【マタイ福音書16章13₋20】
イエス様をどう見るかは、自分自身がどういう立ち位置と基準で考え行動しているかにかかっています。人を測る尺度によって自分自身のレベルが明らかにされます。当時の人々はバプテスマのヨハネ、預言者エリヤ、あるいはまたはエレミヤの再来とみなしました。今日でいうと偉大な宗教家というレベルでしょうか。しかし弟子たちを代表してペテロは「生ける神の子、キリストです」と告白しました。神から遣わされた御子であり、聖霊を受けて聖霊を注がれる油注がれたメシアであり、救い主であると答えました。ペテロ自身が聖霊によって、霊のいのちが与えられ霊眼が開かれて人となられた神ご自身である主に出会い交わりに入れられたということです。それはペテロが聖霊によって神のいのちのレベルに引き揚げられて、御座におられる御子と御父の交わりの中に入れられたことを意味したのです。 ですからハデスの門も打ち勝てない、神の岩とされました。そこに入るカギが与えられ、地で解くことが天でも解かれるとはペテロの中でペテロと共に聖霊なる神が働かれて人々を天の御国に導かれることを意味します。デンマークの詩人、哲学者であるキルケゴールは著書「死に至る病の」の中で人は自分の限界を知らされて絶望することによって超越の世界に導かれると語りました。おのれの脳力を絶対化し、五感に映る世界だけで判断するとエリシャの弟子のように天の大軍に気づかずに敵軍におびえたり、預言者バラムのようにロバが見た天使に目を塞がれることになります。 教会は天使や天の軍勢をはるかにまさる神である創造主が臨在され、聖霊が宿られる神の家族です。見た目には弱小であっても本当は強大な存在です。 そのいのちと力は霊の次元のもので、一時的な帝国、例えばかつてのダビデ、ソロモン王国のようなものでなく不滅の永遠の王国です。地上の武力や権力によって支配されるのでなく、聖霊の愛と権威によります。 主ご自身が示されたように、自己を明け渡すことで内側から御霊の川が流れるようにして広がってゆきます。十字架の道とは自我依存をやめ、神にゆだねて歩むことです。
「死に至る病」キルケゴール著斎藤信治訳・岩波文庫