大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「名こそ惜しけれ」

2016-02-16 09:27:20 | 日記
先日(2月14日)NHKスペシャルで「司馬遼太郎思索紀行『この国のかたち:第2集:“武士”700年の遺産』」という番組がありました。NHKのホームページでの番組紹介は次のものです。
日本、そして日本人とは何か?作家・司馬遼太郎の作品『この国のかたち』を通して、現代の日本人へのメッセージを読み解くシリーズ。 第2回のテーマは、“武士”。司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神だった。それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった。それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか-?「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。グローバリズム礼賛の中で忘れ去られようとしている日本人独自のメンタリティに光を当てる。
・・・というものです。興味を持たれた方は、再放送だか、アーカイブだかでご覧ください。もっとも、この「紹介」の内容は、司馬遼太郎が言っていてこととはだいぶかけ離れている気がしますし、番組の内容自体ともちょっと違うように思えます。すでに「戦前」において「名こそ惜しけれ」が失われていったことに現代の問題がある、とされているのに、そこを素通りして「日本人独自のメンタリティ」の礼賛のようになっているのはちょっと違うのではないか、という感じがします。(「戦後レジームからの脱却」を目指す「NHK上層部」の意向の反映か?なんて思っちゃいます。)

・・・が、まぁそれはともかくとして、「名こそ惜しけれ」について。
司馬遼太郎が、この「名こそ惜しけれ」を尊いものとしてとらえているのはその通りだと思いますが、司馬は、「どのようにしてこの「名こそ惜しけれ」の精神が成立しえたのか」というところにこそ問題があるものとしています。そこに「鎌倉幕府」の日本の歴史上最大とも言うべき意義を強調しているわけです。それは、
「京都の律令制度を断ち切ることで、鎌倉の幕府は成立しました。『田を作る者が土地を所有する』という権利を勝ち取ったのです。」
ということであり、それはさらに
「「土地は耕した者のものだ、というのはリアリズムの基本です。それが確立すると、世の中は変わりました。」(1992.10.17講演「九州の東京志向の原形」)
としています。

この問題は、日本における土地所有制度、とくに明治維新後に確立した近代的土地所有権とその物理的外縁としての土地境界の問題に関するものとして(つまり私たちの業務領域に関するものとして)重要なところです。・・・が、今日の私が言いたいのは、それとは別の問題です。「土地は耕した者のものだ」ということを「リアリズムの基本」ととらえる、というところが重要だと思うのです。そして、その「リアリズム」の上にこそ、「名こそ惜しけれ」という精神規範も成立する、ということに結びついていきます。

さてそこで、私たち土地家屋調査士に、「名こそ惜しけれ」は成立しているのか?・・・ということが問題です。「田を作る者が土地を所有する」ように、自分たちが調査をし検討して結論をだしていることについて、自分たちが「所有」しているのか=責任を持つものとすることができているのか?・・・ということが問題になります。私たちの業務領域における「現実」を直視して、それに責任を持つべき、という基本姿勢としての「リアリズム」があるのか、という問題です。
具体的には(話のスケールが小さくなりますが)「93条調査報告書」は、この「リアリズム」を体現するものとしての意義を持つものだったはずです。しかし、それが十分に機能せず、最近の「様式改定」でも、かえってそこからかけ離れたものになってしまっているように思えます。
「田は、耕す者のものではなく、京都のお公家さんのものだ」としておいた方が、そして「京都のお公家さん」からの保護を受けていたほうが楽だからいいや、というような考えにとどまっていたのでは、「田を作る者が土地を所有する」ということは成立しませんし、その上に誇るべき精神も打ち立てられません。