創造

創造主とセルフイメージの世界

わたしをだれといいますか

2024-09-15 21:59:12 | 福音

新聖歌143

【マタイ福音書16章13₋20】

イエス様をどう見るかは、自分自身がどういう立ち位置と基準で考え行動しているかにかかっています。人を測る尺度によって自分自身のレベルが明らかにされます。当時の人々はバプテスマのヨハネ、預言者エリヤ、あるいはまたはエレミヤの再来とみなしました。今日でいうと偉大な宗教家というレベルでしょうか。しかし弟子たちを代表してペテロは「生ける神の子、キリストです」と告白しました。神から遣わされた御子であり、聖霊を受けて聖霊を注がれる油注がれたメシアであり、救い主であると答えました。ペテロ自身が聖霊によって、霊のいのちが与えられ霊眼が開かれて人となられた神ご自身である主に出会い交わりに入れられたということです。それはペテロが聖霊によって神のいのちのレベルに引き揚げられて、御座におられる御子と御父の交わりの中に入れられたことを意味したのです。 ですからハデスの門も打ち勝てない、神の岩とされました。そこに入るカギが与えられ、地で解くことが天でも解かれるとはペテロの中でペテロと共に聖霊なる神が働かれて人々を天の御国に導かれることを意味します。デンマークの詩人、哲学者であるキルケゴールは著書「死に至る病の」の中で人は自分の限界を知らされて絶望することによって超越の世界に導かれると語りました。おのれの脳力を絶対化し、五感に映る世界だけで判断するとエリシャの弟子のように天の大軍に気づかずに敵軍におびえたり、預言者バラムのようにロバが見た天使に目を塞がれることになります。 教会は天使や天の軍勢をはるかにまさる神である創造主が臨在され、聖霊が宿られる神の家族です。見た目には弱小であっても本当は強大な存在です。 そのいのちと力は霊の次元のもので、一時的な帝国、例えばかつてのダビデ、ソロモン王国のようなものでなく不滅の永遠の王国です。地上の武力や権力によって支配されるのでなく、聖霊の愛と権威によります。 主ご自身が示されたように、自己を明け渡すことで内側から御霊の川が流れるようにして広がってゆきます。十字架の道とは自我依存をやめ、神にゆだねて歩むことです。

                 

「死に至る病」キルケゴール著斎藤信治訳・岩波文庫

新聖歌145

 

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「心を尽くして主により頼め」

2024-09-02 11:06:44 | 福音

【箴言3章1ー20】

現代の日本社会においても政治においても今、一番求められているのは「信頼回復」と言われます。

朝日新聞の記事で星野智幸さんという作家が次のように述べていました。

「日本社会がカルト化してゆく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある。・・・私が期待した、個々人が自分は何に依存しているのかを探るという作業は、あまり進まなかった。その実例がほかならぬ自分自身だった」と。

カルトとか依存症という意味は、真に頼るべき創造主でなく、被造物を絶対化してそれに頼ってしまう傾向であると言えます。私自身について言えば、しばしば、「自分の悟り」(3章5)に依存することです。

結果は、聖霊様を忘れて独善に走り、他者を傷つけたり、自己嫌悪に陥るのです。

ですから4章23節に「力の限り、見張って心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」とあります。

 

心を尽くして主に信頼し崇める時に、御霊が私たちに自分の悟りや理解力をはるかに超えた神の知恵を与えてくださるのです。ペテロも自分に自信を持った時、主を裏切り、自己を嘆きました。

しかし、主の十字架の血潮によって罪を赦され、御霊を宿して、そのお方に第一にした時、本当に信頼に足る者に変えられました。

パリサイ人パウロも自分の宗教的悟りによっては、主の愛を理解できませんでした。それどころか闇の霊が内側で激しく反発しました。復活の主が彼の霊の目を開かれた時に、人の知恵によってでなく聖霊の知恵によって生きる神の子に変えられました。

 

箴言8章には知恵の呼びかけがあり、「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これにくらべられない」(11節)とあり、24節「深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき私は既に生まれていた。」20節「わたしはかみのかたわらで、これを組み立てる者であった。」と続きます。

 

キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと贖いとなられました。」(Ⅰコリント・1章30)とありますように、知恵の根源は主ご自身なのです。

知恵は現在進行形で進められている神の創造と救いの力でもあります。

人間の自然的脳力を超えた創造主の霊的知恵です。それは、全ての人が救われて真理を知るようにという神の永遠の思いでもあります。

神の願望は御子の贖いと御霊の私たちへの内住によって明らかにされます。

神の御心のことは、神の御霊のほかには誰も知りません」(Ⅰコリント2・11)

主が私たちの心の中でいのちの泉となって湧き上がり、川となって流れ出てくださるのです。

ですから自我に頼るのでなく、信頼の的を主に向けるようにしましょう。

 

モーツアルトは時間を空間のように把握したそうです。時間的に流れるメロディを一枚の絵として鮮やかに思い描いたと言われます。この世界の次元を超えた霊的次元に立てば預言者のように時間を超えた知恵が与えられるのでしょう。

聖霊は時間と空間を創造された神であり、私たちの内にあって常に新たな創造をされておられます。

地上での天使的間接的創造だけでなく、直接的永遠的救いの新しい創造の業をなさっておられます。

御子の贖いによって至聖所の神のいのちと交わりへと引き上げてくださり、創造の完成へと働いておられます。

「神にも人にも喜ばれ、物事を正しく判断できるようになりたければ、徹底的に神様に頼ることです。
絶対に自分を頼ってはいけません。何をするにも神様を第一にしなさい。神様がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。」(箴言3・4-6,リビングバイブル)
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贖われた良心

2024-08-18 15:22:12 | 福音

【へブル書10章19-39節】

旧約時代、地上において神が宿られたのは幕屋、神殿であり、神に近づくために、贖いとして清い動物の血が流されました。新約時代になってその宮は主ご自身であり、主の十字架上での血の贖いは私たちの最も深い「良心」に及ぶことになりました。

日本語で良心と訳されますが原語では「ある事柄を神と共に知るconscience」という意味です。

ですから「霊」を指しているともいえます。従って「邪悪な良心」とは、闇の霊が私たちの霊を捕らえて告発する状態を意味すると言えます。

外的に問題がないように見えても、潜在意識下で「良心の呵責」に苦しめられているのが私たちの真相ではないでしょうか。エペソ書2章には「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、その頃は、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」とあります。

主は「なぜ良いことについて私に尋ねるのですか。良い方は一人だけです。」(マタイ19・17)とも語られ、人間としての相対性と聖霊の絶対性を示唆されました。人間の良心或いは霊は絶対的なのでなく、聖霊と共にあることによってのみ正常なのだと教えられたのです。サタンの誘惑によって自己絶対化という被造物礼拝に陥ったことを原罪と言います。独裁者やカルトの教祖がその典型ですがアダムのすえとしての私たちも他人事ではありません。そして偶像礼拝は悪霊による心に傷をもたらします。

 

主の十字架の血による代価は、至聖所ともいえる深みを清め、根源的な傷を癒されます。

主の贖いにお頼りする時、聖霊に触れられて永遠の霊の解放がなされるのです。 

 さらに御霊なる神は、私たちの内に住まわれて、私たちに代わって良い業をされます。本来、律法は、神あるいは天使による祝福を受けるためでした。しかし自分を絶対化することで、その恵みを妨げて、サタンや悪霊の支配下に陥りました。神は、エジプトの捕囚からモーセを通してイスラエルを贖いだしました。かもいと門柱に塗られた小羊の血が民を守ったからでした。

幕屋の聖所、至聖所を清める際にも小羊の血が注がれました。

 

私たちの霊、心、体に聖霊の祝福を受けるために日々の主の血潮の清めが必要です。

主の血潮は敵の告発を退け、御霊の働きを解放します。

29節に記されているように、自分を守り祝福してくださる主の血と御霊を軽んじ、頼らないなら恵みを捨てることになるのです。

内住の神こそが喜びであり誇りであり、より頼むべきお方です。

自分の思いが絶対正しいと思うのでなく、祈って聖霊様の思いを第一にし、明け渡して霊・心・体そして生活すべてに主に介入して働いていただきましょう。

エペソ5章16節「機会を充分に生かして用いなさい」は別訳「時を贖いなさい」であり、主の活動のチャンスとして全生活の時或いは場所を主に明け渡すことが勧められているのです。

 

やがて弱い体も贖われて、大自然界の贖いと共に栄光の体によみがえる時が約束されています。

私たちは被造物全体が今に至るまで、共にうめき共に生みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たちも、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ロマ書8・22,23

カルバリの十字架

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村田若狭・フルベッキ・上野彦馬写場

2024-08-10 19:41:47 | 福音

 

佐然賀藩の家老であった村田若狭がフルベッキ宣教師から洗礼を受けたのは1866年(慶応2年)5月20日ペンテコステの日でした。フルベッキ書簡集(高谷道男編訳・新教出版)にはミッション本部に送られたフルベッキ自身の詳述があります。

ところで本の口絵にある写真の説明(キャプション)には「村田若狭(前列中央)と二人の子息、後列は村田の家臣たち【慶応2年上野彦馬撮影】」とあります。

しかし何故か、以下のように同じ写真の説明には「文久元年(1861)長崎において」とあります。

上野彦馬撮影局について長崎市新大工町の歴史には

正徳元年(1711)旧鋳銭所(中島銭座)に孔子を祀った儒教のお堂である長崎聖堂が規模を拡大して移転してきた、とあります。

  慶応元年、江戸町にあった洋学所は元長州蔵屋敷跡地に移され、「済美館」と改称、明治元年には元奉行屋敷跡を修理して

 「広運館」と改称。洋学局のほかに国学と漢学を新設。同2年漢学局を中島聖堂内明倫堂に移しました。

 (長崎県教育史95頁)

  

*中島聖堂由来記長崎聖堂と長崎盲唖院 — 「中島聖堂由来記」を中心に | tomotake kinoshita (tmtkknst.com)

の略図(往時の中島聖堂)を見ますと奇妙なことに孔子の聖廟が北西部から南西部へ移されていること、北西部の敷石の配置がフルベッキ写真写場のそれと一致しております。

尚、文久2年(1,862)、中島鋳銭跡地に日本初の上野撮影局が開かれた、とあります。

 

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裂かれた神のパン

2024-08-04 18:47:59 | 福音

【ヨハネ福音書 6章22-63節】

モーセを通して与えられたマナは「天使のパン」と言われ、イスラエルの地上での生存を助けました。

イエス様は「神のパン」であり、永遠のいのちの糧となられました。

主を信じて、受け入れると私たちの中に、神のいのちの源泉である主ご自身が活きて働かれます。

 

つくられた人体には、空気と水と食べ物が必要です。

ニコデモには霊(ルーアッハ)と同じ語源の息(風)を通して、呼吸によって酸素が肺から血液に取り込まれて細胞を成長させるように、神の霊Spiritは私たちの霊spiritsを新生させて、永遠の神的生命を与えることを教えられました。

 

4章ではサマリヤの女性に、永遠のいのちの水について話されました。人体の60パーセントは水分であるのに、乾燥地帯であるイスラエルでは水の貴重なことと同時に、永遠のいのちの水について語られたのです。

永遠の泉である御霊が注がれると私たちの霊がよみがえり、さらに神殿から水が湧き出て川となって流れ出すように、神の宮とされた私たちから永遠のいのちの川が流れ出ると予言されました。

「すべて乾いている者は私から永遠のいのちの水をただで受けなさい」とあります。

 

被造物としての人体は、同じ被造物である新鮮な空気や水や食べ物を呼吸器官や消化器官などを通して内側に取り込まれて、健康を維持します。旧約聖書では食べ物について厳しい規定があり、けがれれた動物や昆虫は禁止され、清い生物のみが食されました。なかでも祭司は捧げられたものを食べることが命じられました。食べものが人間性を形成するという「プットインプットアウト」の原則です。もちろん新約時代は祈りによってすべてが清められますから、主の贖いと食前の感謝の祈りを通してすべての食が許されています。

6章で、ご自身が「神のパン」であることを明らかにされます。

「手のひらを太陽に」の作詞家、やなせたかしさんはアンパンマンという漫画で知られます。

アンパンマンは飢えた子供にパンである自分の顔の一部を裂いて与えるヒーローです。

クリスチャンであったヤナセさんは、戦争時の食に飢えた子供たちの悲惨を見、そしておそらく最後の晩餐で主がご自身の体の象徴であるパンを裂かれて弟子たちと食事をしたことや聖餐式から暗示を受けられたのではないでしょうか。

主は「私はいのち(ゾーエー)のパンである」と語られ、たびたびパンを裂いて弟子たちに与えられました。

 十字架上で自らの体を裂かれて、血を流されることを予言されたのです。父なる神は、引き裂かれる思いで御子を世に下されました。そして主が十字架上で体を裂かれて血が流された時、神殿の至聖所と聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けました。

天が裂けて、神のいのちである御霊が私たちに注ぎ込まれることになったのです。

 造られた被造物は、有限であり永遠のいのちの糧にはなりえません。

永遠の創造主が、ご自身を与えてくださることによって、私たちに神的生命が分与されます。

それは無尽蔵の富であり、朽ちることのない生命です。

新聖歌102

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ニコデモとの対話

2024-07-21 18:01:22 | 福音

新聖歌31たえなる主の愛

【ヨハネ福音書3章1-21節】

代表役員の変更手続きを通して多くのことを学ばされました。

教会がどのように松茂に教会設立をすることになったのか。

教会の沿革についての記事に、神学的知識などではなく、主との交わりそして一人一人との関わりが大切なことをカウンセリングの学びで示されたとありました。

「教会憲法」の写しを提出するように徳島地方法務局から指示されて探し回りましたが、キャビネのなかからやっと原稿を見つけ出してコピーして持参したところ受理されました。

宗教法人の手続きの時、お世話になったルーテル教会の牧師先生の指導のもとに作成されたとのことでした。それで私も理解できました。

 かつて一度解散状態になった宗教法人を復活させるために都庁に何度も足を運んだことがありました。

法人の規則については詳しく検証しましたが「教会憲法」という言葉は聴いたことがありませんでした。

ホームページで分かったのはカトリック教会には「教会法」があり、日本基督教団、改革派、ルーテル派などでは「教会憲法」が「規則」とともに存在するということです。

 なぜ、バプテストやメソジスト、ペンテコステなどの福音派には「憲法」がなかったという理由は、宗教改革をより徹底させて「聖書のみ」「信仰のみ」を主張した急進派(ラディカル・リフォメーション)の信仰が源流にあったということです。つまり幼児洗礼などの伝統的儀式に疑問を持った群れが、聖霊による信仰告白と新生を強調して別れた行きさつがありました。

スイスの改革者ツイングリに学んだ再洗礼派(アナバプテスト)であるフープマイアーは迫害を逃れてモラビアに移住しますがやがて火刑の処され、妻も川に沈められました。幕末維新時のバプテスト宣教師、ゴーブルはその影響を受けました。オランダ人フルベッキ宣教師はアメリカ改革派から派遣されましたが、もともとモラビアンの信仰と教育をうけました。アメリカ最大のプロテスタントはバプテスト派と言われますが、大統領が聖書に手を置いて宣誓するのは信仰の源流である聖書に立ち返ることを求めて新大陸に渡ったピューリタンたちの願いがあったからです。

 

ヨハネ福音書3章は、主イエスとパリサイ派ニコデモとの対話が記されています。

しかし聖霊のいのちと法則によって語られる主と、生まれつきの自然的いのちの力によってのみ依存するニコデモには真の理解と交わりが成立しませんでした。

 そこで、主は荒野で揚げられた青銅の蛇について語られます。不信仰の罪を犯したため毒蛇に噛まれてバタバタと死んでゆく者を救うために、神がモーセに示されたのは青銅の蛇を竿にかけてそれを仰がせることでした。

 主はニコデモのため、私たちすべての者のため、自らが呪われた蛇のようになって十字架で罪の裁きを受けられることを啓示されたのです。旧約時代の出来事は予型であり、新約時代の奇跡は「しるし」と表現されます。

それは、物質的一時的奇跡は、より深い霊的永遠的救いを指し示しているということです。

自然的いのち(ビオス)を生きていても人は罪によって霊的に死んでおり、ただ御子の十字架を仰いで主に御頼りすることによってのみ闇から解放され、聖霊によって新生して神のいのち(ゾーエー)に生きることを示されました。それは至聖所に、迎え入れられることです。自分の心よりも深い霊がよみがえらされて神のいのちに生かさせてもらうことです。神の御子の血がサタンの毒から私たちをいやして永遠のいのちへと解放されるのです。

 19章29節、恐れをなして逃げ去って誰一人いない中、ニコデモは没薬とアロエをもって主の埋葬のために現れました。

新聖歌343

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神のいのち、復活の力

2024-07-09 09:55:34 | 福音

み名を掲げて 

【ピリピ書3章】 

新年度教会総会を開催でき、感謝です。教会は永遠の神の体であると共に、法律上、法人として認可され、税において優遇されていることは恵みです。そのためにも義務を果たさなければならないことも事実です。多くのご奉仕を感謝します。またこれからのためお祈りください。

ヨーロッパで最初の教会、ピリピ信徒にあてられたこの手紙には「喜び」という言葉が16回も使われていわれます、ローマの獄中で書かれたことを思えば驚きです。

御霊の実は「愛喜び平安・・」とありますように、時々の環境に左右される人間の喜怒哀楽というよりも、神の子としての霊的感性というべきかもしれません。

パウロはかつてユダヤ教パリサイ主義者として福音の敵対者でした。

それは、ただ十字架の恵みによって人は罪を赦され、聖霊を宿す神の子にされるのに、自分の人間的

力に依存して救われるという考えでした。

しかし、ニコデモもそうであったように、自分の修行や悟りによっては真の平安も喜びも得られないことを感じていました。自然的人間のいのちは神のレベルには遠く及ばなかったのです。人間は神から生まれ、神のいのちを生きることによってのみ、永遠の交わりと力を体験できます。どんなに輝いて見えても、被造物のいのちはやがて朽ち果てるのです。

御子において神は真の人間の在り方を示してくださいました。聖霊なる神を宿されて、このお方にお頼りして永遠のいのちに生き、やがて復活されて天の御座につかれる歩みです。

「依存(信頼)、喜び、誇り、」はヘブル語では同義語です。「神から、新たに、上から」がそうであるように。かつてのパウロは自分の能力、家柄、社会的名誉、なかでも宗教的優位こそが頼りであり、誇りとし喜びとしていました。それは被造物である自分とこの世に依存する道で、それらをいかに高めたとしても、神のレベルには及ばなかったのです。

キリスト・イエスを御霊によって知った時に、それらをはるかに超えたいのちの恵みに目覚めました。

そして御子が人となられ、十字架で贖いの血を流されたのは、内住されている御霊を私たちにも注いでくださるためだったことを悟ったのです。

御子の内にあって神のいのちの実を結ばれ、不可能を可能にされ、ついには復活と栄光へと主を引き上げられたその御霊が信仰を通して今、神の子とされた自分にも働かれるのを体験したのです。

 

返ってきた放蕩息子に父親が喜びのあまり最上のもの惜しげもなく与えられたように、神は私たちに「無尽蔵の富」である聖霊を住まわせてくださいます。

 十字架には罪の赦しと共に手本としての二重の恵みがあります。私たちのすべての罪を日々きよめてくださり、神の子として成長させてくださるとともに、主と共にこの世依存に死に、聖霊様への依存と永遠のお交わりによって神の復活のいのちと力を現わされます。

モーセは年老いて人間力に枯渇した時、神にのみ頼り始め、人々を奴隷の身分から解放しました。ギデオンは12万人余の敵に囲まれた時、1万人でも多すぎると言われて、ついにはたった300人まで減らされた。万軍の主により頼む少数者とともに恐るべき神の勝利を体験しました。

主を仰ぎ見て主をたたえ、喜び、誇りましょう。

千歳の岩よ

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霊の父の訓練

2024-06-17 10:42:49 | 福音

新聖歌112

【へブル書12章1ー11】

今日は父の日です。母の日は5月第二主日で、アメリカのメソジスト教会で、長く教会学校の教師をしていた母に感謝をささげた少女の思いから始まりました。

同様に、南北戦争から退役した父が、妻亡きあと子供たちを育て、その子が教会の牧師に父にも感謝をささげたいという思いを伝えたことから始まりました。

神はどうして母でなく「父」と呼ぶのか議論の多いところですが、恐らく人類は男性「アダム」が最初につくられ、そのアダムのあばら骨の一つから妻となるエバが造られたからだと思われます。

今日では遺伝子を取り出してクローンを生み出すことが可能になっておりますが、神は人間創造の初めから既に同じようなことをされたのでしょうか。

ところで、生命は親の遺伝子を受けて、親に似た性格や能力を持つ者に成長します。そのために、「懲らしめ」としての教育と訓練が必要です。

 霊の父である神も、神の子として成長するために試練とか困難を通して神のいのちが現れるように訓練されます。

アダムの子孫である人間は、どのように訓練されたとしても朽ち行く被造物でありますので、創造霊である神は、私たちを憐れみ、ご自身の永遠のいのちを与えるため御子を遣わされました。

ヨルダン川で聖霊を受けられた御子は、新たな神のいのちを生きられました。アダムが罪によって失ったいのちです。そして霊の天的訓練や知識を荒野の祈りの中で受けられました。

古代教父アタナシオスは「私たちが聖霊を受け取るために、み言葉は身体のかたちをとられた。人間が霊を持つ者になるために、神は身体を持つ方となられた。」と述べ「神は人間となられた、それは人間が神とされるためであった」とも語りました。

キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いを捧げ、そしてその敬虔の故に聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全なものとされ・・」(5章7,8)

私たちは御子の十字架の贖いを通して、罪を清めていただき聖霊を宿して神の子にされました。

旧約時代は幕屋や神殿で膨大な数の子牛や羊の贖いの血が流されました。それは神に近づくためでしたが、神の御座に入ることは許されませんでした。

しかし、現在は神の小羊の血が流されましたので、動物の贖いは不要となり、そのような神殿も必要ありません。

御子ご自身が神の神殿であられたように、私たちが聖霊なる神を宿す神殿とされたのです。 

神殿には至聖所、聖所、大庭があるように、私たちに霊、心、体があります。

聖霊様Spiritは私たちの霊spiritsに住まわれ、心mindと体bodyに働かれます。

試練を通して自我(自分依存)が砕かれ、主に明け渡すことを学びます。そして聖霊が全体に溢れて神の業を現わされます。

自分で思いをコントロールできないのは、悪霊の縛りがあるからです。ですから主の血によって日々罪を洗い清めていただいて心にも聖霊が溢れれくださるように祈りましょう。

見える世界は氷山の一角で、見えないより深い霊の世界から影響を受けています。

 霊の父は偉大で永遠です。イエス様は「私の中で父(御霊)が働いておられる」と語られました。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれから湧く」(箴言4・23)とあるように御霊は心というパイプを通過されて現れます。

 肉親の親が訓練してくれるように、永遠の親は試練を通して私たちがますます主にお頼りして御霊の実を結ぶ者に変えてくださるのです。

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エルヴィス・プレスビー"丘の上の大邸宅"

2024-06-04 10:08:11 | 福音

Mansion over the hilltop

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三位一体の神

2024-06-03 10:42:43 | 福音

讃美

【エペソ書1章】

ペンテコステに続く日曜日は三位一体主日と言います。

神を知る、主を知るには内的に同じいのちのレベルがなければなりません。神が愛であり霊であり、人間と同じような意志や感情や知性があられます。喜ばれたり、悲しまれたり、怒ったり、自ら苦しまれ嘆かれる姿が旧約聖書にも描かれています。しかし、それは聖なる人格であり、必ずしも私たちの思いと同じでありません。

むしろ、人間の思いは二心であり、神を傷つけ悲しませる性質があると述べられます。

その意味で私たちは神の心を理解するには程遠い存在です。「神の御心のことは、神の御霊の他に誰も知りません」(コリントⅠ2・11)とあるように、ただ一つの相通じる道があるとすれば、神が私たちの心底に下られて、その思いを共有させてくださることです。

旧約時代、聖なる神は、天使の仲介を通して人間に触れました。小羊の血が罪を清め天使に近づくことをゆるしました。しかし神ご自身のおられる至聖所へ導く力はありませんでした。

神の小羊である御子の血のみが、至聖所である神の内側に至る道を開かれます。それは御霊が私たちの心の奥底に住まわれることによって実現しました。御子は神の反逆したこの世界にこられ、地獄にまで下られました。

 御霊は、どうすることもできない私たちの心にまで下られて、思いを共有されます。カルバリの丘で主の血が流された時、不治の病に侵されたベンハーの母と妹が一瞬に癒されました。その時神の激痛が彼女たちに共有されたことが描かれていました。むなしさに襲われることはありませんか。

私の場合、そのようなときに聖霊様が自分の中でうめいておられると感じることがあります。

天から下り、主の血潮の故に自分のような汚れた住まいにもかかわらず、永住してくださっているのに、その尊い臨在をすっかり忘れてこの世のことのみに埋没するので、実は御霊を悲しませるのではないでしょうか。

御霊が喜ぶ時自分も喜び、御霊が悲しまれる時自分も悲しめるように、主の心と一つになれるならば主も喜んで働いてくださると思います。

しかし、あなたが主により頼んだ時、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と一つになっている者に力を現わされる」(歴代Ⅱ16・8,9)

聖霊は私たちに罪を示し、罪の赦しのために十字架の贖いに頼らせ、そうしてご自身を受け入れるように呼びかけ、心を開かれて私たちの至聖所である霊に住まわれます。そのようにして神のいのちと心を通わせてくださるのです。同時に、その御霊の性質と能力に依って、イエス様の本当の姿を知らされ父なる神との交わりに入れられます。真の神である創造主は清いお方であり永遠の交わりのお方であり、至聖所に住まわれる方であり、

私たちもその至聖所に入らなければ分からなかったお方に目を開かせるのです。

三位一体の神は永遠の愛と交わりの存在者であり、私たちを救うため経綸的に行動されるお方です。

そして偽りの教えと霊を識別するためにも「使徒信条」が確認され告白されました。

ユダ書9節以下、「この人たちは、御霊を持たず分裂を起こし生まれつきの人間(プシュキコス・魂の人)です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは自分の持っている最も聖い信仰のうえに自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストの憐みを待ち望みなさい。」御霊なる神の内住は畏れ多いことで、ウザのように契約の箱に触っただけで即死し、その蓋を開けた異教徒5万人余が死にました。十戒を授ける天使の山にはモーセ以外近づけませんでした。聖所にはレビ族の祭司以外入ることは許されず、イザヤが神を見た時私はもうだめだと叫びました。パウロはあまりにも聖なる復活主の光に照らされて三日間視力を失いました。神殿の至聖所にしか住まわれないお方が、自分のような罪人の中に来ておられることはあり得ないことですが、ただ、御子の十字架上での贖いの血の故に、その驚くべき奇跡がこの身に起こったのであります。

神はご自身を裂くように御子を与え、御霊を与えられました。そしてその神のいのちの中で「父よ!」「御子よ!」と永遠の三位一体の交わりの中で語り合うことが許されているのです。

丘の上のマンション

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バベルからペンテコステへ

2024-05-19 14:44:41 | 福音

雲が雨で満ちると

【使徒の働き2章1-21節】

ペンテコステ、聖霊降臨日の意味について学びます。1章8節「聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土及び地の果てまで、私の証人となります。

という約束の言葉が成就した日です。「臨む」、「下る」とは既に内住されておられるお方が見える世界に現れる

事を意味します。

クリスマス、イースターそしてペンテコステと三大祝祭日ですが、私たちにとっては救いの油注ぎ、交わりの油注ぎ、力の油注ぎという三番目の恵みが聖霊降臨です。聖霊は主との出会いを与えて神の子へ新生させ、復活の主との交わりによる聖化をもたらし、そして力の油注ぎによる働き人に変えてくださります。

わたしたちの霊を神殿の至聖所にして永住されます。そして霊だけでなく、聖所である心を満たし、大庭である舌を清めてくださいます。

舌は体の一部ですが、発せられる言葉によって全体に影響を及ぼします。息の語源は霊であることから、本来言葉は霊から発せられることによって創造の力を帯びました。

しかし聖霊に連結されない舌は魂から発せられますので、ヤコブ書3章5節以下で述べられる通りです。

舌は小さな器官ですが大きな森をも燃やす火であり不義の世界です。人生の車輪を焼きゲヘナの火に焼かれます。」そして8節、「舌を制することは誰もできません。少しもじっとしない悪で死の毒に満ちています

14節、その言葉は「上からでなく、苦い妬みや敵対心から生じ、地に属し肉に属し悪霊に属す」とあります。

エレミヤは人の心は何よりも陰険で直らない、それは湧き水の源である主を捨てて、自分でほった壊れた水溜の薄汚いたまり水に根を下ろしているからだと語りました。(エレミヤ書2章13節)

 こわれた水溜とは偶像礼拝であり、被造物である人間の力を結集して天に登ろうとしたバベルの塔建設に代表されます。

この自力依存が混乱(カオス)と分断をもたらしました。神の霊のもとに人は一致と一つの思いをもってアガペの愛に生きるのですが、聖霊による神のいのちを失うと心も言葉も通じ合わなくなります。

 

しかし、神はこの失われた世界にご自身を投じてくださり、ご自身の永遠のいのちを与えられました。聖霊による救いと交わりと力の三つの油注ぎです。

父、御子、御霊の三位一体の創造主の交わりへと私たちを引き上げ、神のいのちと愛に満たしてくださるのです。

罪によって、この世の霊に支配された言葉は、単に肺からの息によって思いを発する手段だけになりました。そのサタンからの解放のためには、より強い力が必要です。

 人間自身から発せられる証言は、この世を支配する霊に太刀打ちが出来ません。

ですから、「兄弟たちは小羊の血と、自分たちの証の言葉によって彼に打ち勝った」(ヨハネ黙示録12・11)とあるように、聖霊から出る力ある言葉のみが勝利させるのです。

 

神に連結された言葉こそが悪霊からの救いと祝福をもたらします。私たちは自分自身というバベルを根底から悔い改め、自分に頼るのでなく、より深きにおられる内住の聖霊様に頼りましょう。

自分の魂(プシュケ)からでなく、内住の神のいのちの息であられる聖霊(プニューマ)に語っていただくことです。

そのためには自分に頼るのをやめて、自分の内に住んでおられる聖霊様に頼らなければなりません。

自分の弱さを知って、自我と魂が砕かれて、ただ主を仰ぐときに、神の炎の舌である聖霊が語り、爆発的に栄光を現わしてくださるのです。

新聖歌420雨を降り注ぎ

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世の光5月号・恵子・ホームズさん証し

2024-05-14 16:15:51 | 福音

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霊を見分ける

2024-05-05 21:08:01 | 福音

新聖歌376 いかに汚れたる

【ヨハネ第一の手紙4章1-16節】

星野 富弘さんが天に召されました。

「鈴の鳴る道」という詩があります。「電動車椅子に乗っていると、少しのでこぼこでも進むのが大変だ。
だから、なるべくでこぼこの道は避けて通ってきた。知人から小さな鈴をもらって、車椅子につけた。
偶然、でこぼこの道を通った。いやだと思いながら。そのとき、何とも言えない心に響く鈴の音が聞こえてきた。
何度も何度もそのでこぼこ道を通って鈴の音を聞いてみた。その日からでこぼこ道を通ることが楽しみになった。
『人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。』
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがない。人生のでこぼこ道にさしかかったとき、揺れて鳴る鈴である。美しく鳴らしつづける人もいるだろう。閉ざした心の奥に、押さえ込んでいる人もいるだろう。私の心の中にも小さな鈴がある。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日を送りたい。
私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。」

出エジプト記に以下のようにあります。

出 39:24 青服のすその上に、青色、紫色、緋色の撚り糸で、撚ったざくろを作った。39:25 また彼らは、純金の鈴を作り、その鈴を青服のすそ回りの、ざくろとざくろとの間につけた。39:26 【主】がモーセに命じられたとおりに、仕えるための青服のすそ回りには、鈴にざくろ、鈴にざくろがあった。

コリント第一の手紙12章は神の力の証の鈴であり、13章は神の愛の実であるざくろで、14章はもうひとつの神の力の証の鈴です。神的生命は人格的な愛の交わりと創造の力です。主は私たちにそのいのちを与えられました。聖霊が私たちに内住されて、父と御子との交わりに導かれ、御霊の実を現わされます。同時に「賜物(カリスマ)」としての知恵や知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、解き明かしが与えられます。ここで分かるのは霊的識別力は人間の自然的能力でなく、聖霊の祈りによる交わりを通して神から与えられる超自然の力だということです。聖霊はイエスを神の御子と告白(信じ)させ、御子とみ父との出会いと交わりに導かれます。十字架と復活の主への信頼です。事実確認と人格的関係が真の霊の働きです。モーセと戦ったエジプトの霊能者も不思議なことをして見せましたがまことの神との交わりはありませんでした。神のいのちは、この世の霊にない永遠性と清さ、復活の力があります。真の創造主との人格的交わりがないと、愛、喜び、平安、寛容、親切、慈愛、忠実、柔和、自制という神の性質の実を結ぶことができません。神に聴く力が無いので、自分の思いを独善的に述べるだけです。               目と口しか動かせない絶望的な弱さの中で、ただひたすら祈り主に頼った星野さんの内で主はユーモアにあふれた聖い人格と素晴らしい作品を生み出されました。信仰とは人格的信頼です。一番深くて身近な関係は、創造主であり、贖い主である主との関係です。主はいつでも子供と対話を望んでおられます。そしてどんな問題も「私にゆだねなさい」と語っておられます。主への丸投げ人生ほどエキサイティングで楽しいものはありません。 

新聖歌135 御霊は天より                         

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創造と復活

2024-04-21 16:54:52 | 福音

わが友にます

【コリント第一の手紙15章35-58節】

聖書を読んでいると、4福音書のイエス様の言葉や出来事に比べるとパウロの手紙は、何となく難しく感じます。手紙は相手が分かるように、相手の立場に立って時代や環境を考慮しながら書かれます。

「使徒の働き」を読むと前半はペテロの活動、後半はほとんどパウロの独壇場です。

これは福音がユダヤのガリラヤからエルサレムへ、そして地中海からギリシャのコリントへさらにピリポからローマへ拡大されてゆく歴史を反映します。

 ギリシャにはイエス様が誕生する前400年代に活躍したソクラテスのような哲学者はじめ豊かな文化がありました。そのような背景を持つ人々に福音を伝えるためにもギリシャ語で書かれ、哲学的な用語も使用されなければなりませんでした。

 そこでプシュキコス(精神・魂・自然的生)、ロゴス(言葉)などが用いられています。

ここでは自然的創造が生殖によってなされ、種(遺伝子)がやがてそれぞれの体を形成することを例にとって、新しい創造である復活の体について説明されます。

植物も動物も遺伝の法則によって繁殖します。

あなた方は新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく朽ちない種からであり、いつまでも変わることのない神の言葉に依るのです。」(ペテロ第一1・23)とありますように、神のいのちの種である聖霊によって永遠の復活の体が形成されるというのです。

血肉の体(ソーマ・プシュキコン)があるのですから御霊の体(ソーマ・プニュマティコン)もあるのです」(44節)「最初の人アダムは生きた者(プシュケン・ゾーサン)となり、最後のアダムは生かす御霊(プニューマ・ゾーオポイスン)になった」(45節)

アダムは自然的生と魂を持つ人であり、キリストは超自然的創造者の霊を持つ者という意味です。

精神を含む人間はあくまで被造物であり、それ自身は朽ちる運命にありますが、御霊を持つ者は創造主と結ばれているゆえに永遠であり、やがて復活の体も与えられるのです。

精神力や人間の知力は、体力と同じようにやがて衰弱します。哲学によって人は救われない訳です。ヘレニズム思想においては精神が絶対化され肉体は軽視されました。これは人間の仏性や祖霊を崇める仏教思想や明治天皇を祀る明治神宮、戦死者を英霊として崇める靖国神社などの神道に通じるもので、仏壇で位牌を死者の霊魂を拝むのですが、創造霊を拝むことになりません。また独裁者の像や教祖を拝ませる偶像礼拝も同じです。

まことの信仰とは創造主に立ち返らせ、その霊Spiritにおいて永遠の交わりに至らせるのですが、被造霊spiritsもしくは被造物(マモンとしての富など)に依存し、信頼すべき方からそらせる的外れ(罪の原語)な道なのです。

神に直結することのない、曲がった方向です。

「この知識の木の実を食べたら神のようになれる」という自己を神にしようとするサタンの誘惑です。

創造主との対話を失った独立独歩の、天に閉ざされた道、そのようにしてアダムを通して死が人間と全被造物支配することになりました。創造の源泉であられる神から引き離された世界です。

ですから復活が信じられないのでした。

御子の十字架の贖いを通して御霊が注がれ、神と結ばれることによって永遠が体験されます。イエス様が、ぶどうの枝は幹に結ばれた時に実を結ぶといわれたように、神が私たちのもとに来られて一つになってくださることによって、新たな創造、救いが起こります。

この土の器はやがて栄光の体に変えられる日がやってきます。その日が来る前の現在においても聖霊様は私たちに内住されて、サタンに勝利させ、神との交わりに導いておられます。人間的に弱くても、御霊は私たちの力となり愛となりすべてとなって復活のいのちを現わされ、ついには栄光の体に変えてくださるのです。

たてよいざたて

主の御霊よ

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イエスは岸辺にたっておられた

2024-04-08 10:05:23 | 福音

ナザレのふせやに

【 ヨハネ福音書21章1-17節】

21章は付録の部分と言われます。書き足りなかったことを示されて追加されたのです。奇妙なことは二度も復活の主に出会ったのに、ガリラヤに帰って、琵琶湖の4分の一ほどのなつかしい湖で漁をしていることです。

もしかしたら、主の復活の噂を聞いても信じられずにエマオの村に急いだあの二人の弟子のように、エルサレムにいる危険性を覚えて逃げる思いで里帰りしたのかもしれません。

ペテロは主に出会ったはずですが、それでも確信が持てなかったと考えることもできます。本名は、風に揺らぐ「葦」の意味で、すぐ信じても、次の瞬間は疑うという弱さを持っていたようです。

主に倣って水の上を歩んでも、波を見て恐ろしくなりズブズブ沈みかけたこともありました。一番弟子を自負しながら十字架を前にした主を知らないと三度も裏切りました。

復活は人間の世界や経験を超えた、創造主の世界ですから容易には理解できません。

ヤゴは水中で生まれ育ち、やがて空中に挙げられて翼をもつトンボになりますが、水の中にいる限り陸のことはわかりません。

多分半信半疑の思いの弟子たちは、以前からの漁に戻りました。いつどこに網を降ろしたら、網にかかるか、長い経験で知っていました。しかし、一晩労苦しても一匹の魚も獲れません。

夜が明け始めて岸辺に立つ誰かが「子たちよ、獲物はありませんね」、「船の右側に網を降ろしてごらんよ。」と叫びました。

その声に従ったところ、おびただしい数の魚が網にかかりました。

主はずっと岸辺で見守っておられたのだと現在完了形で記されています。

復活の主は、いつでもどこでも共にいてくださるのですが、弟子たちは世と自分の働きだけに夢中になって、一番大切な方をすっかり見失っていたのでした。

私たちも自力だけに頼って、内住の聖霊様を軽視すると、霊の目が曇り仰ぐべき復活の主を見落としてしまいます。

この弟子たちの経験は、やがて主の働きをすることになる、伝道と牧会の教訓でもありました。

神からご覧になると、この世界はご自分から離反し霊的に死んだ状態です。

ガリラヤ湖は地中海よりも水位が低く、盆地の中にありますから、突風が吹いて大荒れになると非常に危険になりました。

 そのような死の海から、引き揚げて救い出すのが伝道であり、救いであります。ヨナは大魚の胃の中で僅かな酸素を吸ってかろうじて生き延びましたが、水中では呼吸できませんから窒息死します。

 息(ルーアッハ)がないと肉体が死滅するように、神の息がないと霊的に生きてゆけません。

 「人間をすなどる漁師にしてあげよう」(マタイ4・5)と、かつて主は約束されましたが、それは罪と死に沈んでいる人々が悲惨な闇の淵から引き揚げられて、聖霊の息吹によって霊のいのちによみがえる働きにたずさわることを意味します。新生(神生)して永遠の神の子にされるのです。

そして主はパンと魚で共に食事をされました。

神との交わりのなかで、神の子は成長(聖化)します。人間としての誕生と成長があるように、神の子は聖霊によって生まれ、聖霊によって成長して主の働き人にされます。聖霊によって新生したのですから、聖霊によって聖化されます。聖霊は、十字架の贖いの血を通して私たちの不信仰と罪を絶えず洗い清めて、主との永遠の交わりに導かれます。三度、主はペテロに「私を愛するか」と語られます。シモンからペテロ(岩)に改名されたのは、信仰告白による新生のときでしたが、自分に失望し悲しむことによって、かえって主を仰ぎそのみ言葉に頼りはじめたときに文字通りゆるぎない羊飼い、牧者として建てられてゆきました。

愛する主よ

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