もう一つ、別の側面から考えられる批判として、結局のところ、和解の効力についての意思表示の瑕疵を理由とする争いを認める以上、実質的に制限的既判力説と変わらないのであって、それを言葉巧みに言い換えているに過ぎないという批判である。
しかし、私は和解の効力問題ではなく、和解の成立問題として捉えているのであり、言葉だけの問題ではなく、次元が異なると思っている。仮に言葉を言い換えているに過ぎないとしても、それにより理解しやすくなるのであれば、言葉を言い換えた方が望ましい。そして、私は、本来存在するか存在しないかのいずれかでしかないはずの既判力について、和解の場合はその効力があったりなかったりするような制限的な既判力と説明するよりも、「有効な意思の合致」を「和解成立要件」として捉えて和解意思に瑕疵があれば和解不成立、瑕疵がなければ和解は有効に成立し、完全な既判力が生じるという説明の方が理解しやすいと思っている。
もちろん、請求の認諾、放棄も全く同様であろう。
以上が私の考えなのであるが、和解の既判力の有無についてやや混乱気味の議論に対し、一石を投じることができているであろうか。
しかし、私は和解の効力問題ではなく、和解の成立問題として捉えているのであり、言葉だけの問題ではなく、次元が異なると思っている。仮に言葉を言い換えているに過ぎないとしても、それにより理解しやすくなるのであれば、言葉を言い換えた方が望ましい。そして、私は、本来存在するか存在しないかのいずれかでしかないはずの既判力について、和解の場合はその効力があったりなかったりするような制限的な既判力と説明するよりも、「有効な意思の合致」を「和解成立要件」として捉えて和解意思に瑕疵があれば和解不成立、瑕疵がなければ和解は有効に成立し、完全な既判力が生じるという説明の方が理解しやすいと思っている。
もちろん、請求の認諾、放棄も全く同様であろう。
以上が私の考えなのであるが、和解の既判力の有無についてやや混乱気味の議論に対し、一石を投じることができているであろうか。