創造

創造主とセルフイメージの世界

フルベッキ写真資料(戸川残花追加)

2010-06-11 10:21:10 | 旅行記

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戸川残花『太陽』投稿原文1895(明治28)「togawaverbeck.pdf」をダウンロード

戸川は写真に写るのは30年前(1865年)の武士と述べキャプションには

『維新前の長崎の洋学生Students of Foreign Langwages At Nagasaki Before Restoration』(秀英舎印刷・小川一真写真彫刻銅板)とある。

以下は現代文訳

「フルベッキ博士とヘボン先生」

戸川残花

(雑誌「太陽」第一巻第7号明治28年:1895より

)

フルベッキもヘボンも日本人の言いなれた名である。英語ではRev.G.F..Verbeck,D.,D

Dr,I.C.Hepburn,M.D.LL,Dである。

世の中のことは一朝にして成るのでなく、ある人の説によれば歴史上現れた偉人の功績を遠くさかのぼって考えると、少なくても150年前にその起因が発せられるとのことである。

そのとおりだと思う。

明治元年より152年前の享保に徳川吉宗は七代将軍家の職を受け継ぎ、中興の英主と仰がれた。

この英主、吉宗は150年後の明治の聖代とどのような因縁をもつのか、享保の政治はその優作という面で数多くあるが、特に注目すべきは,キリスト教書を除いて、禁を解いて洋書を購読することを許可し、儒学家臣、青木敦に蘭学(オランダ学)を学ばせたことである。

蘭書が西洋の開花を導き、医学、法律、兵学などの導入をわが国にもたらしたのは、改めて言うに及ばないことである。

その蘭学はフルベッキ氏とどのような関係があろうか。

フルベッキ氏は米国人か英国人か、フランスか、イタリアか、オーストラリア人か 西方人か。

誰かが、もし氏と半日過ごしたなら、上手な日本語を用い、特に少し長崎の訛りを交えて語るだろう。

客がもし、うつむいて聞くならば、少しも外国人に対面している感じはしない。もしフランス語を知っている者が、試みに、フランス語で法学のことを質問すれば、氏は了解し、必要であれば流暢なフランス語で答えられる。もしドイツ語に堪能なものが、科学のことを問うならば、豪壮な発音で、たちまちドイツ人のごとくに話されるであろう。もし白髪の老人で少しオランダ語を理解するならば、記憶した「グランマチカ」によってオランダ語で話し、和気あいあいとして、オランダ語で答えられる。米国の宣教師と聞いていても、誰もが心のうちで、どの国で生まれたのかと問わずにおれない気にさせられるに違いない。

フルベッキ氏は、オランダ人であり、1830年生まれで「モラヴィアン」派の学校で教育を受け、別けても、優秀なのは語学であった。当時、すでにドイツ、フランス、イギリス、オランダの国語を習得していた。氏もこれらの学習がやがて日本のために役立ち、東洋の文明開化の導きとなるとは夢にも思わなかったであろう。

他の人は天機というだろうし、私は神の御心という。氏のように広い語学者には、母国語というものはなく、語学の上にはほとんど、自国の別はないようではあるが、日本のためにその生来の土音国語、即ちオランダ語が長崎に来たはじめには最も必要な語学であった。氏が生まれた年は今から65年前で、初めて鉄道というものが世に現われた時であり、ヨーロッパの世運も一大動機を発した頃で、人々は皆、機会土木の業に心を傾けていた。氏の親戚もその職業を選ばせるにあたり、工学関係がよいと考えて工学を学ばせた。

学業を終え、職を求めてアメリカ合衆国に渡り、ウィスコンシン、アルカンサスなどで4年を送ったが、氏の性格上工業に従事することだけでは満足できず、ついにキリスト教の教師になることを決意して1856年ニューヨーク州アウブルンの長老派神学校に26歳で入学した。

わが国は安政元年にあたり、アメリカの使節ペリーが浦賀に来航し、国内の人心は恐々とした時であった。

1857年に、米国艦船ポウハタン号が長崎に来て、そのときのチャプレン(艦つきキリスト教教師)はウード氏であり、ウィリアム博士などが企画して日本に新教(プロテスタント)を布教せんと願い、書簡を合衆国の監督、長老、「ダッチリフォムド」(オランダ改革派の意)の諸教派に送り、宣教師派遣を要請した。

実に37年前のことである。

当時は長崎ですら通訳語というオランダ語のみで、武士は髷を結い、大小の刀を腰に差し、300の諸藩は土地を分割し、江戸では大名が行列をなして、大道狭しとばかりに通行していた時代である。

このようなとき、諸派の教師は宣教師を日本に送る審議をし、よく知られている「ダッチリフォムド」派から送ることを望んだ、なぜならばオランダは歴史的に日本と深い関わりがあったからである。

諸教師は神の御心も「リフォムド」派から遣わされることと信じ、ついに、オランダ生まれでオランダ語に堪能な三人を派遣することを決議した。

ニューブランズイクの神学校には三人のオランダ人がいたが、入学して間もない者たちで、宣教師とみなすことはできなかった。やむを得ず広く全国から募集すると、アウブルン校を卒業することになっている青年ギドー・フルベッキという名の者が、日本に派遣するのに適すというホール、ホーレン両博士の推薦があった。

フルベッキ博士はこのようにして日本にきたのである。

蘭学、オランダ人を歓迎するように天は150年前の享保年間に蘭学を習う端を開き、他の外国人とは待遇の異なる、友愛の情趣のある国民としてみられたオランダ人によって、わが国を近世の開花に導き、その宗教を宣教するというのは偶然のことなのだろうか。

個人の業績を詳細に観察すれば、世界観にも通じることができる。

歴史眼は伝記を見ることによって成熟するのである。

フルベッキ博士は、ただちに任職式を受け、宣教師となり行李をまとめてらんを解き帆を開いて宣教の道にのぼったのは18595月であり、氏と共に宣教のために日本に向かったのはSK ブラウン博士,医学士シモンズ氏であった。明治前後に京浜地方に遊学あるいは医学の志あるものでブラウンとシモンズの名を知らないものはないであろう。

三氏は、海路で同年117日長崎に到着した。わが国の万延元年で井伊大老が暗殺された年である。

監督派のウィリアム氏も中国から病気療養のため長崎に来た。

宣教の第一歩は国語を学習することで、幸い中国語訳の聖書とマルチン氏著書天道潮源があり、氏はまず中国訳の本によって宣教を手がけることになった。ああ、欧米の人が中国の文字を借りて、わが国に宗教、学芸の道を開いたのである。

同じ文のわが国は、中国を文明に導くことは容易であり、法律家,医師,工芸家、詩人、文人は縁大な筆で

28年間養った近世の知識を四百余州十八省に伝えるのがわが国の天職ではあるまいか。

今や,武力でおごり高ぶりの愚を懲らし、漢文を利用して知徳を彼らに伝え共に東洋全体の利害を企画するべきである、慶応、明治の初めにマルチン、ゴウソン、イリアム諸氏の口で訳し、漢文に写させて、医学書、

博物、地理、史伝はわれわれの開明に大きな役割を果たした。

既に開国の機会は熟していたので、氏が長崎にいるとき、夜ひそかに訪問して道を問う医師、遠く肥後(佐賀)

より来た僧もあり、みな漢訳の本を受け取って愛読し、おしまいには氏が持参した書物は一部も与えるものがなくなった。しかし、このように中国語訳本の頒布はキリスト教を慕うのみでなく、訳書によって、他の意思

を窺い、邪宗門である耶蘇教はどのようなものか知るために来たものも多かったという。

鎖港の説や攘夷論は弊害であり、愚かであるとはいえ、中国朝鮮にまごころ国のため歯噛みをして政論を戦わす者がいるだろうか、宗教の真偽を知ろうとして夜間、外客のところに来て道を問うものがいるだろうか。

ある老僧は、その徒弟に氏に就いて三年の長い期間,倦まずに教えを聴き、氏がその僧に伝道をしてみなさい

と言うほどなったが再びこなくなったとのことである。これらは深く教理を探り、キリスト教を排斥するため

だったらしい、今、その老僧の名を知ることはできないがその教えのために尽くしたといえよう。

日本人はまだ天主教(カトリック)と新教(プロテスタント)との区別を知らず、混同して批難する者も少なくなく「長崎話」「邪宗門の話」(?)などの小冊子は世に公にされていた、みな仏教家の手によりできたと言う、刊行は1868年というから明治元年のことである。

以上は氏が直接伝道を始めた当時の情況であるが、伝道のほかに(氏は同一の目的を達したのであえるが)わが国の開明に益する道は英学を教えることから開かれた。長崎に来て2年後、二人の青年が英文で聖書を学ぶことを求め、数ヶ月の通学し、ある日得意顔で、二頭の黒豚を謝礼として送り、氏の教授により試験成績も大変よく、政府から賞与をうけたとのことである。このことから氏の名が日本人に知れ渡ることになり、ついに

長崎の公立学校に招かれることになる、当時はまだ徳川家が政権を奉還される前で慶応元年西暦1864年で

この学校とよばれたものがいかなる人によって支配されていたか、今は知ることができないが、この伝記を読んで官庁か、ちまたに「私も当時の書生であった」と微笑する人もあるだろう。

氏はこの時から身は宣教師であったが派遣された「リフォムド・ミッション」からの支給を謝し、14年間は全く日本政府に招かれいわゆるお雇い外国教師の名で、その語学と博識により、顧問の地位にたって、官吏の職の勤めに尽力した。

前述のように二三の青年が英語を学ぶため聖書を読み、或いは謝礼金を受けなかったので黒豚をもって、その懇情に報い、或いは学生から紹介されて学校に招聘されるなど、維新前後の世の私塾、学校、学生の様子が

しのばれる。当時の学生はどのような生活風習であったか、もとより士人であるからいかめしく袴をはき、紋付の服を着用し,その素質は仙台、呉仙、羽二重、亀綾の貴品ではないが、小倉の袴折り目正しく、黒木綿の紋付いやみなく、両刀は金銀で飾ってあるが、多くは南蛮鉄の装飾で官吏武人であることを現わしている。

髪は固く結び、少しまなじりをつるようで、特に九州武士はこのような様相であった。

氏が佐賀の学生と共に撮影した写真を見ると、30年前の武士が眼前に出てくるような感じがする。

Verbecktogawa

氏は特に佐賀の藩士に知人が多く、村田若狭(鍋島家の重役)が教えを聞いて受洗しキリスト教徒になったのは今から29年前のことであり、わが国におけるキリスト教徒の先駆けである。

(当時は日本全国にキリスト新教信者は二人だけであった)

長崎の学校に招聘された後、佐賀藩士を教育するため、鍋島家が長崎に学校を開き、隔日に教授することになった。

この学校の生徒の中に、今は岩倉公爵とその令弟(具経朝臣か)もおられたと言う、江藤新平氏もまた中野賢明氏もおられたとか。両校は実に俊才を輩出させたところで、今日誰かを明らかにしがたいが、朝廷に立ち、また民間にいて明治の大業に貢献した人々もある。

慶応の末から明治の初めは,海内は騒然として人身は恐々としていた。しかし両校は一日も課業を休むことなく京畿の戦いも東北の内戦も終わり、硝煙弾雨が晴れて、氏は招聘されて東京に上り開成所の教授となり、すべての外国語と外国語教師の監督を任じられた、氏が長崎を離れたのは1869

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