大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「政治の機微」

2016-06-15 18:20:35 | 日記
舛添東京都知事が辞任しました。
舛添知事の行っていたことは低劣で許しがたいことですが、「勝ち馬に乗る」的な舛添バッシングにも「これでいいのか?」と思わされます。本当はもっと大事なことがあるのに、「舛添劇場」の三文芝居で、なんとなく満たされたような感じになってしまってはいけない、と思っています。
ですので、「舛添問題」に触れたくもないのですが、ひとつだけ気になったことがあったので、それについて書きます。

舛添都知事は、ホテル三日月で正月に会ったという「元新聞記者の出版会社社長」について、ついにその名を明かしませんでした。そのこと自体は、「そんな人はいないから」というのが理由だと思うので何ということのないことなのですが、名を明かさないことの「理由」として、舛添さんが挙げた「政治の機微にかかわる」という言い草が、どうにも気に障ります。
「政治の機微」って、何なんでしょう?

記者会見の時に初めて「政治の機微にかかわることなので」と言っていたときに私の受けた印象は、一種の常套句かな、というものでした。政治家には政治家にしかわからない世界があるのだから、その領域にはお前らは踏み込んでくるなよな、という感じの便利な逃げ口上なのだろうな、というものです。

都議会の総務委員会の時にも、同様に「政治の機微にかかわることなので」と言っていましたが、この時は同じく政治家である自民党議員への答弁だったので、だいぶ印象が違いました。これは「政治の機微」に関わることなので、これ以上突っ込んで下手に触ると大変なことになるぞ、というような、窮鼠猫を噛む的な威しの匂いも感じたわけです。

いずれにしても「政治の機微」なんていうことが言われるときには、「政治」というのが何やら秘密めいた高等なものであるかのようなほのめかしがあるように思えます。そこでは「数手先を読む」事が必要で、表だけではなく裏やさらにその裏も考えなければならず、複雑に絡み合う人脈をきちんとたどる特殊な能力が必要なんだ、というようなことが大いににおわされます。そういう特殊な「専門家」としての政治家のやることには、踏み込むべきではないんだ、というような驕りです。

このような政治家の驕りがあり、「国民」の側もそれを認めてしまって自分たちの目先の利害の追求のための手段としてしか「政治」を見ず、そのようなものとして「政治家」を取り扱う、という風潮があるわけで、その中で舛添さんも「政治の機微」を言っておけば何とか乗り切れるのではないか、と考えたのではないか、と思えます。

しかし、今回の「政治の機微」は、もう少しドラスティックに展開しました。「政治」は「国民の怒り」に火をつけるとともにそれに飲み込まれて行ってしまうものであることが明らかになりました。もちろん、この「国民の怒り」と言われるものの中には、もっと大事なことから目をそらされてしまうポピュリズムの危うさをも感じずにはいられませんが、そのような面をも含んで、もっと大きな意味で「政治の機微」があった、ということなのかと思います。
そして舛添さんは、それに気づかずにチマチマとしたテクニカルな「政治の機微」にしか目を向けていなかったので、足をすくわれることになってしまった、ということなのでしょう。ひとつの「教訓」になることではあります。

コメントを投稿