
関西、四国のツアーも無事に終わり、ようやく東京に戻りました。素晴らしい出会いに感謝しております。
しかし、東京もまだまだ蒸し暑い日が続きますね。台風や地震も心配ですが、来週からはまたまた北海道ツアーも始まります。北海道のみなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
今回、大阪野崎観音でとても懐かしい人と出会うことができました。これも観音さまのお引き合わせ・・・。
平成元年に結婚式をし、そのままNYに新婚旅行に行った私たちが待っていたさまざまなハプニング・・・・。本当に昔の話ですが、特にヨットマン『多田雄幸さん』のことを未だに忘れることはできません。その恩人でもある多田さんの理解者であったYさんが25年ぶりに私たちの名前を見て、コンサートにいらしてくれたのです。あのときの貴重なビデオを持って・・・・。
なんと、多田さんの親友であった植村直巳さんも野崎観音を訪れていた。そして、亡くなったあとに多田さんと植村さんの奥様も野崎に・・・。ああ、なんというめぐり合わせでしょう。いろいろと昔のお話を聞かせていただくことができました。野崎観音にも感謝しております。
以前、「スターラップ新聞」というファンクラブ専門誌を発行しており、そこで5回に分けて掲載した私たちの「NYものがたり」をもう一度、ここに残しておこうと思いました。
どうぞ少しの間、おつきあいください。
「NYものがたり」
『お元気ですか?~(中略)~店をやめてからあちこちでお名前を拝見していて、「活躍してるんだな」 と思っていました。僕がアメリカに住んでいるとき、アメリカに演奏に来ていたという記憶が あります(記憶にはあまり自信がないんだけど)。僕もなんとか筆一本で生活していますが、楽器 ひとつというのも大変なんだろうなと推察します。ピーターキャット時代のことは、僕自身ときどき懐 かしく思い出します。ずいぶん昔のことになってしまったけど。~(後略)~ 村上春樹 』
大学2年の春、ジャズのライブがタダで聴けてLPも沢山聴ける素敵なアルバイトがあるよ、と先輩の紹介で勤め始めた『ピー ターキャット』は千駄ヶ谷の駅のすぐそば。木のぬくもりのある素敵な店だった。ジャズ喫茶の店主というのは、頑固で 一癖も二癖もあるような個性的な人物が多いのだが、この ピーターキャットのマスター、春樹さんは寡黙で穏和、世間知 らずで無責任のかたまりのような私に対しても、優しく忍耐 強く、様々な音楽(特にスタン・ゲッツが多かったけれど) を聴かせてくれ、チーズケーキやロールキャベツのおいしい 作り方まで伝授してくれた。にもかかわらず、その頃の私は 自分の事で精一杯。アルバイトも適当にやって、ずるずると 行かなくなってしまい・・・その時期に春樹さんは『群像』で賞をとり、着々と小説家への道を歩みつつあったが、逃げるよう にして店を止めてしまった私に対しても給料の残りを手紙を添えて書留で送ってくださるという律儀な人だった。
店をたたんで、小説家としてどんどん有名になっていく 春樹さんの様子を陰ながら応援しつつ『いつか謝って、お 礼を言いたい』と思っていた私はある本(村上朝日堂)に私の話が載っていたということがきっかけで、 20年振りに彼にメールを出したのだった。 返事なんて全く期待していなかったのだが、春樹さんか らメールがきた時は本当に嬉しかった。私の事を覚えて いてくれ、しかもNYで演奏していたのを知っていたな んて・・・エネルギー溢れるジャズの街マンハッタン で、必死に何かを求めて利樹と2人で闘ったあの頃、雑 踏の中で沢山の人たちと出会い、助けられ、感動した 数々の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。 いつかはきちんと書きたいと思っていた、NYの熱い 日々、そして2人のタクシードライバーの話をこの場を借りて書き記そうと思うのでどうかおつきあい下さい。
<Blue Monkとオケラ号>
1986年夏、池袋『ぺーぱーむーん』という小さなジャズの店で 『多田雄幸』というヨットマンに出会った。当時彼は60歳独身。 「オケラ号」という手造りのヨットで「世界一周単独ヨットレー ス」に9年前出場し優勝してしまった、知る人ぞ知るあの多田雄 幸だ。(詳細は沢木耕太郎著『馬車は走る』、多田雄幸著『オケ ラ号優勝す』をお読み下さい。) 普段は個人タクシーの運転手をやりながら、暇さえあればジャ ズを聴き、好きな時に清水港にある自分のヨットに乗りに行き、 越後訛の独特な喋り方と暖かい人柄でどんどんまわりの人々を魅 きつけ、志ん生と共に小唄を習い、絵を描けば二科展で入賞、 サックスも自己流でパオーっと吹いてしまう、60歳とは思えない ほど元気なおじさん。でも決して無理はしない、自分のペースで 碓実に一歩一歩進んで行く人だった。 もともとジャズ好きで、『真夏の夜のジャズ』というニュー ポートジャズフェスティバルのドキュメント映画を観た時に、大 好きなセロニアス・モンク(p)が『Blue Monk』を弾くシーンと ヨットレースの風景がオーバーラップしたのがきっかけでヨット に惹かれ、初めて造ったヨットに付けた名前はもちろん『Blue Monk』.


「ジャズが大好きでアルトサックスを買ったのに、今までジャズを吹いた事がないんです。難しいですからね。」初めて私がぺーぱーむーんで多田さんと出会った時、ジャズマンに対する憧れ、尊敬を抱いてジャズやヨットとの出会いを熱く語ってくれたを覚えている。ヨットレースの途中、燃料補給で寄港する時も、迎える人たちの前でサックスを吹いてから陸にあがる、その時に吹く曲は『波浮の港』。そんな彼と私達が意気投合するのに時間はかからなかった。気が付くと「今度、ブルーモンクを練習してきますから、私のヨットの上で一緒に演奏しましょう!」「いいですねえ。」酒席で約束を交わし、一週間後には三保の松原を望むオケラ号の上でブルーモンクの共演が実現した。それ以来ヨット、海辺、ぺーぱーむーんで数えきれないくらい演奏し、私たちは楽しい企画をたてては次々に実行して行った。そんなある日、「さっちゃん、俺もう一度、あのヨットレースに挑戦する事にしたから、ニューポートでブルーモンク吹いて見送ってくれませんかねえ。」と言い出した。

『世界一周単独ヨットレース』というのは、4年に一度の 過酷なレース。世界一周するのに約10か月かかる。シングル ハンド(単独)なので万一ヨットから落ちたり、病気になっ ても誰にも助けてもらえない、30隻エントリーしてもその中 で無事に帰ってこれるヨットは半分以下、という命を賭けた 男の闘いだった。 「そのレースはいつ頃なの?」「来年(1990年)の 9月15日。今回は俺自身が設計をして造ります。スポンサー もつくから、8月にNYで合流して遊びましょう!」「いい ね、いいね。」気軽にあいづちをうちながら、私の頭の中に は『マンハッタンライブデビュー計画』がぐるぐると駆け巡っていた。 (つづく)

しかし、東京もまだまだ蒸し暑い日が続きますね。台風や地震も心配ですが、来週からはまたまた北海道ツアーも始まります。北海道のみなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
今回、大阪野崎観音でとても懐かしい人と出会うことができました。これも観音さまのお引き合わせ・・・。
平成元年に結婚式をし、そのままNYに新婚旅行に行った私たちが待っていたさまざまなハプニング・・・・。本当に昔の話ですが、特にヨットマン『多田雄幸さん』のことを未だに忘れることはできません。その恩人でもある多田さんの理解者であったYさんが25年ぶりに私たちの名前を見て、コンサートにいらしてくれたのです。あのときの貴重なビデオを持って・・・・。
なんと、多田さんの親友であった植村直巳さんも野崎観音を訪れていた。そして、亡くなったあとに多田さんと植村さんの奥様も野崎に・・・。ああ、なんというめぐり合わせでしょう。いろいろと昔のお話を聞かせていただくことができました。野崎観音にも感謝しております。
以前、「スターラップ新聞」というファンクラブ専門誌を発行しており、そこで5回に分けて掲載した私たちの「NYものがたり」をもう一度、ここに残しておこうと思いました。
どうぞ少しの間、おつきあいください。
「NYものがたり」
『お元気ですか?~(中略)~店をやめてからあちこちでお名前を拝見していて、「活躍してるんだな」 と思っていました。僕がアメリカに住んでいるとき、アメリカに演奏に来ていたという記憶が あります(記憶にはあまり自信がないんだけど)。僕もなんとか筆一本で生活していますが、楽器 ひとつというのも大変なんだろうなと推察します。ピーターキャット時代のことは、僕自身ときどき懐 かしく思い出します。ずいぶん昔のことになってしまったけど。~(後略)~ 村上春樹 』
大学2年の春、ジャズのライブがタダで聴けてLPも沢山聴ける素敵なアルバイトがあるよ、と先輩の紹介で勤め始めた『ピー ターキャット』は千駄ヶ谷の駅のすぐそば。木のぬくもりのある素敵な店だった。ジャズ喫茶の店主というのは、頑固で 一癖も二癖もあるような個性的な人物が多いのだが、この ピーターキャットのマスター、春樹さんは寡黙で穏和、世間知 らずで無責任のかたまりのような私に対しても、優しく忍耐 強く、様々な音楽(特にスタン・ゲッツが多かったけれど) を聴かせてくれ、チーズケーキやロールキャベツのおいしい 作り方まで伝授してくれた。にもかかわらず、その頃の私は 自分の事で精一杯。アルバイトも適当にやって、ずるずると 行かなくなってしまい・・・その時期に春樹さんは『群像』で賞をとり、着々と小説家への道を歩みつつあったが、逃げるよう にして店を止めてしまった私に対しても給料の残りを手紙を添えて書留で送ってくださるという律儀な人だった。
店をたたんで、小説家としてどんどん有名になっていく 春樹さんの様子を陰ながら応援しつつ『いつか謝って、お 礼を言いたい』と思っていた私はある本(村上朝日堂)に私の話が載っていたということがきっかけで、 20年振りに彼にメールを出したのだった。 返事なんて全く期待していなかったのだが、春樹さんか らメールがきた時は本当に嬉しかった。私の事を覚えて いてくれ、しかもNYで演奏していたのを知っていたな んて・・・エネルギー溢れるジャズの街マンハッタン で、必死に何かを求めて利樹と2人で闘ったあの頃、雑 踏の中で沢山の人たちと出会い、助けられ、感動した 数々の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。 いつかはきちんと書きたいと思っていた、NYの熱い 日々、そして2人のタクシードライバーの話をこの場を借りて書き記そうと思うのでどうかおつきあい下さい。
<Blue Monkとオケラ号>
1986年夏、池袋『ぺーぱーむーん』という小さなジャズの店で 『多田雄幸』というヨットマンに出会った。当時彼は60歳独身。 「オケラ号」という手造りのヨットで「世界一周単独ヨットレー ス」に9年前出場し優勝してしまった、知る人ぞ知るあの多田雄 幸だ。(詳細は沢木耕太郎著『馬車は走る』、多田雄幸著『オケ ラ号優勝す』をお読み下さい。) 普段は個人タクシーの運転手をやりながら、暇さえあればジャ ズを聴き、好きな時に清水港にある自分のヨットに乗りに行き、 越後訛の独特な喋り方と暖かい人柄でどんどんまわりの人々を魅 きつけ、志ん生と共に小唄を習い、絵を描けば二科展で入賞、 サックスも自己流でパオーっと吹いてしまう、60歳とは思えない ほど元気なおじさん。でも決して無理はしない、自分のペースで 碓実に一歩一歩進んで行く人だった。 もともとジャズ好きで、『真夏の夜のジャズ』というニュー ポートジャズフェスティバルのドキュメント映画を観た時に、大 好きなセロニアス・モンク(p)が『Blue Monk』を弾くシーンと ヨットレースの風景がオーバーラップしたのがきっかけでヨット に惹かれ、初めて造ったヨットに付けた名前はもちろん『Blue Monk』.


「ジャズが大好きでアルトサックスを買ったのに、今までジャズを吹いた事がないんです。難しいですからね。」初めて私がぺーぱーむーんで多田さんと出会った時、ジャズマンに対する憧れ、尊敬を抱いてジャズやヨットとの出会いを熱く語ってくれたを覚えている。ヨットレースの途中、燃料補給で寄港する時も、迎える人たちの前でサックスを吹いてから陸にあがる、その時に吹く曲は『波浮の港』。そんな彼と私達が意気投合するのに時間はかからなかった。気が付くと「今度、ブルーモンクを練習してきますから、私のヨットの上で一緒に演奏しましょう!」「いいですねえ。」酒席で約束を交わし、一週間後には三保の松原を望むオケラ号の上でブルーモンクの共演が実現した。それ以来ヨット、海辺、ぺーぱーむーんで数えきれないくらい演奏し、私たちは楽しい企画をたてては次々に実行して行った。そんなある日、「さっちゃん、俺もう一度、あのヨットレースに挑戦する事にしたから、ニューポートでブルーモンク吹いて見送ってくれませんかねえ。」と言い出した。

『世界一周単独ヨットレース』というのは、4年に一度の 過酷なレース。世界一周するのに約10か月かかる。シングル ハンド(単独)なので万一ヨットから落ちたり、病気になっ ても誰にも助けてもらえない、30隻エントリーしてもその中 で無事に帰ってこれるヨットは半分以下、という命を賭けた 男の闘いだった。 「そのレースはいつ頃なの?」「来年(1990年)の 9月15日。今回は俺自身が設計をして造ります。スポンサー もつくから、8月にNYで合流して遊びましょう!」「いい ね、いいね。」気軽にあいづちをうちながら、私の頭の中に は『マンハッタンライブデビュー計画』がぐるぐると駆け巡っていた。 (つづく)

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