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ヤマハ初のオートバイモデル、YA-1とヤマハの歴史。(番外編vol.3740)

2023-10-07 15:05:08 | 日記

日本のオートバイ産業は基本、第二次世界大戦(終戦時が1945年)の後に起こったものだったので、世界中で見るとかなり後発なものだったりします。

なんせ世界の市場や開発レベルで見ると、初めてオートバイを製造したイギリスの「ロイヤルエンフィールド」社は、1901年創業なので第一次世界大戦

(1914年〜1918年)より10年以上前からという事になりますからね(笑)。そんな背景を知りつつ、今日は国産メーカー、ついでは世界No.2に長く

君臨し続けてる「ヤマハ」について考察していきたいと思いますので、よろしくお願いします(笑)。まずこの「ヤマハ」と言うメーカーですが、そもそも

はピアノを主軸とした複数からなる「楽器」を製造するメーカーで、母体となる会社自体は戦前からありました。しかし第二次世界大戦が起こった事で、

本来の「楽器」製造を中止し、海軍からの命令により軍用のプロペラを製造する会社へと移行します。またその会社は現在の静岡県浜松市にあり、工業

生産都市だった事もあり空襲で工場のほとんどが消失してしまいます。そこから終戦を迎え一旦はアメリカのGHQに、焼け残った工作機器を没収されて

しまいますが、1953年に返還され、あらためて「楽器製造」に乗り出します。またこの頃、社長を務めていた「川上源一」さんの意向でほぼ同時期に

「オートバイ開発にも乗り出す」ことになります。その「動機」に関しては定かではありませんが、おそらく当時の浜松市は100社近くのオートバイメーカー

があり「自然と関心が持てたからじゃないか?」ってボクは勝手に思っています(笑)。ただ「ヤマハ」がオートバイ業界に乗り出した1953年時点では、

既にある程度、それらのメーカー企業自体が淘汰(とうた)され始めており、その数は減少傾向だった事、また後追いだったが故に「最初から豊富な技術」

を情報として得ることが出来てた事、更には「楽器メーカー」として、それなりに「ヤマハ」自体が大企業だったので、かなりアドバンテージになったの

では?と解釈できそうです。そこから2年後の1955年にヤマハ初のオートバイとして登場したのが「YA-1」と言うモデルでした。「ヤマハ」は広報を含め、

早々この初号機となる「YA-1」で「第3回富士登山レース」に参戦し、初にして優勝を飾ることになります。またこの時に付けられた愛称として「赤とんぼ」

と言う言われ方が浸透し、爆発的な売り上げを上げることになります。ちなみにこの「YA-1」のスペックを見てみますと、エンジンは空冷式2スト単気筒

リードバルブで、排気量が123cc、最高出力は5.6psで、最大トルクが0.96kg、車重は94kgで、当時の新車価格が138.000円でした。この時代の大卒

初任給が平均で1万円ほどだったので、かなり高額なものだったのですが、販売された3年間で累計1万1千台売れたとされています。いやぁ、凄いヒット商品

ですよね(笑)。で、その後「ヤマハ」は1972年に「ヤマハ発動機」と言う会社を立ち上げ「楽器」を製造する部門と分割を行います。また「ヤマハ発動機」

の大きな特徴には「2ストエンジンに強い」と言う部分があり、実際、その後(排気ガス規制以前)も多くの2ストエンジンからなる名車を作り上げていく

事になります。さて、今日はそんな国産メーカーで世界シェアーNo.2を維持し続けてる「ヤマハ」と初号機となる「YA-1」について考察してみましたが、

いかがだったでしょう!(笑)






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