先週、土地家屋調査士会の全国会長会議が行われた、ということです。私自身はもちろん出席していないのですが、資料類をみせてもらいました。
その中に「土地家屋調査士制度グランドデザイン(案)」というものがありましたので、それについて書きます。(これらの資料は全国の各会に送られているものですので、関心のある方は各会に問い合わせてみてください。)
この「グランドデザイン」については、この2年間ほど検討が行われてきたもの、ということです。その検討に当たった人たちはよく知っている人たちですし、優秀で真面目な人たちであることも知っているのですが、少なくともこの「案」としてまとめられたものを見る限りにおいては「土地家屋調査士制度のグランドデザイン」なるものを描こうとすること自体に無理があり、ただ「グランドデザインは描けない」ということを自白してしまっただけのもののように思えてしまいました。・・・内容を見て行ってみましょう。
冒頭で
しかし、この「生き残る」ということについては
しかし、そうなのでしょうか?それが出発点にある、ということがおかしいのだと思います。
目指すべきものは「土地家屋調査士が生き延びること」に置くべきなのではなく、「土地家屋調査士が社会的に有意義な存在としてあること」に置くべきです。もちろん、「社会的に有意義な存在としてあること」が実現できるのであれば「生き延びる」こともできることになるでしょうが、それは結果としてのことであり、「生き延びること」を目的として置く、というのは違うのです。
最近流行りの言葉で言うと「土地家屋調査士ファースト」の考え方、ということになるのでしょうが、それは、「既得権益保持であり、「土地家屋調査士エゴ」になってしまうのです。そして、そのように振舞っていると、社会的にはじきとばされてしまうことにもなります。
実際、「グランドデザイン」の内容を見ていると、その名称の意味する「壮大な」ものにはなっておらず、極めて手前味噌で我田引水的なものが目についてしまいます。
たとえば、「土地家屋調査士は、不動産に関するすべての情報を土地家屋調査士、明確化しうる唯一の国家資格者である」というようなことが言われていますが、その根拠は何でしょう?それこそ「合理的説明」が求められるのだと思いますが、論証なしの言いっぱなしです(単に筆が滑っただけなのかもしれませんが)。
一方で、土地家屋調査士の世界に広がる「不都合な真実」に目を向けながら、それらを正面から問題にし続けてしまうと身も蓋もないようなことになってしまうので途中でやめてしまって、「土地家屋調査士の強みは、測量能力を生かした調査と法律判断である」などという、全く実証されない言い古された自画自賛で集約してしまっているのは、いささか残念です。
自分たちが生き残ることを目的にして「グランドデザイン」を描こうとする、という発想法そのものを改めないと、本当の意味での壮大な設計はできないのだと、つくづく思いました。
その中に「土地家屋調査士制度グランドデザイン(案)」というものがありましたので、それについて書きます。(これらの資料は全国の各会に送られているものですので、関心のある方は各会に問い合わせてみてください。)
この「グランドデザイン」については、この2年間ほど検討が行われてきたもの、ということです。その検討に当たった人たちはよく知っている人たちですし、優秀で真面目な人たちであることも知っているのですが、少なくともこの「案」としてまとめられたものを見る限りにおいては「土地家屋調査士制度のグランドデザイン」なるものを描こうとすること自体に無理があり、ただ「グランドデザインは描けない」ということを自白してしまっただけのもののように思えてしまいました。・・・内容を見て行ってみましょう。
冒頭で
「地籍制度全体が検討されている時代に、登記制度を基盤にした土地家屋調査士制度だけが変わらないでいられるはずがない。」
と言われています。問題の立て方がちょっとおかしいような気もするのですが、それはさておき、確かに「変わらないでいられるはずがない」というのは確かだと思います。「グローバリゼーションが進む中で生き残るためには、なぜ日本には土地家屋調査士が必要かを説明する必要がある。その説明が合理的でなければ、今のままの土地家屋調査士は生き残ることができないであろう」
とも言われています。「グローバリゼーション」が根本的な理由のように言われるのはちょっと違うように思いますが、「なぜ日本には土地家屋調査士が必要か」を明らかにする必要がある、というのは確かにその通りなのだと思います。そうでなければ「生き残ることができない」というのもその通りです。しかし、この「生き残る」ということについては
「日本土地家屋調査士会連合会としては、どんな時代になっても、専門家として土地家屋調査士が生き延びる方策を考えていかなければならない。」
とも言われています。「土地家屋調査士が生き延びる方策」が必ず考えられなければならないものとされているわけです。しかし、そうなのでしょうか?それが出発点にある、ということがおかしいのだと思います。
目指すべきものは「土地家屋調査士が生き延びること」に置くべきなのではなく、「土地家屋調査士が社会的に有意義な存在としてあること」に置くべきです。もちろん、「社会的に有意義な存在としてあること」が実現できるのであれば「生き延びる」こともできることになるでしょうが、それは結果としてのことであり、「生き延びること」を目的として置く、というのは違うのです。
最近流行りの言葉で言うと「土地家屋調査士ファースト」の考え方、ということになるのでしょうが、それは、「既得権益保持であり、「土地家屋調査士エゴ」になってしまうのです。そして、そのように振舞っていると、社会的にはじきとばされてしまうことにもなります。
実際、「グランドデザイン」の内容を見ていると、その名称の意味する「壮大な」ものにはなっておらず、極めて手前味噌で我田引水的なものが目についてしまいます。
たとえば、「土地家屋調査士は、不動産に関するすべての情報を土地家屋調査士、明確化しうる唯一の国家資格者である」というようなことが言われていますが、その根拠は何でしょう?それこそ「合理的説明」が求められるのだと思いますが、論証なしの言いっぱなしです(単に筆が滑っただけなのかもしれませんが)。
一方で、土地家屋調査士の世界に広がる「不都合な真実」に目を向けながら、それらを正面から問題にし続けてしまうと身も蓋もないようなことになってしまうので途中でやめてしまって、「土地家屋調査士の強みは、測量能力を生かした調査と法律判断である」などという、全く実証されない言い古された自画自賛で集約してしまっているのは、いささか残念です。
自分たちが生き残ることを目的にして「グランドデザイン」を描こうとする、という発想法そのものを改めないと、本当の意味での壮大な設計はできないのだと、つくづく思いました。
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