創造

創造主とセルフイメージの世界

主はあなたの中におられます

2010-07-16 18:04:28 | 福音
7月14日深夜、日本福音学校の責任者になられた東京信愛教会の鈴木牧師より、広島県下での開校のすすめのお電話をいただく。
1時間半にも及ぶお話になった。
自分としてはインターネットの可能性について語らせていただいた。日本一千万救霊の夢をもたれた韓国のチョー・ヨンギ師がテレビ伝道からも身を引かれ、一見夢は挫折したかに思われるが、今ではインターネットで毎週その説教が聴ける。
 チョー師の信仰は韓国だけのリバイバルではアジアの総福音化は困難で、全日本の10パーセントが救われることによって、日本が再臨前のイスラエルを含む全アジアの福音化の鍵を握るとのことであった。
 また、中国の地下教会は1億人に迫っているといわれる。優れたリーダーであり、殉教者であるウォッチマン・ニーの影響もあるといわれている。
この二人の著書を読むとき驚くべき一致があることが分かる。同時にルッター以来のプロテスタントの真髄が語られていることに気づかされる。ここでは3冊の著作を引用してその共通点を確認したい。
①エーリッヒ・ザウアー著「世界の救いの黎明」(聖書図書刊行会)59ページより

人格としての人間

 

救済史という観点からすれば、神と世界は人間とは、すべて存在するものの三つの本質的な実在である。これらを認識することが、われわれの理性の任務である。それゆえに三つの意識が人間に賦与されている。すなわち神意識と世界意識と自我意識とである。そしてこれらに相応して創造者は人間に、この三つの意識を可能にする器官を与えている。

 

〈世界〉を人は感覚によって認識する(触覚、臭覚、味覚、聴覚、視覚)。これらは肉体の器官(神経、鼻、舌、耳、目)によって行われる。肉体によってわれわれは〈世界〉意識、あるいは感性意識に達する。

 

〈自我〉をわれわれはたましいによって認識する。 なぜなら人間は外的自然のうちでただ知覚のある一員であるよりはるかにすぐれたものだからである。人間は意思と個性的な人格をもった自己である。これは彼自身の内的存在によって直接彼に啓示され、こうして人間はたましいによって〈自己〉意識、あるいは〈自我〉意識に達するのである。

 

それから人間がついには〈創造者〉のところまで昇れるようにと、神は霊を与えた。この霊によって人間は〈神〉意識に達する。

 このように人は単一の中の三位一体であって、彼の不可視的な内的存在は、はっきり区別される二つの実体から成立している。なぜなら神の言は「精神()と霊魂(たましい)とを切り離す」ほど鋭く透すことができるからである(へブル4・12)。そしておなじ使徒はさらに証言して「どうか平和の神ご自身が、あなたがを全くきよめてくださるように。また、あなた方の霊と〈心〉〈からだ〉とを完全に守って主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」と言っている。(テサロニケⅠ5・23)。霊(spirit精神)と霊魂(soulたましい)とは、性質は一つである(〈二分法〉dichotomy

、しかし実体は異なる(〈三分法〉trichotomy(デリッチ)

それで「霊」はわれわれの人格の中で、より高い意識として神的なものおよび超感覚的なものに向けられている部分であり、一方、「霊魂」はわれわれの内的人間の比較的低い構成部分であり、地的なものおよび造られたものに関係をもつ。霊魂はただ自己意識にのみ達するだけであるが、霊は神意識に達する。

[]このことは特に「霊魂的プシュキコン」および「霊的プニュマティコン」という形容詞の使用の際に見られる。psychical〈霊魂的〉という新約聖書に6回出てくる、そして常に「霊的spiritual」に対して劣っている。コリントⅠ15・44(二回)、46。2・14.ユダ19。ヤコブ3・15natural、改訳ではsensual)。

霊魂はただ自己意識に達するだけであり、それさえも霊の助けよってのみである。しかし霊は神意識に達する。

霊魂は霊と肉体とを結ぶものである。霊魂の媒介によってのみ霊は肉体に働くことができる。なぜなら、霊は霊魂にとっては、「内からおよび上から織り込まれている実体」であり、肉体の方は「外からおよび下から霊魂に織り込まれている実休」であるからである。それゆえに霊魂はこれら両者の間をむすびつけるものである。霊魂がその物質的な構造としての肉体に内臓されているように、霊魂は霊に対しては、いわばその「肉体」である(テルトリアヌスを参照)

 

聖書にしたがえば、肉体は

聖霊の宮(コリントⅠ 6・19)

神への生きたる供え物(ローマ12・1)

義の武器(ローマ6・13)

神の栄光をあらわす道(コリントⅠ6・20)

栄光ある霊のからだのための種粒(コリントⅠ15・43-47)であるはずである。

贖われなくては、肉体は

敵の侵入する門〔創世3・6、マタイ5、28-30)

罪のからだ(ローマ6・6)

卑しいからだ(ピリピ3・21)、

こわれつつある地上の墓屋(コリントⅡ5・4)

サタンに滅ぼさるべき復活のからだの種粒(ダニエル12・2、ヨハネ5・29)である。

 

モーセの幕屋は人間の人格のこの三一性の一つの比喩である。「同じ形態においてキリスト信者は模写されている。その霊は光のない暗い闇の中の信仰におけるsanctum sanctorumであり、至聖所であり、神の住居である。なぜなら彼は見もせず、感じもせず、つかみもしないものを信じるからである。霊魂はsanctumである、聖所である。ここに七つの燭台がある、すべての種類の悟性、見えるものの判別、知識および認識である。その体は前庭atriumである。これはだれにも現われており、彼が何をなすか、どう生きるかを、見ることができる」(ルター)

このように人間の性質の中では次のものが対応している。

世界意識、自我意識、神の意識

肉体、霊魂、霊、

前庭、聖所、至聖所。

神は至聖所から、霊から、霊魂と肉体を支配する。そこで神の不変の律法は、良心のなかに、いわば契約の箱の中におかれたように保蔵されている。神が幕屋の中でケルビムの上に住みたもうたように、ここが至上者がわれわれのうちに実際に現われる場所である。そしてその当時、栄光の雲shekinahが恵みの御座のうえにただよったように、われわれの霊の中に神の霊が住むことは、われわれが再生した信者に平和と歓喜との意識をもたらす(ローマ8・16)。なぜならわれわれの内なる神の御座は審判の法廷ではなく、恩恵の御座であり、その主権の王権こそ救いであるからである。こうして今やわれわれは、あの幕屋と同じように、神の移動テントとしてこの世の荒野のなかを歩み、ついに永遠に、天のカナンに達することを許されるのである〔コリントⅡ:5・14を参照〕。

このような使命をもった人間として今、われわれはなぜ、被造物の冠としての人間の創造の記事になって初めて、神の言が歓喜の歌になったかを理解できる。ヘブルの詩形は思想の韻を踏んでおり、章句と節との並行であって音韻の並行ではない、それであるから聖書は、三位一体の神のこの驚くべき業績である三一性の人間の創造を、三重のリズム、三重の「神は創造された」で讃美している。

神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち神のかたちに創造し、

男と女とに創造された(創世1・27)

 

②パウロ・チョー・ヨンギ著「第四次元」(信仰と世界社)286p

「兄弟たち、姉妹たちよ。」わたしは、声を大にして兄弟姉妹に訴えました。「金銀はわたしにありません。・・・・しかしわたしのもっているものを、あなたがたにあげましょう。・・・・イエスを信じ、うけいれない。そうすれば、万物を御手のうちに収めておらる天地の造り主、あらゆる資源を有しておられる全能の神が、あなたの心の中に住んでくださるのです。神はあなたの必要としているものを、ことごとく満たしてくださるでしょう。」

③ウォチマンマンニー「キリスト者の標準」(いのちのことば社)152p-
「ああ、わが友よ、わたしは何百回でも私の内にいます神の御霊は人格を持つお方である!といいましょう。」


 

キリスト者の標準 (1961年)
ウオッチマン・ニー
いのちのことば社

 

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