大分県を含む北部九州で大きな水害がありました(今も継続中です)。
今日テレビで、被災された朝倉市の方が「筑後川の水位を気にしていたら、裏の方から浸水してきた」ということを言っておられました。どのような方向から、どのような形で災害が来るのか予断を許さないところがある、ということを思い知らされます。被災された方にお見舞い申し上げるとともに、まずはより早い復旧を祈ります。
「境界」に関する「連載」を続けます。
これまで述べてきたことを一言でまとめてみると・・・・「原始筆界は存在しない」ということになります。
「原始筆界」といわれるものが「設定」された歴史的事実がないわけですから、そのようなものが存在する、と考えることはできないことになるわけです。
では、そのうえで次の疑問が出てくるのではないか、と思います。
「原始筆界」が存在しないのであれば「筆界」そのものも存在しない、ということになるのか?
という疑問です。
そうではなく、「原始筆界」ということとは関係なく「筆界」の存在を考える、ということが大事なのだと思います。
それは、二つの意味で言えることです。
一つは、歴史的な経過の問題です。「原始筆界」は存在しないのだとしても、分筆を行えば少なくともその分筆をした線は設定されることになります。また、耕地整理や区画整理が行われれば、「筆界」は再編成的に設定されることになります。また、分筆などの際に「原始的な所有権界」を確認して図面化などをして公示するようにしたものについては、「筆界の設定」がなされたものと同視しうる、ということになります。そして、そのような事例が積み重ねられていけば、個別具体的には「設定」や「確認」のなされていないものについても、同様の判断基準によって判断しうる、ということにもなっていきます。このような歴史的な事実の経過を経て、「筆界」というものが形成されてきた、と言えるでしょう。
もう一つは、「政策的判断」とも言うべきものです。「原始筆界」が具体的に存在する、ということ、すなわち「明治初年に国家が筆界を設定した」ということは、歴史的な事実としては存在はしないけれど、国民が土地に関する近代的な所有権を有することになっている以上、その元々の限界線というものがあると考えるしかない、ということになります。そのように考えたほうが物事がうまく回っていく、という功利主義的な考え方とも言えますが、「そうするしかない」というのが(少なくとも初期には)正直なところではないか、と思います。
このようなものとして、「筆界」に関する現実が形成されていきます。一方で、「筆界」というのが実際には「設定」されていないにもかかわらず「設定されて存在する」かのようにしておく、ということにされるとともに、他方においてその中で実際に「設定」された「筆界」も生まれてくるわけです。
この辺のことについて七戸教授は、「この世の中で真実に従っている部分は、実はほとんどないのであって、世の中の大半は、間違った認識に基づいて動いている。それゆえ、われわれは、何が真実か、という問題と、世の中がどう動いているのかという問題を分けて考えなければならない。」(「土地家屋調査士講義ノート」311)と言っていて、その気持ちはよくわかる気がするのですが、そもそも社会的な問題について「真実」なるものがあるのか、という問題がありますし、「瓢箪から駒」「嘘から出た実」ということもあります。いくら「嘘」だといったとしても、それが「実」だとして百年も続いていたら、それはもうすでに「真実」になっている、と言えるのでしょう。特に、後から正真正銘の現実が後を追いかけてきている場合には、そう言うしかないものになっている、ということになります。
そのようなものとして、「筆界」は実在するものとしてある(ようになっている)わけですので、次の問題は、それは具体的にどのようなものとしてあるのか?それはどのようなものとして実際の土地境界問題の解決に役立つのか?・・・という問題になります。次回以降の課題です。
今日テレビで、被災された朝倉市の方が「筑後川の水位を気にしていたら、裏の方から浸水してきた」ということを言っておられました。どのような方向から、どのような形で災害が来るのか予断を許さないところがある、ということを思い知らされます。被災された方にお見舞い申し上げるとともに、まずはより早い復旧を祈ります。
「境界」に関する「連載」を続けます。
これまで述べてきたことを一言でまとめてみると・・・・「原始筆界は存在しない」ということになります。
「原始筆界」といわれるものが「設定」された歴史的事実がないわけですから、そのようなものが存在する、と考えることはできないことになるわけです。
では、そのうえで次の疑問が出てくるのではないか、と思います。
「原始筆界」が存在しないのであれば「筆界」そのものも存在しない、ということになるのか?
という疑問です。
そうではなく、「原始筆界」ということとは関係なく「筆界」の存在を考える、ということが大事なのだと思います。
それは、二つの意味で言えることです。
一つは、歴史的な経過の問題です。「原始筆界」は存在しないのだとしても、分筆を行えば少なくともその分筆をした線は設定されることになります。また、耕地整理や区画整理が行われれば、「筆界」は再編成的に設定されることになります。また、分筆などの際に「原始的な所有権界」を確認して図面化などをして公示するようにしたものについては、「筆界の設定」がなされたものと同視しうる、ということになります。そして、そのような事例が積み重ねられていけば、個別具体的には「設定」や「確認」のなされていないものについても、同様の判断基準によって判断しうる、ということにもなっていきます。このような歴史的な事実の経過を経て、「筆界」というものが形成されてきた、と言えるでしょう。
もう一つは、「政策的判断」とも言うべきものです。「原始筆界」が具体的に存在する、ということ、すなわち「明治初年に国家が筆界を設定した」ということは、歴史的な事実としては存在はしないけれど、国民が土地に関する近代的な所有権を有することになっている以上、その元々の限界線というものがあると考えるしかない、ということになります。そのように考えたほうが物事がうまく回っていく、という功利主義的な考え方とも言えますが、「そうするしかない」というのが(少なくとも初期には)正直なところではないか、と思います。
このようなものとして、「筆界」に関する現実が形成されていきます。一方で、「筆界」というのが実際には「設定」されていないにもかかわらず「設定されて存在する」かのようにしておく、ということにされるとともに、他方においてその中で実際に「設定」された「筆界」も生まれてくるわけです。
この辺のことについて七戸教授は、「この世の中で真実に従っている部分は、実はほとんどないのであって、世の中の大半は、間違った認識に基づいて動いている。それゆえ、われわれは、何が真実か、という問題と、世の中がどう動いているのかという問題を分けて考えなければならない。」(「土地家屋調査士講義ノート」311)と言っていて、その気持ちはよくわかる気がするのですが、そもそも社会的な問題について「真実」なるものがあるのか、という問題がありますし、「瓢箪から駒」「嘘から出た実」ということもあります。いくら「嘘」だといったとしても、それが「実」だとして百年も続いていたら、それはもうすでに「真実」になっている、と言えるのでしょう。特に、後から正真正銘の現実が後を追いかけてきている場合には、そう言うしかないものになっている、ということになります。
そのようなものとして、「筆界」は実在するものとしてある(ようになっている)わけですので、次の問題は、それは具体的にどのようなものとしてあるのか?それはどのようなものとして実際の土地境界問題の解決に役立つのか?・・・という問題になります。次回以降の課題です。
想像以上のことが続いておりますので地域の方々の
ご心労が察せられます。学生も地域の現実に戸惑っている様子ですが,災害とは何かを知ってもらうため,授業で取り入れています。
原始筆界というものはない。私は学術畑ですが,正論だと思います。実務家の方で,論理的に説明される方をみて,大変うれしく思いました。前後の論理展開も真っ当だと思います。
※実学・実務家全体に周知するのは大変だと思いますが,個人的には応援させていただきます。原始筆界というのは,先人が提示した概念ですからね。概念が違うなら,構築しなおせばいい話です。再構築する過程で,今後の土地法制で何が重要か?そして,それを整理する中で調査士にとって何ができるのか?を整理することが,今後の会全体の武器になると思います。