC(市場金利連動型預金、Money Market Certificate)を作って対抗した(Wikipediaより)。
(12) ドイツからの移民、ヘンリー・リーマン(Henry Lehman)が、一八四四年、アラバマ州(Alabama)モンゴメリー(Montgomery)市に小さな雑貨店(general store)を開く。六年後の一八五〇年、二人の兄弟、エマヌエル(Emanuel)、マイヤー(Mayer) が経営に加わり、商店の名前もリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)に変えた。
当時、米国の南部では、棉花が通貨として流通していた。レーマン商店も、農夫に商品を棉花対価に売っていた。そして、次第に棉花取引に彼らは傾斜していった。一八五八年、当時、商品取引の中心地であったニューヨークに事務所を構えた。南北戦争によって、彼らのビジネスが中断したが、終戦後、彼らは本拠をニューヨークに移した。そこで、「棉花取引所」(the Cotton Exchange)設立に寄与した。
南北戦争後は、一大鉄道建設ブームが到来した。後にリーマンのビジネス・パートナーになるクーン・レーブ(Kuhn Loeb)(13)が鉄道債の引き受けをおこなっていた。
リーマンも鉄道債の取引に乗り出した。一九世紀後半には、マーチャント・バンクに衣替えしていた。一八八七年、ニューヨーク証券取引所に上場。クーン・レーブのジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に促されて、リーマンもヨーロッパと日本での投資銀行業務にも乗り出した。二〇世紀に入るや、シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Company)、ウールワース(F.W. Woolworth Company)、メイ・デパート(May Department Stores Company)、ジンベル(Gimbel Brothers, Inc.)、マシィ(R.H. Macy & Company)などの新興企業の社債を積極的に引き受けるようになる。一九二〇年代には映画、小売り、航空、等々の分野を積極的に支援。RKO、パラマウント(Paramount)、二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、等々の映画会社を育てた。
一九二九年投資会社、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立して、優良銘柄株(ブルー・チップ)を個人投資家に積極的に勧める業務に傾斜し、恐慌を乗り切った。一九三〇年代はラジオに傾斜。米国初のテレビ受像器制作会社のデュモン(DuMon)の株式公開、RCA(the Radio Corporation of America)を支援した。三〇年代は資源採掘会社を支援、顧客にはハリバートン(Halliburton)、ケール・マッギー(Kerr-McGee)がいた。第二次大戦後は、一大消費ブームと自動車ブームに乗る。一九五〇年代にはエレクトロニクス産業を育てる。コンピュータのデジタル・エクィップメント(Digital Equipment)を育て、コンパック(Compaq)に買収させる。さらに、フォード(Ford Motor Company)、TWA、アメリカン航空(American Airlines)、コンチネンタル航空(Continental Airlines)の株式を上場させる。ジェネラル・フーズ(General Foods)、フィリップ・モリス(Philip Morris)も有力な顧客であった。
顧客の海外進出に応じるべく、一九六〇年、パリに支店開設。一九六九年、ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン一族が関わらなくなった。一九七二年ロンドン支店、七三年東京支店開設。
一九七七年CEO、のピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下でクーン・レーブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers Kuhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を一九八三年五月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の一九八四年に、三・六億ドルでアメリカン・エクスプレス(Ameican Express)に買収されてしまう。名称も、シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman American Express)になる。名門中の名門であるクーン・レーブ商会の名がここに消えた。そして一九八八年、この会社とE・F・ハットン(Hutton)が合併して シェアソン・リーマン・ハットン(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、一九九三年、アメックスが手放し、再度、リーマン単独の名前に復帰する。
一九九四年テルアビブ(Tel Aviv)支店開設。一九九五年、年間最優秀社債取り扱い機関として称揚される("Global Bond House of the Year" by International Finance Review)。
一九九九年、三菱東京銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi )と提携。この年、年間収益が一〇億ドルを超す。二〇〇〇年創業一五〇周年。二〇〇二年KKRのために、ヨーロッパ史上で最大のM&Aを実現させる。二〇〇二年リンカーン・キャピタル(Lincoln Capital Management)買収。二〇〇三年ノピベルガー・ベルマン(Neuberger Berman)、クロスロード・グループ(the Crossroads Group)買収。シンギュラー・ワイアレス(Cingular Wireless)によるAT&Tワイアレス(AT&T Wireless Services)買収、スプリント(Sprint)によるネクステル・コミュニケーション(Nextel Communications)買収に関与。二〇〇五年同社史上最高の収益を達成。それとともに、スタンダード&プアーズ社(Standard & Poor's)が長期シニア社債をAからAプラスに引き上げた。資産も史上最高の一七五〇億ドルになった。『ユーロマネー』(Euromoney)が二〇〇五年の「最高の投資銀行」(Best Investment Bank)の 栄誉を同社に与えた(2005 Awards for Excellence)。二〇〇六年も最高益であった。株式取扱高でロンドンで第一位になった。二〇〇七年、『フォーチュン』誌によって、「賞賛される最高の証券会社」として誉められる(#1 "Most Admired Securities Firm" by Fortune)(本社ホームページ、および、http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
数々の褒賞、空前の高収益、最優秀の投資銀行が線香花火のごとく消え去った。公表される統計のいい加減さ、第三者評価の頼りなさをリーマン・ブラザーズの倒産劇は遺憾なく現している。
注
(8) Freddie Mac。正式名称は、FHLMC(Federal Home Loan Mortgage Corporation)。ファニーメイがモーゲージ市場で十分にカバーできなかった部分に資金供給するために一九七〇年に設立された。ファニーメイもフレディマックも、連邦議会によって設立され、住宅都市開発庁(HUD=Department of Urban and Housing Development)と連邦住宅公社監督局の(OFHEO=Office of Federal Housing Enterprise Oversight)という二つの監督官庁の管理下にある。定款は連邦議会の承認を必要とする点で純然たる民間会社ではない。監督を受けているにもかかわらず、政府からの出資を受けていなかった。ニューヨーク証券取引所に上場している。発行証券は政府債に次ぐ信用を得ている(http://www.nomura.co.jp/terms/english/f/fhlmc.html)。住宅関連の政府金融機関として、ジニーメイ(Ginnie Mae)がある。正式名称は連邦政府抵当金庫(GNMA=Government National Mortgage Association)。住宅都市開発庁の下で、全額政府出資で設立された金融機関。ジニーメーは、債権を保有せず、モーゲージ証券を組成しているローンの債務者が元利金支払いを滞納した場合に、元利金の支払いを保証する役割を担う(http://www.nomura.co.jp/terms/english/g/gnma.html)。
(9) 債権を直接移転することなく、信用リスクのみを移転するデリバティブ(本体に関連するが本体そのものではないもの)取引がCDS取引である。CDS取引ではプロテクションを売買する。保有債権の信用リスクを回避したい場合、CDS取引ではプロテクションを買う。プロテクションの買い手は、プロテクションの売り手に対して対価を払う。これをプレミアムという。プレミアムは通例四半期ごとに支払い、契約元本金額の年率で値決めする。通例、年率一二bp(ベーシスポイント)である。ベーシスポイントとは一〇〇分の一%の大きさである。
(10) ベアスターンズ(Bear Stearns)救済策とは、次のようなものであった。米商業銀行大手のJPモルガン・チェース(JP Morgan Chase)が公定歩合の利率で、連銀から借り入れ、その資金を二八日間の期限付きでベアーに迂回融資する。JPモルガンが仲介するのは、証券会社が公定歩合を直接利用できないためであった。ベアーはサブプライム関連の金融商品で巨額損失を計上。金融市場で貸し渋りの動きが強まり、資金繰りが急激に悪化した。また、融資先の投資ファンド会社の経営破綻観測で信用不安に拍車がかかった。シュワルツ(Alan Schwartz)最高経営責任者(CEO)は二〇〇八年三月一四日の電話会見で「一三日に大量の資金流出があった」と述べ、取り付け騒ぎが起きたことを明らかにした。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)によると、三月一四日早朝、NY連銀(the Federal Reserve Bank of New York)のガイトナー総裁(President, Timothy F. Geithner)、バーナンキ(Ben Shalom Bernanke, 1953~)FRB議長(Chairman)、ポールソン(Henry Merritt Paulson, 1946~)財務長官が緊急電話会議を開催。同社に対する異例の救済策を決定し、財務長官がブッシュ大統領に報告したという(http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/080315/fnc0803152042008-n1.htm)。
(11) MMF(マネー・マーケット・ファンド、Money Market Fund)とは、公社債などの優良債券を中心に投資する投資信託の一種。政府発行の短期証券などに投資して、元本の安全を確保しながら安定した利回りを得られるような運用をおpこない、即日の購入・解約が可能となっている。一九七一年、それまで銀行の預金しか利用してこなかった客を証券会社に呼び寄せるべく、米国のブルース・ベント(Bruce Bent)、ハリー・ブラウン(Harry Brown)の二人が設立した「ザ・リザーブ」(the Reserve)がその創始である。従来、公社債などの債券は購入単位が大きく、小口の個人投資家には手が出せない商品であったが、このような投資信託が生まれたことでそれらへの間接投資が可能になった。一九七三年のオイルショックでインフレーションが起こり、銀行預金の実質的価値が目減りしたことや、CMA(証券総合口座、Cash Management Account、)の設定により、MMFで運用した資金をそのまま株式などの購入に当てられるようになったこと、小切手の振出しができ当座預金の機能を有するようになったことも、MMFへの大量資金流入の要因となった。銀行側ではこの動きに応じ、それまで規制がかけられていた預金利率の撤廃を一九八〇年代に実現させ、MMC(市場金利連動型預金、Money Market Certificate)を作って対抗した(Wikipediaより)。
(12) ドイツからの移民、ヘンリー・リーマン(Henry Lehman)が、一八四四年、アラバマ州(Alabama)モンゴメリー(Montgomery)市に小さな雑貨店(general store)を開く。六年後の一八五〇年、二人の兄弟、エマヌエル(Emanuel)、マイヤー(Mayer) が経営に加わり、商店の名前もリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)に変えた。
当時、米国の南部では、棉花が通貨として流通していた。レーマン商店も、農夫に商品を棉花対価に売っていた。そして、次第に棉花取引に彼らは傾斜していった。一八五八年、当時、商品取引の中心地であったニューヨークに事務所を構えた。南北戦争によって、彼らのビジネスが中断したが、終戦後、彼らは本拠をニューヨークに移した。そこで、「棉花取引所」(the Cotton Exchange)設立に寄与した。
南北戦争後は、一大鉄道建設ブームが到来した。後にリーマンのビジネス・パートナーになるクーン・レーブ(Kuhn Loeb)(13)が鉄道債の引き受けをおこなっていた。
リーマンも鉄道債の取引に乗り出した。一九世紀後半には、マーチャント・バンクに衣替えしていた。一八八七年、ニューヨーク証券取引所に上場。クーン・レーブのジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に促されて、リーマンもヨーロッパと日本での投資銀行業務にも乗り出した。二〇世紀に入るや、シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Company)、ウールワース(F.W. Woolworth Company)、メイ・デパート(May Department Stores Company)、ジンベル(Gimbel Brothers, Inc.)、マシィ(R.H. Macy & Company)などの新興企業の社債を積極的に引き受けるようになる。一九二〇年代には映画、小売り、航空、等々の分野を積極的に支援。RKO、パラマウント(Paramount)、二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、等々の映画会社を育てた。
一九二九年投資会社、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立して、優良銘柄株(ブルー・チップ)を個人投資家に積極的に勧める業務に傾斜し、恐慌を乗り切った。一九三〇年代はラジオに傾斜。米国初のテレビ受像器制作会社のデュモン(DuMon)の株式公開、RCA(the Radio Corporation of America)を支援した。三〇年代は資源採掘会社を支援、顧客にはハリバートン(Halliburton)、ケール・マッギー(Kerr-McGee)がいた。第二次大戦後は、一大消費ブームと自動車ブームに乗る。一九五〇年代にはエレクトロニクス産業を育てる。コンピュータのデジタル・エクィップメント(Digital Equipment)を育て、コンパック(Compaq)に買収させる。さらに、フォード(Ford Motor Company)、TWA、アメリカン航空(American Airlines)、コンチネンタル航空(Continental Airlines)の株式を上場させる。ジェネラル・フーズ(General Foods)、フィリップ・モリス(Philip Morris)も有力な顧客であった。
顧客の海外進出に応じるべく、一九六〇年、パリに支店開設。一九六九年、ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン一族が関わらなくなった。一九七二年ロンドン支店、七三年東京支店開設。
一九七七年CEO、のピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下でクーン・レーブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers Kuhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を一九八三年五月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の一九八四年に、三・六億ドルでアメリカン・エクスプレス(Ameican Express)に買収されてしまう。名称も、シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman American Express)になる。名門中の名門であるクーン・レーブ商会の名がここに消えた。そして一九八八年、この会社とE・F・ハットン(Hutton)が合併して シェアソン・リーマン・ハットン(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、一九九三年、アメックスが手放し、再度、リーマン単独の名前に復帰する。
一九九四年テルアビブ(Tel Aviv)支店開設。一九九五年、年間最優秀社債取り扱い機関として称揚される("Global Bond House of the Year" by International Finance Review)。
一九九九年、三菱東京銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi )と提携。この年、年間収益が一〇億ドルを超す。二〇〇〇年創業一五〇周年。二〇〇二年KKRのために、ヨーロッパ史上で最大のM&Aを実現させる。二〇〇二年リンカーン・キャピタル(Lincoln Capital Management)買収。二〇〇三年ノピベルガー・ベルマン(Neuberger Berman)、クロスロード・グループ(the Crossroads Group)買収。シンギュラー・ワイアレス(Cingular Wireless)によるAT&Tワイアレス(AT&T Wireless Services)買収、スプリント(Sprint)によるネクステル・コミュニケーション(Nextel Communications)買収に関与。二〇〇五年同社史上最高の収益を達成。それとともに、スタンダード&プアーズ社(Standard & Poor's)が長期シニア社債をAからAプラスに引き上げた。資産も史上最高の一七五〇億ドルになった。『ユーロマネー』(Euromoney)が二〇〇五年の「最高の投資銀行」(Best Investment Bank)の 栄誉を同社に与えた(2005 Awards for Excellence)。二〇〇六年も最高益であった。株式取扱高でロンドンで第一位になった。二〇〇七年、『フォーチュン』誌によって、「賞賛される最高の証券会社」として誉められる(#1 "Most Admired Securities Firm" by Fortune)(本社ホームページ、および、http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
数々の褒賞、空前の高収益、最優秀の投資銀行が線香花火のごとく消え去った。公表される統計のいい加減さ、第三者評価の頼りなさをリーマン・ブラザーズの倒産劇は遺憾なく現している。