minga日記

minga、東京ミュージックシーンで活動する女サックス吹きの日記

キューバ音楽旅行記8 キューバ危機?!!

2016年12月25日 | 
ハバナからサンティアゴ行きの飛行機を日本でおさえておらず、ハバナに来てからで大丈夫と安心していたら、これがなかなかとれなかった。それでもなんとかトシキとRIOがネットで必死に探しだし「エアロ・ガビオータ」という聞いたことのない航空会社のチケットを予約できた。

早朝、約束の時間より30分も早く迎えの車がやってきて私たちは叩き起こされるようにして、お世話になった宿に別れを告げた。

今日はFidelの葬儀の当日。式典が革命広場で開かれるというので大きなタクシーは1台も予約できず、また道路の混雑も考えてオンボロ車2台が早めに迎えにきたのだった。

大きな荷物はハバナの次の宿に預けて、それでもスーツケース1個、楽器(ベース、アンプ、バリトン)になった。手荷物もなるべく少なくということで、サックスが2本。小さい飛行機なのであまり多いと超過料金もばかにならないだろう、と思ってできるだけ身軽に、という対策。

ハバナの国内線の飛行場に思ったより早く到着した私たちは、1時間ほど待たされて、ようやくチケットカウンターへ。そこで荷物を預けたが超過料金もなにも言われなかった。毎回ここでハラハラドキドキなのだ。日本からキューバに来たのはエアロ・メヒコという会社だったが、大きさに関係なく楽器1個につき55ドルとられた。(2個で110ドル!)これくらいは想定内。(アルゼンチン行きのエミレーツでは1つの便につき15000円もとられた)。

無事荷物を預けられてほっとしながら、搭乗口の検査のところにいくと、突然、私のサックスを指差し「これはなに?楽器?だめだめ。もう一度カウンターに預けてきて。」と拒否された。ひえ〜〜〜〜、いままで自分のサックスを手荷物で持って入れなかったことなどなかったからびっくり。しかも、預けるつもりじゃないので、弱いケースに入れてあるだけなのだ。ど、ど、どうしよ〜〜〜〜涙。泣きそうになりながら、検査のおじさんに頼み込んでも「ダメダメ。」と言うばかり。どうやら、大きさとか重量は関係なく金属類が全てだめらしい。私にとって最大のピンチが訪れた。

私のケースはちょっとでもコツンとあたっただけでサックスに影響がでる。以前、ブラジルに行ってバスの荷台から転がり落ち、ソプラノがひん曲がってしまったことがあった。嫌な予感がする。

しかもこんな場所で梱包の道具もない。涙目で係員に「これ、すご〜〜〜くデリケートなの。大切に扱ってください。」とFrangleのシールをベタベタと貼ってもらって・・・・後ろ髪をひかれる思いでサックスたちとしばしのお別れ。こうなったら神に祈るしかない。これが本当の「キューバ危機!」なんて冗談を言ってる余裕もなかった。



飛行機を見たら、小さなプロペラ機だった。中に入ると男の乗務員がと飴を手渡しながら「ここはFreeだから好きな席に座って。」告げた。自由席の飛行機なんて初めてだ。

こんな小さな飛行機の中にあんな大きなバリトンやベースを超過料金もとられずに入れてもらったのかと思うとなんだか申し訳ない気持ちになってきた。

サンティアゴはキューバの中でも一番南のはじっこ。「ソン」という音楽の発祥の地であり、ちょっと行けばジャマイカ。飛行機から見えるサンティアゴの街は美しい島の中にあって、山の多い土地だった。





2時間ほどでサンティアゴ・デ・クーバの小さな飛行場に到着。荷物受け取りのベルトコンベアーが動き出した。少しでもガタンとしないようになんとか受け止めねば、と一番先頭のところで食い入るように荷物が出てくるのを待っていた。

すると、違うドアからおじさんが私のサックスを1本づつ大事そうにかかえて持ってきてくれるではないか。おおお、なんと優しい。これだけで一気にサンティアゴの人が大好きになってしまった。

大荷物の私たちが一番最後に飛行場を出ると、「タクシー?」と聞いてくる男の人。「この大荷物だけど、大丈夫?」と聞くと「 OK!」と車を取りに走り出した。

オンボロで小さなセドリックのような車が一台目の前に。これにどうやって、全部乗せるの?無理でしょう?と思っていたら、おじさんはあれよあれよという間にベースとバリトンを屋根にくくりつけ、唖然とする私たちを乗せて颯爽と走り出した。



「ここは山に囲まれた美しい街だよ。ようこそ。」

そういえば、ハバナで臭かった排気ガスの匂いもない。気温もずっと暑くてようやく泳ぎたい、と思える気温になってきた。すれ違うのが馬車!というのにもびっくりした。ハバナよりも田舎でのどかな空気が町中に充満しているようだった。さあ、この街ではどんな出会いが待っているんだろう。(つづく)










セスペレス広場














キューバ音楽旅行記7 もう一つのジャズクラブ

2016年12月25日 | 環境
ハバナで有名なジャズクラブは、セサルが出演している「Jazz Cafe」ともうひとつ「Jazz Club La Zorra Y El Cuervo(ソーライクエルボ)」がある。

ソーライクエルボは宿から歩いて10分くらいの場所にあったので、一度寄ってみようとスケジュールを覗くと「ゲストにOliver Baldes」とあるではないか。これはチャンス!とばかり行ってみると様子がおかしい。どうやら出演者が変更になったようだ。

若手のテナー奏者がセッションのような感じのジャズを演奏している。決して下手ではないが、シーツオブサウンド(コルトレーン)をやたらに追求しているだけのつまらない音楽に聞こえた。せっかく来たのに普通のジャムセッションではがっかりだ。(もともとジャムセッションが苦手な私w。)入場料は5セウセ(ドリンク2杯つき)。ドラムはカノウプスだったのでびっくりしたが、どうやら日本からカノウプスが寄付したらしい。



キーボードの音が耳につんざくほどうるさく、テナーは音が小さく、音のバランスが悪くて、なんとか最初は我慢して聴いていたがRIOは耐えられなくなって「もう帰るよ。」と1セットが終わったら帰る支度を始めた。

私はこのお店でトレスのライブができないものかと思っていたので、帰ろうとするRIOに一緒についてきてもらい、出演交渉をするためにTReSのCDを持参し店のマネジャーに会いに行った。

「へー、Jazz Cafeでセサル・ロペスの前座で演奏したのかい?ちょうど来月(12月)の15日からジャズフェスティバルが開催され、海外からもたくさんミュージシャンが参加するんだ。もしかするとそこに絡められるかもしれないな。ブッキングマネジャーが明日いるので話しておくからまた明日いらっしゃい。」

サンティアゴからもどってくるのが12/13なのだ。なんというタイミングだろうか。さっそく翌日、黒人のWoldoというブッキングマネジャーに会いに行くと「ああ、きみたちか。CDを聞いたよ。16日の2バンド目だったら出演させてもいいよ。30分くらいだけどね。」とあっさり決定。

12/16は3つのバンドが出演することになった。やった〜!!! こんなにトントン拍子で出演できることになるなんて。ジャズフェスの時期がぴったりハバナにもどってくる時期にあっていたのも本当にラッキーなことだった。

これで、心置きなくサンティアゴへ向かうこととなった。しかし、サンティアゴ・デ・クーバもまったく知り合いがいない。河野さんのように頼れる日本人もいなければ知り合いのミュージシャンもなんの情報もない。不安だけれど宿だけはおさえていたので・・・これもあたってくだけろ、なんとかなるさの精神だ。










キューバ音楽旅行記6 キューバのバテリスタたち

2016年12月25日 | 
サンティアゴに行く話の前に、ハバナ(前半)で出会った凄いドラマーたち(バテリスタ)を動画つきで紹介しておきます。本当にこちらはパーカッションとドラマーの宝庫。

最初に、ちょうど私たちがセサルバンドに飛び入りした日くらいから、1週間ほど音楽大学の学生たちによるコンテストなるものが開かれていた。河野さんからスケジュール表をいただき、さらに招待券までいただいてしまった。

学生たちに混じって、プロの演奏家のライブもあるらしい。おすすめはどれですか?と河野さんに尋ねると「Oliver Baldesというドラマーがキューバで2番目に素晴らしいのでぜひご覧になっては?」ドラマー好きの私としてはぜひ見なくてはw。

Oliverのライブが夜中の11時からだったので、その前に夕方行われている「ロスハルディネス・デ・ラ・メシャ」(通称/ハルディン)で学生バンドの演奏を聴きに行くことにした。





ハルディンはテアトロナショナルというホールの横にある庭のようなスペース。ステージがセッティングされ、ベンチが適当におかれて好きなところに座って聴く。ステージ横でチキンのアサードを焼いていて、これがとても美味しかった。

学生バンドの演奏が始まった。キーボードのリーダーの男の子とドラムの デュオから始まった。とてもテクニックはあるのだが、曲がいまひとつ面白くない。テクニックばかりが目立つので音楽が楽しくないのだ。むむむ。そこにギター、ベースの若者達も加わってバンドになってきた。がんばれ〜、と見守っていると、途中でドラムの青年がマイクで誰かを呼んでいる。

黒人のキーボードとドラマーがステージにあがり、彼らの演奏の途中で交代。キーボードがソロを取り出したとたんにあたりの景色が変わった(ような気がした)。そしてドラマーのソロになったら・・・・・もう素晴らしすぎて声もでなかった。こんな凄いドラマーがいるのか?キューバ恐るべし。

大興奮の演奏後、私たちはさっそく彼らに声をかけた。ロランド・ルナpとロドニー・バレットdrだった。


ブエナビスタのピアニストとして活躍中のロランド・ルナp



ロランドに話を聞けば、ロドニーと共にこのコンテストの審査員なのだそう。彼のライブはしばらくキューバではないらしい。国家公務員だから安い仕事はしないのだろう。

「今度日本にブエナビスタで行くと思うよ。」

ロドニーの予定は?と聞くと「12/15にチューチョ・バルデスのバンドで叩く予定だ。」とのこと。わ〜、これは絶対に行きたい。なんとしてでも。

その時の映像。ロランド・ルナ
ロドニー・バレット


興奮さめやらぬまま、深夜は「ファブリカ・デ・アルテ」に向かった。会場には多くの人たちがごった返して行列をなしていた。が、私たちはいただいた招待券をちらつかせるとすぐに受付に入れてくれた。まるで水戸黄門の印籠のようだ。

そこで2セウセを払って入場(学生バンドではないので無料ではないが、200円ちょっと)。会場内もたくさんの人、人、人。中にいくつもライブ会場があって・・・動物的カンを働かせ、ずんずん奥へ入っていくとオリバーのグループが始まる直前だった。

トランペット、キーボード、ウッドベース、ギターにOliverという編成。途中でラップ、テナーが参加し、素晴らしいオリジナルばかりだった。



Olverのソロ

またまた凄いバテリスタを聴いてしまった。彼が2番目だと河野さんは言っていたが、じゃあ、一番は誰なんだろう・・・?と思っていたが、あとから聞いたら、「1番はロドニー・バレットです。」と。なんと、偶然にもこの日、1、2を争うドラマー2人を両方とも聴いてしまった訳だ。わはは〜。(つづく)


キューバ音楽旅行記5 TReSデビューとフィデルの死

2016年12月25日 | 
今回の滞在は2週間ハバナ、2週間サンティアゴ・デ・クーバ、1週間ハバナ、の合計5週間。

サンティアゴに移る2日前の金曜日、セサルから「TReSで演奏していいよ。」と許可を頂き、ついにJazz CafeでTReSが演奏できることとなった。


Jazz Cafeに行く前に、夕方からハルディンという庭で演奏するからきませんか、という河野さんのお誘いがあったので、またしてもダブルヘッダーに。河野バンドのキーボードの黒人が演奏あとに大喜びで「まるでNYからきたミュージシャンと演奏しているようだったよ。」と抱きしめてくれた。楽しいライブだった。河野さんも「これからもいろいろな店でどんどん、飛び入りして暴れてくださいw。」



そこからてくてくとJazz Cafeに向かった。ちょっと早めに入ってトシキも日本から持ってきたエレクトリックアップライトベースをセッティング。セサルたちもいつもより早めに到着した。

「さあ、いつでもいいよ。もう始める?30分くらいあげるから好きなように。」

はじめは2曲くらいかと思っていたので嬉しかった。もうすでにお客様たちが入り始めていたのでさっそくRIOがスペイン語でセサルとの出会いなどを話しながら演奏させてもらった。お客様も大喜び。最後は伝家の宝刀まで飛び出して(苦笑)、たった30分間だったが、やり尽くした。

舞台を降りると、セサルが熱い抱擁で迎えてくれた。セサルバンドのギター、エミリオも私たちの写真をバシバシ撮ってくれていた。さらにご機嫌になっている一人のキューバ人を紹介された。

「彼は有名なバテリスタ(ドラマー)だよ。オラシオっていうんだ。」はじめはピンとこなかったのだが、オラシオはニコニコと「初めまして。素晴らしかったよ。僕は日本にもなんども行ったことがあるよ。ペトリチアーニとかゴンザロのバンドにもいたんだ。」

だんだん、会話していくうちに・・・・ああああ、あの私の愛聴盤、キップハンラハンの「Deep Rumba」のオラシオ・フェルナンデスだった!!!きゃ〜〜〜。といきなりミーハーに。「私もブルーノートであなたを見ました。」それからの会話もずんずん弾んで・・彼は西海岸とNYとキューバに家があり、セサルとは大の仲良しで今回はキューバに恋人に会いに、そして練習を兼ねて戻ってきていたそうだ。大好きなDeep RumbaのCDの話になると、「あのとき、俺は精神病にかかっていたんだ。」などと凄い話まで。だからあんなに狂気に孕んだドラミングだったのね。素晴らしい出会いになった。セサルにも感謝。


オラシオと。



このあと、セサルたちのものすごいライブが行われたのは言うまでもない。面白いことに、どんなに拍手が来ても一切キューバではアンコールがない。その代わり、BGMでビリージョエルの「素顔のままで」がかかると、楽器を慌ててとりだして、おどけながらマイクに向かってフィル・ウッズのソロを一緒に(完全コピーで)吹き切ってヤンヤの喝采。さすがですw。

楽しいライブも終了し、オラシオたちとの会話もつきなかったのだがそろそろ帰ろうか、と立ち上がったとき、入り口近くのバーのテレビの音が大きく流れ、お客もミュージシャンも全員がニュースを見ることに。そこには「フィデル・カストロがなくなりました。」との報道が流れていたのだった。

その場に居合わせた人たち(観光客も多かったが)全員が「オ〜!」とショックを表して悲しんでいた。なんだか大変なことになったようだな、とうっすら思ったけれどどうしようもない。みんなに挨拶をしてJazz Cafeを後にしたのは深夜だった。

一晩あけて、宿泊の居間ではおばあちゃんたちがみんなテレビを見ていた。ニュースによれば、明日は葬儀が革命広場で行われるそうだ。ものすごい人になるだろう。

その日はギターリストのエミリオが家に招待してくれていたので昼に待ち合わせをしていた。エミリオに会うと、「今日から9日間、歌舞音曲が中止になったよ。」とのこと。

今日の夜もナショナルホテルのロビーで演奏させてもらうことになっていたのだが、それも一切中止ということだ。しかも今日はイタリアからドミンゴがやってきて始めてキューバで歌うということで話題になっていたのだが、当然それも中止だ。

ハバナ大学の前を通ると、学生たちが大勢集まりカストロ追悼の集会(動画あり)をやっていた。



エミリオの家でたくさん音楽を聴かせてもらって食事をして戻る。「9日間、いいバケーションになったよw。」とエミリオは平然として言った。ま、そんなもんかなw。相変わらず街じゅうのテレビではカストロ報道番組が流れていた。



明日の葬儀の日に私たちはサンティアゴ・デ・クーバに出発だ。(つづく)